第七章 シオニズム(ユダヤ人の祖国回帰)への動き

(一)シオニズムの胎動

フランス革命産業革命、特に産業革命は資本主義を発達させ社会主義共産主義の思想を生んでいく。その中で産業革命に成功した国家は先を争い第三世界の国々にその手を伸ばし、列強間の対立抗争を引き起こし、国家、人種の考えにも変化もたらし、次第に世界は大きな危機を孕んでいくことになる。

人々の生活環境の変革は留まることなく、世界中に散っていたユダヤ人たちにおいても例外では無い。大きく変わる世界情勢の中で彼らユダヤ人はこれまで辛抱強く生活してきた。フランス革命を経て市民権を得つつ、ユダヤ人たちは互いの結びつきを再確認する考えが芽生えていく。フランスばかりでなくオランダ、ベルギー、イタリアなどヨーロッパの国々でも市民権を得てその社会に溶け込んでいく。

だが彼らは「自分たちはユダヤ人だ」という意識を消すことなく「ユダヤ人はユダヤ人だ」の思想が広がっていった。少数民族は差別され迫害を受けている。ナポレオンが唱える「国民国家」の考えをそのまま受け入れられないという動きはフランス革命産業革命の後も深く刻まれ続いていく。

忍耐強く勤勉であったユダヤ人たちは、散って行った先々のあらゆる分野で大活躍する。しかし、もろ手を挙げて歓迎されるものではなかった。これを妬み、排除する動きも次第に激しくなる。「反ユダヤ主義」(アンティ・セミティズム)である。ユダヤ人たちは大きく変わる世界状勢の中で「反ユダヤ」の波に揉まれていくことになる。

 

(二)パレスチナへのユダヤ人の移住「アリヤー」始まる

一九世紀後半になるとユダヤ人たちの中で「こんな差別や迫害から抜け出したい。自分たちの安らぐ所を見つけたい」との思いが次第に高まって行く。

一八八〇年代に入り、ロシアや東欧でのユダヤ人迫害運動(ボグロム)が激しくなると、故郷であったエルサレム地方に逃れ移り住む者が増え始める。「アリヤー」が始まった。「アリヤー」はヘブライ語の「上昇する」の意味から転じて、パレスチナへ「昇り来る」との意味が込められていた。ディアスポラによって世界各地に離散していたユダヤ人たちが、安心して暮らせる神との約束の地「エルサレムへ帰ろう」、エルサレムにある「シオンの丘」へ帰ろうという行動である。この動きは「シオニズム」と呼ばれる。つまりシオニズムは「シオンの丘」に帰ろうというもので、神との約束の地エルサレムへの回帰行動であった。

 

ドレフュス事件反ユダヤ主義

一八九四年、フランスで「ドレフュス事件」が起きた。フランス軍の砲兵大尉アルフレッド・ドレフュス(一八五九~一九三五)が軍事機密漏えい疑惑で逮捕され有利な証拠の存在にもかかわらず終身刑となり、南米フランス領ギアナ本島の沖にある政治犯流刑地「悪魔島」へ島流しになった事件である。最後にはえん罪と認められたが、彼がユダヤ人であったことにより反ユダヤ主義をめぐりフランスの世論を二分する大事件となった。作家エミール・ゾラの「私は弾劾する」で世界的に注目された事件である。

ユダヤ人は軍人になって命をかけて国を守っても、その国民として認められ差別を受けずに平和に暮らすのは無理だと悟った。ユダヤ人社会はこの事件を許すことのできない「ユダヤ人迫害事件」として追及し、これを機に一層シオニズム機運が高まっていった。

 

(四)テオドール・ヘルツルの活躍

ユダヤ人であるテオドール・ヘルツル(一八六〇~一九〇四)はオーストリアの代表的新聞「新自由新聞」のパリ特派員であった。ヘルツルはドレフュス事件を取材し、未だに根強いユダヤ人に対する偏見に強い衝撃を受ける。

一八九六年、ヘルツルは「ユダヤ人国家」という一〇〇ページほどの小冊子を著わし、差別され、抑圧されたユダヤ人も他の民族と同じように「自分たちユダヤ人の国、自分たちの安らぎの郷土」の創設を強く訴えた。ヘルツルは「ヨーロッパ各国にいかにユダヤ人が同化しても、ドレフュス事件で経験したように結局は反ユダヤ主義に差別され迫害される少数派だ。ユダヤ人をこのような迫害から解放するには地球上のどこかにユダ人のための国をつくり、そこで多数派となる以外に解決の道はない」「ユダヤ人の国が再建されない限り、ユダヤ人問題の真の解決はあり得ない」と主張した。だが当初はヘルツルの呼びかけにもユダヤ人同胞の反応は極めて冷たかった。しかしヘルツルは先頭に立ってシオニズムを推進した。

 

(五)シオニズム運動の発展、第一回世界シオニスト会議、バーゼル綱領採択

一八九七年八月二九日、ヘルツルの提唱によりスイスのバーゼルで「第一回のシオニスト会議」が開催された。世界中から二〇〇人近いシオニズム運動代表者らが集まった。彼らはシオニスト機構(後に世界シオニスト機構」と改称)の設立を決定し、シオニズム運動の到達目標を「パレスチナの地に、ユダヤ人のための、公的な法によって保証された郷土(ホームランド)を創設することを目的とする」と謳いあげた「バーゼル綱領」を採択した。ヘルツルはシオニズム運動の中心になって綱領実現に東奔西走する。シオニズム運動は次第に大きな広がりになっていった。

一九〇一年、パレスチナ土地購入機関「ユダヤ民族基金」が設立され、またロスチャイルド家などのユダヤ人大富豪から支援なども受け土地取得は進み、ここに移り住むユダヤ人が急速に増加していく。

新しい国の候補地はシオニスト会議で議論された。キプロスやエジプト国境などの案もあった。アルゼンチンや当時イギリスの植民地であったアフリカのウガンダなども検討された。しかし次第に「神との約束の地パレスチナの地にユダヤ人の国を創ろう」との結論で「シオニズム運動」はさらに活発になっていった。

 

(六パレスチナを「新しい国の候補地」と正式に決める、移住者さらに増加

一九〇四年、ヘルツル積極的にシオニズム推進に尽くすが、は四四歳の若さで他界した。

一九〇五年、第七回シオニスト会議で「パレスチナの地こそ安住の地」と移住地をパレスチナに正式に決定した。スローガンは「土地なき民に、民なき土地を(土地を持っていない民ユダヤ人に、人の住んでいないパレスチナの土地を与えよ)」であり、パレスチナへの建国の波は大きく高くなっていった。

当時のエルサレムは、人口七万人程度のオスマン帝国の小さな地方都市に過ぎなかったがユダヤ人移民の増加で次第に中核都市となっていく。第二次のアリヤーとも呼ばれる。ヨーロッパからの移住はパレスチナのほかアメリカへも多く向かった。

 

パレスチナへのユダヤ人移住と先住アラブ人の対立

ユダヤ人たちが住もうとするパレスチナの地は無人ではなかった。「民なき土地」ではなかった。先住のアラブ人たちは反抗を強めた。「ここは我々先住のアラブの民のいる土地だ、ネゲブ砂漠にはベドウィンもいる、民なき土地ではない」「ユダヤ人は我々の生活を脅かす侵略者だ」と反抗意識は高まり、各地でユダヤ人との対立や抗争が起きていく。ユダヤ人とアラブ人の対立抗争は大きな問題として続いていく。

第八章 第一次世界大戦前後の中東情勢

(一)第一次世界大戦への足音

一八世紀末に起こった産業革命により成功したヨーロッパ列強は、次第にアフリカ、インド、東南アジアなど第三世界の国々を侵略し、植民地化に先を争い、自国の勢力拡大合戦にしのぎを削るようになる。

一八七五年にイギリスはエジプトのスエズ運河の株を強制的に買い上げ支配下に置くなど中東への勢力を拡大し、そこを足場にさらに東へ勢力を伸ばしていく。

 

(二)オスマン帝国の衰退、列強はオスマン帝国に触手を伸ばす

オスマン帝国は一六世紀のスレイマン一世時代、最盛期を迎えバルカン半島からシリア、エジプト、北アフリカなどへも勢力を拡大していたが、一七世紀、一八世紀と年代が進むにつれ、その勢力は逆に衰退の一途となった。

一八世紀末ロシア帝国の南下を受け、クリミア戦争(一八五三~五六)、露土戦争(一八七七)でますます衰退していった。さらに一八八一年にはボスニアルーマニアギリシャあたりを失い、二〇世紀初めまでにはバルカン半島ブルガリアやエジプトまでも失い、相次ぐ戦争でオスマン帝国の支配地域はせいぜいトルコ、シリア、ヨルダン、イスラエル、そしてアラビア半島のメッカを含む紅海の岸寄り地域あたりまでに縮小してしまい、帝国の体力は限界に達していった。

一九〇八年、専制政治に反対する青年トルコ革命が起きた。

第三四代スルタンのアブデュルハミト二世の努力もむなしく、このようになったオスマン帝国を列強は「瀕死の病人」と呼び、ここにさらなる触手を広げようと狙っていった。中でもイギリスは産業革命後の発展のため、資源の確保地としてどうしてもここは確保しておきたい地域であった。

 

(三)第一次世界大戦(一九一四年七月~一一八年一一月)

一九一四年六月、バルカン半島の小国セルビアの首都サラエボオーストリア皇太子夫妻が暗殺される事件が発生した。

七月、この事件の背後にセルビア政府がいるとしてオーストリアセルビアに宣戦布告、第一次世界大戦が始まった。ドイツとオーストリアを中軸とする同盟国側とイギリスやフランス、ロシアを中心とする連合国側との対立が顕著になった。

 

(四)オスマン帝国、ドイツなどの同盟国側に立って大戦に参戦

一九一四年に第一次世界大戦が始まるまで、パレスチナの地あたりはオスマン帝国の支配地域になっていた。

一九一四年一〇月、この大戦にオスマン帝国はドイツ、オーストリアらの同盟国側に立ってイギリスやフランスと戦うことになる。この結果、オスマン帝国支配下にあったパレスチナを含むアラブ地方は、英仏両国軍とオスマン帝国軍との中東戦線での主要戦場となっていった。

 

(五)イギリスの狡猾な対アラブ政策への動き

ここで特に注目されるのがイギリスの「三枚舌外交」ともいわれる狡猾な行動である。「フセイン・マクマホン書簡」、「サイクス・ピコ協定」、「バルフォア宣言」の三つの「約束」がなされ、それぞれ関連と矛盾を含み現在のパレスチナ問題をこじらせ、中東における紛争の原因ともなっていく。今から一〇〇年少し前のことである。

 

(六)「フセイン・マクマホン書簡」(イギリスが「アラブ人の国」の独立を約束)

一つ目は、イギリスが「アラブ人の国」の約束をしたとされる「フセイン・マクマホン書簡」である。

イギリスは、第一次世界大戦が始まるとまず中東地域を支配していたオスマン帝国軍を駆逐する作戦を練った。この地域には多くのアラブ人住んでいる。そのアラブ人がオスマン帝国に反抗すればオスマン帝国軍の力を弱めることができると考えたイギリスは、アラブ人による「反オスマン帝国」の勢力を作り上げようとした。そこで当時イスラム教の聖地メッカの太守(首長)であったフセイン・イブン・アリーに目をつけた。フセイン預言者ムハンマドの血筋を引くハーシム家の当主であった。

一九一五年七月、イギリスはカイロ駐在高等弁務官マクマホンからフセインに書簡を送り、イギリスの対トルコ戦への協力を要請した。翌一六年三月にかけ双方一〇通もの往復書簡が交わされた。「フセイン・マクマホン書簡」と呼ばれる。フセイン側に、イギリス軍に協力して対トルコ参戦を条件に、戦後に「オスマン帝国の東方領土にアラブの独立国家建設を約束する」というものである。フセインは以前から「アラブ人の独立国」の建設を考えていたところでもあり、乗り気になっていく。

 

)「サイクス・ピコ協定」(オスマン帝国領分割の密約)

二つ目は「サイクス・ピコ協定」で、戦後オスマン帝国領をイギリス、フランス、ロシアで分割(山分け)しようとする密約である。

一九一六年五月、「フセイン・マクマホン協定」がなされた翌年である。イギリスの中東専門家マーク・サイクスは、フランスの駐ベイルート領事を務めたこともある中東通の外交官シャルル・ジョルジュ・ピコと数度にわたり会談し、これにロシアも加わりオスマン帝国が崩壊した後、中東地域をどのように分割し、管理下に置くかを協議していった。二人の名前から「サイクス・ピコ協定」と呼ばれる。「フランスは現在のイラク北部からシリア、レバノンの各地域およびその後背地アナトリア南部を支配圏に、そしてイギリスはバグダードを含むイラク中部から南部およびパレスチナやヨルダン地域を支配圏に、ロシアは黒海東南沿岸地域などをそれぞれ支配することとした。そして焦点のエルサレムを含むその周辺地域は国際共同管理地区とするというものである。

分割のための国境線を引く際、民族や宗教などは考慮せず不自然に直線的に分割した部分が多くこれが後の「イスラム国家」樹立宣言など諸事件の遠因になっていく。

(なお、この協定は調印時にはその内容の公表は一切されないことになっていたが、一九一七年一一月のロシア革命の直後、ボルシェビキ政権によって暴露されたものである)

 

(八)「アラブの反乱」、フセインは息子らとオスマン帝国への反乱を起こす

一九一六年六月、フセインは、(「サイクス・ピコ協定」の存在すら知らされないままに)フセイン・マクマホン協定に基づきアラブの独立(ヒジャーズ王国)を宣言し、次男アブドラ、三男ファイサルらとイギリス軍の行動を助けるオスマン帝国への反乱行動を起こした。「オスマン帝国から独立し、アラブ統一の大アラブ国家を創るのだ」とフセインは自ら先頭に立って反乱を起こしオスマン帝国軍を襲撃した。「アラブの反乱」と呼ばれる。

一〇月、イギリスから若き歴史・考古学者トーマス・エドワード・ロレンスがアラブ軍に加わり軍事顧問として反乱軍を指揮する。反乱軍ではフセインの三男ファイサルの活躍は目覚ましく、ロレンスを通じてイギリスの支援を受けつつアカバの要塞を陥落させ、オスマン帝国軍を追い詰めシリア領域のダマスカス辺りまで占領していった。(アラブの反乱についてイギリス映画「アラビアのロレンス」がある)

 

(九)「バルフォア宣言」(イギリスが「ユダヤ人の民族的郷土」設立を支持)

三つ目は「バルフォア宣言」で、イギリスがユダヤ人に対してパレスチナユダヤ人の「民族的郷土」の設立支持を約束したものである。後のイスラエル建国に大きく影響してくる。

大戦が始まってくるとイギリスは中東のパレスチナ地域の重要性を再認識し、パレスチナに親イギリスの組織が誕生すれば、中東における優位性が確保でき、重要なスエズ運河を守る防壁にもなると考えた。

一九一六年の末、イギリスでロイド・ジョージ新内閣が誕生するとシオニストリーダーハイム・ワイツマンらは、ロスチャイルドイギリスシオニスト連合会会長らユダヤ人有力者とともに「ユダヤ人国家」建設についてイギリス政府に対し懸命に工作を行っていった。イギリスでは次第にパレスチナに「ユダヤ人の民族的郷土」を創設することへの理解と意見が高まっていった。

一九一七年一一月、イギリスのバルフォア外務大臣が「パレスチナユダヤ人のナショナルホームを設立することを支持する」とロスチャイルド卿宛てに書簡で示した。「ホーム」との表現は、国なのか、土地なのか、故郷なのかはっきりしないが、ユダヤ人側は「独立国家」のことと受け止めた。イギリスの「シオニズム支持」の宣言ともいえる。これが後に「バルフォア宣言」と呼ばれるようになる。

イギリスは第一次世界大戦の最中植民地主義の全盛期、戦争資金をユダヤ財閥から調達した。それだけユダヤ財閥には力があり、イギリスはこれに頼り、彼らのしたたかな「ナショナルホームの設立希求」に協力するのがよいとの方向に向いたのである。また、大戦に米国を引き入れようとユダヤの米国ロビーイングを強めイギリスの大戦勝利を確実にしようとの思惑もあった。イギリスのシオニズム容認は、パレスチナの地にユダヤ民族のホームランドの建設を認めるということを意味し、シオニストにとり大きな成果であった。

 

(一〇)イギリス軍エルサレム占領、アレンビー将軍らエルサレム入城

アラブ地方での戦闘は続き、イギリス軍はオスマン帝国軍を追い詰めていった。フセインの三男ファイサルらの活躍は特に目覚ましかった。

一九一七年一二月、「バルフォア宣言」が出された翌月であった。アラブ人勢力の支援を得ながら各地でオスマン帝国軍を圧倒し北上したイギリス軍は、オスマンエルサレム守備隊を撃破しエルサレムを占領した。イギリス軍はアレンビー将軍を先頭にエルサレムに入城した。ここにエルサレムは四〇〇年余に及ぶオスマン帝国の支配は終わり、イギリスによるキリスト教徒側の支配下となった。

 

(一一)大戦終結フセインらの願った「アラブの国」の建設は実現せず大戦終結

反乱を起こしたファイサルらは一九一八年に入っても進撃を続け、ダマスカスに入城してここを拠点化した。

一九一八年一一月、第一世界大戦はフセインらが協力したイギリス側の勝利で終わった。

 

ファイサル、「王国」の樹立を宣言するも「アラブの国」の建設は実現せず、アラブ側の不満爆発

一九二〇年三月、ダマスカスに入城していたファイサルはアラブ民族主義者らと「シリア・アラブ王国」として王国の樹立を宣言した。しかしこの時すでにここはサイクス・ピコ協定によりフランスが支配することになっていた。侵攻してきたフランス軍との衝突で王国は瓦解、ファイサルは追放されイギリへ亡命し、アラブの独立はついえた。

「アラブの国の建設」を期待したフセインら望みは裏切られた。フセイン・マクマホン往復書簡の約束のもとに参戦し、イギリスの勝利に貢献したフセインらが「国家」を建設しようとした地域はフランスの支配地域とされていたのだ。イギリスとアラブ側との約束に関わっていなかったフランスはアラブ人の「国」の建設を認めなかった。アラブ側はイギリスやフランスの外交姿勢に大きな不満を示す。「フセイン・マクマホン往復書簡によりフセインらアラブ勢が独立国の創設を夢見つつ命をかけて戦っている時に、イギリス、フランスはサイクス・ピコ協定という秘密の裏協定をして、その地域をアラブ側に渡さず、自分らで分け合おうと取り決めをしていたのだ。そのような協定がなされていようとはフセインらは全く知らなかった。それにバルフォア宣言でアラブの地にユダヤ人の国を認めるとするなどとは決して許されない。我々は今ここに七〇万人ほど住んでいる。ユダヤ人は約六万人だ。大きな対立もなく平和に暮らしている。そこにユダヤ人のホームランドを約束するというがユダヤ人のホームランドは我々から見ればユダヤ人の国と同じだ。我々アラブ人にはアラブ人の国の創設を認め、ユダヤ人にはユダヤ人の国を認めるという矛盾の二枚舌を使い、その上、その地域をこっそり秘密の約束でイギリスとフランスで山分けしようとする。即ちアラブ人には独立国家建設を約束しておきながら、ユダヤ人には郷土建設を認めるという矛盾した約束をしたあげく、そこをフランスと山分け分割統治しようとするなどとは許されない三枚舌だ」とフセイン側の怒りは収まらない。さらにファイサルの追放もありフセイン側の望みは実現しなかった。

 

(一二)大戦の主要戦勝国による利権の分配、サン・レモ会議とセーブル条約

サン・レモ会議(イギリス、フランスによる委任統治の大枠決める)

一九二〇年四月一九日、イタリアのサン・レモで連合国側の会議「サン・レモ会議」が開催された。第一次世界大戦の主要戦勝国による利権の分配会議である。パレスチナとヨルダン、イラクの地域をイギリスが、そしてシリアとレバノン地域をフランスがそれぞれ国際連盟の委任を受けて分割統治するという「委任統治」の大枠が決められた。

 

セーブル条約(オスマン帝国領の分割会議)

八月一一日、サン・レモ会議に続いてフランスのパリ郊外のセーブルで会議が開かれた。連合国とオスマン帝国との間で「セーブル条約」を締結し、オスマン帝国領の分割が決定されていった。オスマン帝国は領土の大部分を失った。

オスマン帝国内ではこれに対抗しムスタファ・ケマル(一八八一~一九三八)を首班としてアンカラに抵抗政権が樹立されていった。

 

一三ユダヤ人とアラブ人、初の大規模衝突「神学校事件」

バルフォア宣言」を契機に、パレスチナではこれに反発するアラブ人とユダヤ人の間の対立関係がますます鮮明になってきた。この地には既に多くのアラブ人が暮らしている。ユダヤ人が次々と入ってくれば両者の間でのトラブル発生は避けられない。

一九二〇年四月、エルサレムユダヤ人とアラブ人の大規模衝突事件が起きた。この事件が現在にまで続く紛争の発端だともいわれる一大事件となった。アラブ人が旧市街地でユダヤ教の神学校に押し入るなどしてユダヤ人に暴行を加えたのに対して、ユダヤ人が自警団を組織してこれに対抗した。エルサレムの「神学校事件」と呼ばれる。

このユダヤ人の自警団が「ハガナー」の始まりだといわれる。「ハガナー」はその後ユダヤ人社会の防衛組織の中核となり重要な組織に拡充され、イスラエル独立とともにイスラエル国防軍の中心組織となっていく。このハガナーのメンバーの中から次第にユダヤ人社会の主要なリーダーたちが育っていく。

 

一四)イギリス、「トランスヨルダン王国」と「イラク王国」を設立

一九二一年、アラブの反乱は収まらない。フセインの次男アブドラは、弟ファイサルがシリアから追放されたと聞き激怒,失地回復を目指しアラビア半島からシリアへ向け軍を進めた。アンマンに入城したのに続きシリアのダマスカスへの攻撃に移る姿勢を見せた。イギリスは、アブドラのシリアへの進軍を思いとどまらせ、かつフセイン親子の処遇対策になると次の対策に踏み切ることになる。

 

カイロ会議の開催

一九二一年三月、イギリス植民地相チャーチルは「カイロ会議」を開き、一九一五年のフセイン・マクマホン書簡のこと、いわゆる三枚舌外交の矛盾解決にもなる妥協案として、委任統治を続けながらイギリス保護下で王国を設け、彼らの処遇を図る政治決断をした。

 

イギリス、「トランスヨルダン王国」と「イラク王国」を設立

一九二一年四月、イギリスは、ヨルダン川の東西にまたがる地域はヨルダン川を挟んで東と西に分け、西地域は残し、東地域をヨルダン川より向こう側という意味の「トランスヨルダン王国」とすることとした。また、ペルシャに隣接するメソポタミア地域を「イラク王国」として分離するとした。これによりヨルダン川の東部に二つの王国を設けることにし、そこにそれぞれ首長を置き、間接的に支配していくこととした。

 

「トランスヨルダン王国」の「首長」にアブドラを据え、「イラク王国」の「首長」にファイサルを据えた

イギリスはフセイン兄弟の処遇として、「トランスヨルダン王国」の首長には兄のアブドラ据え、「イラク王国」の首長にはイギリスに亡命していた弟のファイサルを据えた。

このようにカイロ会議を境に中東における「国家分割」の動きが急速に浮上、境界は過去の歴史とはほとんど無関係に人工的に線引きされた。この境界設定問題はその後の中東情勢に大きく影響を与え、紛争の原因ともなっていくことになる。

 

一五)エジプト王国の独立

一九世紀の末頃よりエジプトを実質支配していたイギリスは、第一次世界大戦後の諸情勢の変化から、エジプトの維持を継続するのが困難と判断し、エジプトを独立させることに踏み切った。

一九二二年三月二八日、エジプト王国がイギリス保護領から独立した。だがイギリスはその後も間接的にエジプト支配を継続していった。

 

一六)イギリスによる「パレスチナ委任統治」始まる

イギリスによるパレスチナの統治は、オスマン帝国に勝利した一九一八年から始まっており、一九二〇年、サン・レモ会議、セーブル条約を経て高等弁務官ハーバート・サミュエルによる実質的植民地統治となっていた。

一九二二年七月、国際連盟理事会でイギリスの「パレスチナ委任統治」が公式に承認された。この委任統治規約の起草に当たり、ワイツマンらシオニストは、委任統治を自分たちに出来るだけ有利になるようイギリス政府をはじめ各連合国政府に懸命に働きかけていた。

九月からパレスチナ委任統治が公式に始まった。イギリスはスエズ運河ペルシャ湾イラク北部のモスルをも国際連盟委任統治という形で手に入れることに成功した。また、中東でのイギリスの利権を守るためにも、親ユダヤ勢力を強くするためにもパレスチナの地に「無制限のユダヤ人移民」を認め、ユダヤ人のパレスチナ移民は怒涛のように押し寄せた。移民が増えるにつれ、パレスチナ民衆との反英、反シオニズム運動は激しさを増した。

 

一七)フランスによる「シリア、レバノン地域」の委任統治始まる

一九二二年、フランスもセーブル条約を経て正式にシリア、レバノン地域を委任統治していった。

 

一八オスマン帝国滅亡、トルコ共和国成立(ローザンヌ条約)

一二九九年から六〇〇年以上続いていたオスマン帝国は最後を迎えようとしていた。一九一一年にイタリアとの戦争が勃発し、現在のリビアをイタリアに領有されて急速に支配力を失っていた。

一九二二年一一月、ムスタファ・ケマルを指導者とした祖国回復運動が激しくなり、トルコのスルタン帝政は廃止に追い込まれメフメト六世は亡命した。ここにオスマン帝国は名実ともに滅亡した。

一九二三年七月二四日、祖国回復に成功したムスタファ・ケマルアンカラ政権と連合国はスイスのローザンヌで講和会議を行い、「ローザンヌ条約」を締結した。

一〇月二九日、トルコ共和制が宣言されムスタファ・ケマルが大統領に就任、アンカラ首都のトルコ共和国が誕生し、現在のトルコ共和国の基礎となる領土が復活していく。

一九二四年、ムスタファ・ケマルは長年続いてきたカリフ制度の廃止を決めていった。

なお、ローザンヌ条約により、北部イラクに居住しているクルド人の居住地域はトルコ、イラン、イラク王国、シリアなどの領域に分断されて、セーブル条約で約束されたクルド人の独立国家の夢は破棄され、現在に続く「イスラム国」(IS)紛争の原因に関わってくることになる。

 

一九)エジプトでイスラム原理主義者の政治結社ムスリム同胞団」創設

一九二八年、エジプトでハサン・アル・バンナーによってイスラム原理主義者の政治結社として「ムスリム同胞団」が結成された。当初はムスリム青年の啓発を目指す社会団体として始まったが、イスラム教の教えに立ち返って「イスラム国家」の樹立を目指す政治組織に成長していく。

 

二〇ユダヤ人とアラブ人、聖地をめぐる初の大規模衝突、「嘆きの壁事件」

イギリスによるパレスチナ委任統治も一〇年近く経過してきた。パレスチナへのユダヤ人移住はさらに増加し、シオニストによりアラブ人の土地は買い取られ、パレスチナでのユダヤ人の生活産業基盤は年の経過とともに拡大してきた。パレスチナのアラブ人生活は圧迫されアラブ側の反発はさらに顕在化していった。

一九二九年八月、ユダヤ人青年グループがシオニストの旗を掲げシオニズムの賛歌を歌うなどして「嘆きの壁」に向けて行進した。これに怒ったアラブの群衆がユダヤ人に襲いかかる事件が発生した。これをきっかけに約一週間、パレスチナ各地で両者の襲撃、虐殺が行われる事件に発展した。「嘆きの壁事件」といわれる。嘆きの壁事件はシオニストイスラム教徒の聖地をめぐる最初の大衝突事件で、二五〇人ほどの死亡者と六〇〇人近い負傷者が出たという。エルサレムではこれまで宗教を越え、大きな対立もなく共存してきたが、これを境に双方に拭い難い対立が続いていくことになる。

嘆きの壁」は二〇〇〇年近く前、ローマにより破壊された第二神殿(ヘロデ神殿)の西壁であり、ユダヤ人にとって聖なる場所「神殿の丘」の西壁となっている。一方、イスラム教徒にとっては岩のドームやアル・アクサ・モスクのある聖なる地区「ハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖域)」の西の壁でもある。

 

二一サウジアラビア王国の樹立

アラビア、フセインヒジャーズ王国

「アラブの反乱」のハーシム家フセインは、アラビアのメッカを首都に「ヒジャーズ王国」を治めていたが次第に反発する勢力も台頭し、王国は不安定になっていた。

一九二五年、前年から国王に就いていたフセインの長男アリーは、アラビア東部を支配していたサウド家のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウドの攻撃を受けて敗北、一九一六年から続いていたハーシム家ヒジャーズ王国は滅亡する。

 

アブドゥルアズィーズ、アラビア半島を制圧、サウジアラビア王国樹立

一九〇二年、アブドゥルアズィーズはアラビア半島のリヤドを平定し、さらに勢力を拡大していた。

一九二七年、ヒジャーズ王国を併合しアラビア半島を制圧した。

一九三二年九月、アブドゥルアズィーズは国名を「サウジアラビア王国」と定め国王となった。国名の「サウジアラビア王国」は「サウド家のアラビア王国」の意でありサウド家が統治する君主制国家となる。

 

二二イラク王国の独立

一九三二年一〇月、イラク王国はイギリスより独立が認められ、首長であったファイサルが独立後の最初の国王となった。なお、ファイサルは翌三三年に死去、長男のガージー(在位一九三三~三九)が後を継ぎ、さらにガージーが交通事故で死去した後はその子ファイサル二世(在位一九三九~五八)がわずか三歳で国王に即位した。

 

第九章 ユダヤ側とアラブ側との対立激化

(一)ドイツナチス政権の反ユダヤ政策

第一次世界大戦で敗したドイツは、ベルサイユ条約で全植民地の放棄、軍備の制限、賠償金の支払いなどにより、国力、国民の生活は大きな試練を強いられることとなった。

一九三三年一月、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働党ナチス)が政権を握った。ナチスが政権を握るとベルサイユ条約を破棄し、ユダヤ人を迫害する政策を執るようになった。

一九三八年九月には「水晶の夜(クリスタル・ナハト)」と呼ばれるドイツ各地でナチスによるユダヤ人襲撃事件も発生していった。

 

(二)パレスチナへ大量のユダヤ人移住、先住のアラブ人と対立多発

ヒトラー政権によるユダヤ人への迫害や殺害を恐れた多くのユダヤ人たちは、ドイツから世界中に脱出した。アメリカでの移民制限もありパレスチナの人口も委任統治前の四~五倍にもなった。パレスチナへのユダヤ移民はヨーロッパのユダヤ系富豪らの後押しを受けながら、土地を次々と買い上げていった。耕地をなくしたアラブ人も多く、「祖国」を乗っ取られるとの危機感も高まり、各地でユダヤ人によるゼネストや暴行、殺人も起こるようになってきた。

 

(三)パレスチナで「反シオニズム」激化、「アラブの大蜂起」が起こる

一九三六年五月、パレスチナへのユダヤ移民活動がさらに高まると、パレスチナの反シオニズム運動「アラブの大蜂起」(パレスチナのアラブ反乱)と呼ばれる大規模な反乱が起きる。ハッジ・アミーンを委員長とするアラブ高等委員会が発足しユダヤ移民の即時停止などを求め、大規模なデモが繰り返された。委任統治しているイギリスはこの事態を憂慮する。委任統治の難しさが明らかになり始めた。

 

)イギリス、ピール調査団による提言を基に「パレスチナ分割案」を発表

ピール調査団の提言

ますます激しくなるパレスチナの事態を重くみたイギリス政府は、中東での諸情勢をも勘案しパレスチナ委任統治のあり方について再検討をする必要に迫られた。そこで、イギリスはピール卿を団長とする調査団をパレスチナに派遣し現状把握と対応を報告させることにした。

一九三七年七月、イギリスは調査団による調査結果を発表した。調査報告はアラブ人とユダヤ人の対立が激化して「委任統治はすでに機能していない」、「エルサレムなどは国際管理が妥当」などとした「パレスチナ分割案」を提言した。

 

イギリス、「パレスチナ分割案」を発表

イギリスはピール調査団の提言を基に「パレスチナ分割案」を発表した。分割統治案はパレスチナを「ユダヤ国家」「アラブ国家」「委任統治下」の三つに分け、パレスチナ北部のガリラヤ地方と地中海沿岸平野部をユダヤ人国家に、ヨルダン川西岸とガザ、ネゲブ砂漠など比較的広い地域はアラブ国家に、エルサレムベツレヘム、ラマラなどを含む中央部とナザレ周辺は委任統治下にするというものであった。

 

イギリスの案にユダヤ側、パレスチナ側双方とも不満

イギリスのパレスチナ分割案に対し、ユダヤパレスチナ側双方とも不満を示す。

ユダヤ側は「ユダヤ人国家独立構想は歓迎するが、エルサレムとその周辺をユダヤ側に入れること」と条件をつける。

パレスチナ側は分割案に消極的な上にパレスチナの一番肥沃な地域がユダヤ側に入っているなど不満でアラブ高等委員会が拒否した。

結局双方から反対されたイギリスは再度検討し直すことになった。

 

(五)イギリス、分割案を再検しアラブ寄りの「パレスチナ白書」発表

イギリスは、ユダヤ側、パレスチナ側双方に受け入れられなかったパレスチナ分割案を再検討した。再検討の過程でアラブ側を自分の方へ引き止めることが必要だと判断したイギリスは、前案よりも方向を一八〇度転換するとも言えるアラブ側に譲歩する案を模索せざるを得なくなってきた。イギリスのアラブ側への態度軟化の背景には目前に迫ってきたナチスドイツとの戦いの遂行に中東地域の重要性を再認識し、中東産油国を味方にし、反英感情の払拭が欠かせないとの判断が大きく働いた。

 

イギリス、パレスチナ政策で協議(ロンドン円卓会議)

一九三九年二月七日、イギリスはパレスチナ政策についてシオニスト代表、アラブ側代表、そのほかエジプトはじめアラブ諸国代表も入れて協議を始めた。ロンドン円卓会議といわれる。会議は三月一七日まで続いたが満足する結論に至らなかった。

 

イギリス、「パレスチナ白書(マクドナルド白書)」を発表

五月、円卓会議で案がまとまらなかったイギリスは、アラブ側を敵に回したくないためにも円卓会議案を基礎に「パレスチナ白書(マクドナルド白書)」を発表した。

白書に示す主要方針の柱は概ね次のようであった。

一、パレスチナ分割案は撤回する

二、一〇年以内にアラブ人主導のパレスチナ国家を創設する

三、ユダヤ人移民を厳しく制限し、今後五年間の暫定期間中は七万五千人に制限する

四、ユダヤ人のパレスチナでの土地購入(ユダヤ人への土地売却)は制限する

五、ユダヤ人のイギリスへの移民は制限する

 

(六)ユダヤ側はアラブ寄りのパレスチナ白書に反発、反イギリス姿勢加速

ユダヤ側はパレスチナ白書に強く反発した。「今までにないアラブ寄り案であり、イスラエル建国を阻害する案で受け入れられない。これは事実上パレスチナ国家の独立を容認したような内容でバルフォア宣言の撤回であり、ナチスドイツの手を逃れようとしているユダヤ人の大部分を見殺しにすることを意味している」と受け入れない。結局、ロンドン円卓会議は決裂となった。

シオニズム運動指導者デビッド・ベングリオン(後の初代イスラエル首相)やバルフォア宣言の陰の立役者は、在米ユダヤ人組織と連携しながらアメリカの理解と支援強化に奔走する。

イギリスの「パレスチナ政策の一八〇度転換」ともとれる大きな政策転換にパレスチナにいるユダヤ人たちの反発は激しく、自衛武力闘争に追い込んでいった。ユダヤ人社会自衛組織「ハガナー」は次第に自衛から「防衛軍事組織化」し、また独自に反イギリス武力組織となった「イルグン」や「シュテルン」なども組織化されイギリスへの厳しい反抗が続けられるようになった。このような反イギリスの行動にイギリスのパレスチナ統治政策は益々難しくなっていった。

 

(七)シオニスト緊急シオニスト会議、「ユダヤ人国家」設立に向け決意示す

アラブ寄りになったパレスチナ白書に反発するシオニストらは、ユダヤアメリカ人の協力と支援を期待する。

一九四二年五月、在米ユダヤ人組織を中心にベングリオン主導によりニューヨークのビルトモアホテルで「緊急シオニスト会議(ビルトモア会議)」が開催され、パレスチナ全域にユダヤ共同体を確立するという「ユダヤ人国家」の設立を決議した。「ビルトモア綱領」と呼ぶ。今までのナショナルホーム(民族的郷土)より一歩進めた「国家」の設立に向けて決意を明らかにしたものである。

 

(八)第二次世界大戦(一九三九年九月~一九四五年八月)

開戦

一九三九年九月、ドイツ軍がポーランドに侵攻。ポーランドと同盟を結んでいたイギリス、フランスはこれに応戦し第二次世界大戦が始まった。ソ連バルト三国を併合した。四〇年、イギリス首相にチャーチルが就任、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ。四一年、太平洋戦争に突入した。一二月八日、日本はアメリカと戦争状態に入った。第二次世界大戦は世界を大きく変え、勢力地図は塗り替えられていく。

 

ヤルタ会談

大戦の大詰めの一九四五年二月、クリミア半島のヤルタでルーズベルトチャーチルレーニンの米、英、ソ三国の首脳が会談する。ヤルタ会談である。ポーランド問題、ドイツ問題、ソ連対日参戦、国際連合の設立などについて話し合われ戦後世界の体制に大きな影響を与えていく。戦後の米、ソ冷戦の端緒となる会談になったともいわれる。

 

アメリカ大統領にトルーマン

一九四五年四月一二日、アメリカ大統領にルーズベルトの急死により副大統領のトルーマンが就任した。トルーマンルーズベルト以上にシオニストに対して好意的であった。

 

終戦国際連合結成

一九四五年五月、ドイツが降伏した。八月、日本が降伏し第二次世界大戦終結する。一〇月二四日、国際連合が結成された。

 

(九)エジプト主導、アラブ連盟の結成

パレスチナ白書に反発したユダヤ勢力が強固になってくると、アラブ側ではこれに対抗するためアラブ人同士の分裂状態の危機を解消し団結の必要性を痛感し、アラブ諸国家間の地域協力機構の設立の必要性が叫ばれるようになる。イギリスは第二次世界大戦が始まると、アラブ諸国が枢軸国側に着くのを避けるためにもこの構想を支持するようになる。

一九四五年三月、第二次世界大戦の終盤近くであった。エジプトの主導によりエジプト、トランスヨルダン、レバノン、シリア、サウジアラビアイラク王国、イエメンの七カ国による「アラブ連盟」が結成された。主な目標にアラブ諸国の独立支援、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設阻止を掲げ、本部をカイロに設けた。

 

一〇レバノン、トランスヨルダン、シリアの独立

第二次世界大戦は中東地域の国々にも大きな変化をもたらす。

一九四三年一一月、第二次世界大戦の最中にレバノンがフランスから独立した。

一九四六年三月、トランスヨルダンがイギリスから独立し、四月にはシリアがフランスから独立した。

 

一一ユダヤ側、第二次世界大戦を経て反イギリス運動さらに強まる

イギリス、ユダヤ人のパレスチナへの移民を認めないなどアラブ寄りの政策を維持

一九四五年に第二次世界大戦終結ホロコーストユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺)が明るみになると、国際社会はユダヤ人の受けた悲惨な状況に驚愕し同情すると同時に国際世論を動かし始める。アウシュビッツなどの強制収容所で六百万人ものユダヤ人が殺害されたという。しかしイギリスは以前からのアラブ側との関係もあり新たなユダヤ人のパレスチナへの移民を認めず、パレスチナへ入ろうとする難民を阻止しようとするなどユダヤ側に冷たくアラブ寄りの立場を崩さない。一九三九年のパレスチナ白書に基づきユダヤ難民の受け入れを拒否している。

イギリスの対応にイスラエルは対抗姿勢を強め、両者の衝突が各所で起きていく。

 

ユダヤ人過激派組織、イギリスの司令部があるキング・デービッド・ホテルを爆破

イギリスのユダヤ人移民政策に反対するユダヤ人過激派活動もさらに激しくなった。ユダヤ武装組織のハガナー、イルグン、レヒの三者は連合して「ユダヤ人抵抗組織」を結成し、イギリスの行政や軍に対する武装蜂起を開始した。ユダヤ側の反イギリス姿勢はいよいよ激しくなった。

一九四六年七月二二日正午過ぎ、エルサレムに大音響が響いた。当時、イギリスが接収し委任統治政府が行政指令部として使用していたキング・デービッド・ホテルが爆破され、一〇〇人近い死者が出た。ホテルの地下部に爆弾を仕掛けた「イルグン」の指導者は後にイスラエル首相になるメナヘム・ベギンであった。

 

(一二)イギリス、パレスチナ委任を放棄、問題の解決を国際連合に一任

イギリスは第二次世界大戦戦勝国に名を連ねたとはいえ、国内外での諸情勢は厳しいものになっていた。

パレスチナでキング・デービッド・ホテル事件のような過激な反イギリスの事件が連続して起きてくるとパレスチナ統治継続に限界を感じ始めた。なすすべを失ったイギリスは「委任統治政策」の遂行の困難さを改めて痛感し、委任統治政策に嫌気さえ持つようになった。

一九四七年二月、イギリスはパレスチナからの撤退を発表、困難なパレスチナ問題の解決を国際連合に一任すると宣言した。

 

一三)国連総会、「パレスチナ分割決議」(国連決議第一八一号)

国連調査委員会、パレスチナを「ユダヤ領」と「アラブ領」に分け、エルサレムを国際管理とする案を示す

一九四七年五月、国連はイギリスからのパレスチナ問題解決の一任を受け、パレスチナ問題特別調査委員会(UNSCOP)を設置し案を作成する。

八月、調査委員会は報告書を提出した。パレスチナの分割とエルサレムの国際管理を提唱する多数案と、エルサレムを首都としてユダヤ・アラブの連邦国家の樹立を主張する少数案である。多数を占める分割案はパレスチナを「ユダヤ領」と「アラブ領」に分け、エルサレムはどちらにも属さない「国際管理都市」にするという。基本的には前のピール報告のように三分割案となっているがより具体化された案となっていた。当時のパレスチナの総面積は約二万六千平方キロで、そのうちユダヤ人所有地は全体の一〇%足らずに過ぎなかった。またパレスチナの人口は約二〇〇万人で、このうちユダヤ人は三分の一の六〇万人ほどであった。面積も人口も圧倒的にアラブ側が多数である。ユダヤ側に東地中海沿岸の肥沃な農地を含んで半分以上の五六%の面積を割り当て、一方パレスチナ側には荒地の多いヨルダン川西岸とガザ地区で四三%の面積を割り当てた。そして国際管理のベツレヘムあたりを含むエルサレムは一%ほどとなっている。

 

国連総会、パレスチナ分割案を協議し採択(国連決議第一八一号)

一一月二九日、国連総会はこのパレスチナ分割案を協議し、賛成三三、反対一三、棄権一〇で採択した(国連決議第一八一号)。賛成がアメリカ、ソ連、フランスなど三三カ国、反対がエジプト、サウジアラビアなどアラブ六カ国とトルコ、パキスタンなどイスラム圏四カ国、それにインド、ギリシャキューバの一三カ国、棄権がイギリス、中国など一〇カ国であった。

この決議の裏には翌年に控えたアメリカ大統領選での国内ユダヤロビーの支持を獲得したいというトルーマン大統領の強烈な圧力があったといわれる。

 

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(一四)国連の分割案にアラブ側は猛反発、ユダヤ側とも衝突へ

アラブ側は分割案に正面から反対、ユダヤ側と衝突

国連の分割案に対しアラブ側は猛反発した。アラブ側が分割案を拒否するのは当然であった。極めてユダヤ側に有利な分割案になっていたからである。

アラブ側は、「当事者であるパレスチナのアラブ人に相談もなく一方的に決められた。しかも人口的に少ないユダヤ人に広い領土を割り当て、その上肥沃な農耕地を多く含みさらにテルアビブなど都市部も含むユダヤ人側に有利な分割案だ。先住のしかも多数派の我々アラブ人の意を無視した一方的な案であり全く受け入れられない」「パレスチナは我々のものだ」と猛反発した。エルサレム国際管理案も崩れた。これを境にエジプトのムスリム同胞団などのアラブ義勇軍パレスチナ・アラブ勢に加わり、アラブ側は闘争組織を強化していった。

 

ユダヤ側は大枠賛成、アラブ側の反発に対抗し、アラブ側を攻める

一方ユダヤ側は、分割案にはエルサレムユダヤ側の領土に含まれていないが今後の対応に含みを持たせ、分割案が国連で採択されたことに満足した。そこでさらにユダヤ人国家予定領域をより広く制圧しようと画策し、聖地エルサレムの軍事的支配を握り、中心都市テルアビブとエルサレムを結ぶ街道を支配し実質的に優位に立ちたいと積極的に動きアラブ側を攻撃し始めた。

 

アラブ側・イスラエル側双方に多数の死傷者

国連の分割案が発表された翌日から、アラブ側・ユダヤ側の衝突事件が続発、双方に多くの死傷者が出る。

双方はどちらも引けないところに来ていた。

 

 

一五)イギリスの「パレスチナ委任統治」終了へ、軍の撤退早める

分割決議は大きな反発を招き、パレスチナ情勢はますます激化した。イギリスへの風当たりはさらに強くな

ってきた。分割案を支持したアメリカだったがもはや同案を支持すべきではないとの方針になってきた。イギリスは早くこの問題から手を引きたくなった。イギリス軍のパレスチナからの撤退期限は先の国連決議で一九四八年八月一日となっていたが、状況が悪くなってきたイギリスは一日も早くここから撤退しようと軍の撤退期限を繰り上げることとした。

一九四七年一二月一一日、イギリスのアトリー首相はパレスチナからの撤退を二カ月半も繰り上げ一九四八年五月一五日とすると発表した。これによりイギリスの委任統治は一九二二年から二六年間で終了することとなった。

 

一六アラブ連盟加盟国、「ユダヤ人国家建国阻止」を決議

アラブ・ユダヤ両陣営の闘争はますますエスカレートし、パレスチナをめぐる争いは事実上の「内戦状態」となった。

一九四七年一二月一七日、アラブ連盟は「アラブ諸国民は、国連による分割案の施行は断じて許さない。武力で阻止する」と声明を発表し、「聖戦(ジハード)」の遂行をアラブ人民に訴えた。これにより対話による問題解決の望みは無くなっていった。

九四八年二月、ユダヤ側の対アラブ強硬姿勢の動きを「ユダヤ人国家建国」への動きと懸念するアラブ連盟加盟国はエジプトのカイロで協議し、「ユダヤ人国家建国阻止」決議した。

 

(一七)ユダヤ側「ユダヤ国民評議会」を設置、アラブ一掃作戦にでる

ユダヤ国民評議会の設置、軍を強化、アラブ一掃作戦にでる

ユダヤ側も対アラブ作戦を強固にしていく。

一九四八年三月、ユダヤ側はパレスチナユダヤ人居住区を統治する臨時政府「ユダヤ国民評議会」をテル

アビブに誕生させ、その正規軍「ハガナー」が各地で軍事行動を始める。ユダヤ陣営はアラブ側の動きを牽制しつつ「ハガナー」を中心に「イルグン」や「シュテルン」などもますます動きを激しくし、武器も次第に強化して力をつけていった。

 

ダレット作戦」

ユダヤ陣営は、「ダレット作戦(アラブ一掃作戦)」といわれる強硬作戦にでる。

パレスチナ領内のアラブ人社会を完全に破壊し、アラブ系住民を強引に領域外へ追放してパレスチナ全土を制圧し、ユダヤ人国家創設の既成事実を作り上げてしまう」というパレスチナ占領計画である。

四月、この作戦の第一段階として「ナハション作戦」を開始した。テルアビブからエルサレムに通じる回廊を開き、アラブ領土を分断すると同時にエルサレムの長期支配体制を確立することを目指した。ハガナーが実行した初めての大規模であった。

 

一八)多くの住人がパレスチナから脱出する「難民の発生」

アラブ人村襲撃作戦

国連のパレスチナ分割決議案に続き、アラブ一掃作戦の初めに起こったアラブ人村襲撃虐殺事件が国際的にも大きな反響をもたらすことになる。この頃エルサレムユダヤ人がアラブ組織に包囲されており、これを助けるためテルアビブからエルサレムに通じる最も重要な回廊を切り開き、エルサレムへの補給路を確保する必要があった。その際、重要拠点の一つがエルサレムの西の郊外あったアラブ人の村「ディル・ヤシーン」であった。

 

「ディル・ヤシーン」事件などから難民の発生へ

一九四八年四月九日、エルサレムの包囲打開と、輸送車両に対するアラブ側の襲撃を阻止するとの名目で、

人口約六〇〇人の村ディル・ヤシーンをユダヤ武装組織「イルグン」と「シュテルン」の合同部隊                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      が襲撃、村人二五四人を殺害した。「ディル・ヤシーン事件」と呼ばれる。この事件を指揮したのは、イルグンは一九四六年のホテル爆破事件でのベギンであり、シュテルンはイツハク・シャミルであった。シャミルも後にイスラエルの首相になる血気盛んなリーダーだった。

また、アラブ側への追放作戦は、リッダという町などでも起きていく。これら事件は国際的に大きな非難を

浴びたが、ユダヤ側にとっては、目指す「パレスチナのアラブ人社会の破壊とアラブ人の排除」という計画達成においては計り知れないほどの大きな役目を果たしたということになる。

一方、アラブ系の住民にとっては大変な脅威であり、恐怖と迫害におののき身の危険を感じ、パレスチナ

土からトランスヨルダンやシリアなど周辺諸国への脱出者が続出、概算で一〇万人もの難民が発生したという。

 

第一〇章 イスラエル国家の建国と第一次中東戦争                                                                                                                                                                                                                                        

(一)イスラエル国家の建国

一九四八年五月一四日の午後四時、テルアビブ美術館においてユダヤ国民評議会が開催された。議長デビッド・ベングリオン(一八八六~一九七三)は、明朝一五日午前零時をもって「ユダヤ人国家をイスラエルの地に樹立する」と建国の宣言をした。国名を「イスラエル」とし、テルアビブを首都とする「イスラエル国」の樹立が宣言された瞬間であった。国名の「イスラエル」はヘブライ語で「神の戦士」を意味し、旧約聖書にいうユダヤ人の先祖ヤコブが天使と格闘した後、イスラエルと呼ばれることになったことにことや古代イスラエル王国が存在したことに由来するという。評議会議員全員が起立してこれを承認した。

独立宣言がされるとイギリス高等弁務官カニンガム中将はエルサレムを離れ、一九一七年、アレンビー将軍のエルサレム入城以来三〇年に及ぶイギリスのパレスチナ委任統治はここに終わりを告げた。

アメリカのトルーマン大統領はイスラエル建国宣言がなされると、すぐにこれを承認する旨の声明を発表した。

 

(二)第一次中東戦争

アラブ五カ国、イスラエルに宣戦布告し開戦

新しい国の誕生は、また新しい対立と戦争を引き起こすことになった。イスラエルの建国が宣言されると、アラブ側は正式なイスラエル建国を待たず、「イスラエルの建国は一方的であり、これを認めることはできない」とするイスラエル周辺のアラブ五カ国(エジプト、トランスヨルダン、イラク王国、シリア、レバノン)は直ちに宣戦を布告し、イギリス軍がパレスチナから撤退すると同時に「ユダヤ国家殲滅」の軍事行動を開始した。アラブ側連合軍の兵力は約一五万人、イスラエル側の兵力は約三万人で圧倒的にアラブ側が有利であった。兵力数に勝る連合軍は「ユダヤ人を地中海に追い落とし、アラブ世界を統一する」と意気込み、新興イスラエルを攻撃した。トランスヨルダンのアブドラ国王は、ヨルダン川のトランスヨルダン側からエルサレム攻略に向け軍の進撃を命じた。連合軍は当初エルサレム旧市街を確保するなど優勢であった。

一方、アラブ側からの攻撃をある程度予想していたイスラエル側は、兵力数には劣るものの事前に武器などを密かに準備していた。開戦当初は各前線で連合軍に押されていたが「負ければ祖国が亡くなる。絶対に後に引けない」と危機感を持ち、戦争体験もある有能なリーダーと高いモラル、それに新興イスラエル国民としての固い団結で対決した。イスラエル軍はハガナーを中心にイルグン、シュテルンの軍事組織を統合して「イスラエル国防軍」に再編成し正式な国の軍隊を設立し果敢に対抗した。

 

国連安保理の休戦協定を境にイスラエル側が攻勢強める

戦争の途中、国連安保理の六月一一日から七月八日までの四週間の休戦協定など二回の休戦があり、これがイスラエル側に幸いした。当初劣勢であったイスラエル軍はこの間にチェコスロバキアなどからの武器強化に成功し、一段と士気を高め勢力を結集し反撃を開始した。一方アラブ側は、兵力の数では勝るものの近代的兵器に乏しく、かつ軍の統率連携も悪く士気は上がってこなかった。

 

イスラエル側の実質的な勝利のうちに戦闘終結

反撃に転じたイスラエル軍は一気に各地で連合軍を圧倒して優勢に転じ、最終的に勝利を確実にしていった。

一九四九年一月、イスラエルパレスチナでの広い地域を占領し勝利のうちに九カ月続いた戦闘は終結した。

アラブとイスラエルの間の戦争をわが国では「中東戦争」と呼んでいが、この戦争の後、第二次、第三次、第四次と大きな戦争だけでも四回も起きたので、後にこの最初の戦争を「第一次中東戦争」と呼んでいる。また、この最初の戦争をアラブ側はパレスチナ戦争、イスラエル側は独立戦争あるいは解放戦争と呼んでいる。

一月一二日、まずエジプトとの停戦交渉が地中海のロードス島で始まった。一月一二日、まずエジプトとの停戦交渉が地中海のロードス島で始まった。休戦協定が二月にエジプト、三月にレバノン、四月にトランスヨルダン、七月にシリアと個別に順次行われた。イラク王国イスラエルとの交渉を拒否し、停戦協定のないまま兵力を撤収した。

なお、トランスヨルダンであるが、六月一日、アブドラ国王は、ヨルダン川西岸と東エルサレムを併合した上で、新しい国名を「ヨルダン・ハシミテ王国」(通称」ヨルダン)とすることを宣言した。

 

第一次中東戦争後の停戦ライン、パレスチナの地の分轄、難民などの問題

一九四八年五月にユダヤ人のイスラエル国家が樹立され、一九四九年一月に九カ月続いた第一次中東戦争イスラエル側の実質的勝利で終わった。これを境に現在までも続くパレスチナ問題の解決されない難問が発生していく。

 

停戦ライン(グリーンライン

停戦の際イスラエルと周辺アラブ諸国との「国境」は確定されずに終わった。そのため停戦した際の「軍事境界線」が事実上の「停戦ライン」とされ、イスラエル」という国の事実上の境界が定まった。この停戦時のラインは停戦協定の地図上で緑色の線で引かれたため「グリーンライン」と呼ばれる。

 

パレスチナの地はイスラエル、ヨルダン、エジプトで三分轄、イスラエルパレスチナ全土の約七七%

停戦によりパレスチナの地はイスラエル、ヨルダン、それにエジプトの支配する三つ地域に分割された。イスラエルは国連の分割案の区域よりもはるかに広い東地中海の沿岸平野部、北部のガリラヤ地方、南部のネゲブなどを含むパレスチナ全土の約七七%(約三万二〇〇〇平方キロメートル)を支配下に置いた。東から攻め込んだヨルダンは、もともと自国の領土であると主張していたエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区支配下に置いた。南から攻めたエジプトはイスラエルとの緩衝地帯を設けるとしてガザ地区支配下に置いた。

 

エルサレムは東西に分断、東はヨルダン、西はイスラエルが支配

国際管理とされていたエルサレムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地がある旧市街を含む東地域はヨルダンが支配下に置き、新市街の西地域はイスラエル支配下に置いた。分断された東西エルサレムの境は停戦ラインとなった。

ヨルダンは東エルサレム支配下に置いて、イスラエル支配下とした西エルサレムとの境に壁と有刺鉄線のフェンスを設け、旧市街からユダヤ人を駆逐した。ユダヤ人は「神殿の丘」に近づくことは叶わなくなった。

  

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パレスチナから逃れた難民とパレスチナへの帰還問題

イスラエル建国と戦争によって七十万人とも百万人ともいわれるパレスチナの人々が故郷を追われ難民となっていった。。主に東の方いた者はヨルダンが占領した地区やヨルダンへ、西の方の者はガザへ、南の方の者はエジプトへ、北の方の者はレバノンやシリアなどに次々と逃れ難民キャンプの生活を始めた。遠く海を渡った者もいた。パレスチナの地から逃れてきた人々は「パレスチナ難民」と呼ばれるようになる。パレスチナ難民と呼ばれているうちに「自分たちの故郷はパレスチナである」という自覚が生まれて行き(パレスチナ人という民族がいたのではなくアラブ人なのだが)「パレスチナ人」という言葉が生まれていった。

パレスチナの人々はディル・ヤシーン事件やイスラエル建国と戦争などによって故郷を喪失し、難民となったこの惨状を「ナクバ(大破局)」と呼んでいる。人々はナクバを嘆き悲しみ、故郷を奪ったイスラエルへの憤りを忘れない。

一九四八年一二月、国連総会は、パレスチナから逃れた難民が故郷に帰る権利(帰還権)を認め、帰還を望まない難民には、土地など彼らが失った財産に対する金銭的な補償が行われるべきだと決議した(国連決議一九四号)。

一九四九年六月、イスラエルは国連の決議を拒否し、閣議で難民について「パレスチナへの帰還を認めない」とした。「戦争を仕掛けたのはアラブ側であり、戦争の原因はアラブ側にある。その結果難民が生じたとしてもその原因はアラブ側にある」として国連決議を受け入れない。パレスチナの難民たちは「自分たちこそ長い間このパレスチナに住んでいた先住民でありパレスチナは自分たちの故郷だ」と主張し反発した。

イスラエルの建国は、パレスチナの人々にとっては故郷から追われ、そして故郷に帰れない「故郷喪失」を生じさせたといえる。なお、様々な経緯からイスラエル領内に残留したアラブの人々(約一六万人)も居り、「イスラエル・アラブ人」としてユダヤ人国家の中で二級市民として生きていかざるを得なくなっていく。

一九四九年一二月、国連決議三〇二号により国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)設立された。

 

イスラエル一回総選挙、ベングリオンが初代首相に

イスラエルは戦闘の終盤の一九四八年一一月に全国の人口調査を実施し、全人口七八万二〇〇〇人、うち一八歳以上の有権者は五〇万六〇〇〇人余りと把握していた。

一九四九年一月二五日、イスラルは第一回総選挙を実施。八〇%近い投票率で一二〇名の国会議員を選んだ。

二月、独立後の初国会が開催された。ベングリオンが正式に首相に選出され、大統領にシオニスト代表のヴァイツマンを選んだ。イスラエルは着々と独立国としての体制を確立していく。

五月一一日、イスラエル国際連合に加盟し、「国」とし国際社会の仲間入りを果たした。

一二月、イスラエル政府は首都をエルサレム新市街に置くことを加速し、政府の諸機関も充実しエルサレムに移転し始めた。

 

(五)ヨルダン、ヨルダン川西岸を正式に併合、パレスチナ側反発

一九五〇年四月、ヨルダンのアブドラ国王は、東エルサレムを含むヨルダン川西岸を正式に併合した。ヨルダン川西岸をヨルダン領とした国王の行為は、愛国的なパレスチナの人々には裏切りと映った。パレスチナの人々にしてみれば自らの故郷がヨルダン領となり併合されてしまうということに他ならない。周辺アラブ諸国からも猛反発を受ける。この反発はこの後間もなく起きたアブドラ国王の「暗殺」の形でも表されることになる。

 

(六)ヨルダンのアブドラ国王「暗殺」される

一九五一年七月、ヨルダンのアブドラ国王は自国ヨルダン領としたエルサレム旧市街の聖地アル・アクサ・モスクを詣でようとした時、モスクの入り口で国王の政策を非難する愛国的なパレスチナの一青年に撃たれ死亡した。ヨルダン川西岸をヨルダン領としたことが許せなかった。対イスラエルの事件でなく、同じアラブ側内部での事件であり、以後ヨルダン政府とパレスチナのアラブ人勢力の関係は悪化していく。

 

(七)エジプト革命、ナセル中心のクーデター、ファルーク国王を追放

第一次中東戦争での敗北は、アラブの先頭に立っていたエジプトの体制を揺るがすことになる。戦前、エジプトは兵力数からもアラブ側最大勢力であり、戦争に簡単に勝利できると軽く考えていた。しかし、実戦での経験が浅く、兵力はまとまらず、敗戦によりエジプトの国そのものの体制に大きな変化をもたらすような結果になった。ファルーク国王への風当たりは一段と強くなった。

第二次世界大戦末期頃にエジプトに結成された「自由将校団」は「イスラエルに敗れた原因は現政権の無能、無力にある」と批判し軍勢力の強化拡大を図っていった。

ここでエジプトの若きリーダーとして台頭してきたのがガマル・アブデル・ナセル(一九一八~七〇)中佐であった。ナセルは反英、エジプト愛国、エジプト解放を目指す民族運動に入る。軍の内部に「自由将校団」という秘密組織を結成し、実質的指導者になっていく。イギリスの傀儡状態のファルーク国王に国民の怒りは最高潮になる。

一九五二年七月二三日、ナセルを中心に無血クーデターを成功させる。七月二六日、第一次中東戦争で活躍したナギーブ将軍が革命総司令官としてファルーク国王を追放した。「エジプト革命」の始まりである。ナセルはエジプトの実質的なトップ指導者としての活躍をするようになる。

 

)エジプト、王制を廃止し「エジプト共和国」に移行

一九五三年六月、エジプトは王制を廃止し、「エジプト共和国」に移行する。ナギーブ首相が臨時大統領を兼ね、ナセル自身も副首相兼内相として政界の表舞台に出てきた。

 

アメリカ大統領にアイゼンハワー、ソ連大統領にフルシチョフ

一九五三年一月、アメリカ大統領は、トルーマンからアイゼンハワーになる。

三月、ソ連大統領はスターリンが死亡しフルシチョフとなる。米、ソ冷戦は続いていく。

 

一〇イスラエル首相、ベングリオンからシャレットへ、またベングリオン

一九五四年一月、ベングリオンは首相を辞任、後任にハト派外相のモシェ・シャレット(一八九四~一九六五)が就く。対アラブ政策でベングリオンタカ派的積極武装路線、シャレットはハト派的国際協調路線であった。

一九五五年一一月、シャレット首相は辞任、再びタカ派ベングリオンが首相に就く(就任期間一九五五~六三)。

 

(一一)中東条約機構(バグダード条約機構)の結成

一九五五年、対共産圏包囲網の一環として軍事同盟組織「中東条約機構(METO)」がイギリス、トルコ、イラク王国パキスタン、イランの五カ国で結成された。本部をバグダードに置いた。アメリカはオブザーバーとして参加するが実質的に機構をリードしていった。アメリカはエジプトのソ連寄りも警戒していく。

第一一章 エジプトの動きと第二次中東戦争

)ナセル、初代エジプト大統領に

エジプト、ナセル大統領に就任、ソ連に接近

一九五六年六月、エジプトのリーダーナセルは三八歳で大統領に就任した。ナセルは、主要政策として、スエズ運河地帯へのエジプトの主権回復とナイル川のダム建設による農工業振興を掲げ、積極的に動いた。前々からイスラエル寄りのアメリカに不信を抱いていたナセルはソ連に接近し、チェコスロバキアからの大量の近代兵器を購入し兵力強化を図ろうとした。

 

アメリカがエジプトへのアスワン・ハイダム建設費融資を取り消す

ソ連と冷戦中のアメリカは、中東でのソ連を封じ込めようとしており、イスラエルへの配慮からエジプトへの武器供与に消極的であった。ソ連に接近するエジプトに反発したアメリカは、イギリスと協議し、エジプトと約束していたナイル川のアスワン・ハイダム建設への融資を取り消した。

 

)ナセル、スエズ運河の国有化を宣言

ナセルは大統領に就任すると直ちにアメリカのアスワン・ハイダム建設費融資の取消しに反発する。

一九五六年七月二六日、ナセルはアレキサンドリアで開催された革命四周年の記念式典での演説で、イギリス、フランスの支配していたスエズ運河を国有化し、その利益をダム建設費に充てると「スエズ運河の国有化」を宣言した。大群衆は歓喜し、周辺アラブ諸国はこぞって拍手を送った。

しかし、この状況にイギリス、フランスは猛反発、この対立が次の第二次中東戦争を引き起こす主因となっていく。

 

(三)イギリス、フランス、イスラエルはエジプトのスエズ運河の国有化に反対

ナセルのスエズ運河国有化宣言に憤慨したイギリスのイーデン首相は、フランスと協力してエジプトへの軍事行動にでる策を講じる。また、イスラエルではチラン海峡がナセルにより一九五五年九月から閉鎖されており、重要なインド洋へ通じる紅海への出口を確保しようとしていたところでもあり、イスラエルの国防長官ペレス(後に首相)は英、仏のエジプトへの軍事作戦に加わる。利害がうまく合致した三者は対エジプト作戦で秘密の三国同盟協議を始めた。

一九五六年一〇月二五日、エジプト、シリア、ヨルダンは三カ国による軍事同盟に調印した。直接イギリス、フランスがスエズ運河に手出しすると国際的にも大きな批判が来ると考えた彼らは作戦を練る。そこで手順として、まずイスラエルシナイ半島に侵攻する。侵攻したところでイギリスとフランスがイスラエルとエジプトの引き離しを口実に軍を介入しエジプト軍をスエズ運河以西にまで追い払う。この間にイスラエルシナイ半島を占領しチラン海峡を開く。このような「スエズ運河作戦」の計画を立てた。

 

(四)第二次中東戦争

イスラエル軍、エジプトシナイ半島に侵攻し戦争始まる

一九五六年一〇月二九日、ナセルがスエズ運河の国有化を宣言した三カ月後である。作戦計画の通りイスラエル軍はエジプトシナイ半島に侵攻、スエズ運河地帯への進撃を開始し戦争が始まった。指揮するは独眼の猛将モシェ・ダヤンであった。この戦争が「第二次中東戦争(アラブ側はスエズ戦争あるいはスエズ動乱イスラエル側はシナイ戦争あるいはシナイ作戦と呼ぶ)」である。

一〇月三〇日、イギリス、フランスは共同でイスラエルとエジプトに停戦を要求する。エジプトは拒否。

一〇月三一日、イギリス、フランスはエジプトを爆撃した。これにアメリカとソ連は強く反発し、国連に即時停戦とイギリス軍らのエジプトからの撤退を求める決議案を提出した。

一一月二日、国連は緊急総会を開催し、これを賛成六四、反対五で可決した。

一一月五日、国連総会の即時停戦決議を無視してイギリスのパラシュート部隊がポートサイドに降り立ち、スエズ運河を守るとの名目でエジプトに圧力をかけた。しかし、運河の支配独占を狙うナセルはこれに対抗。イギリス、フランス空軍はエジプト各地を空爆するがナセルはスエズ運河に船を沈めるなどして抵抗、運河を閉鎖してしまう。

 

国連の停戦決議を受け入れ停戦

一一月六日、イギリス、フランスは停戦決議を受け入れスエズ運河への侵攻作戦を中止した。シナイ半島の大部分を支配下に置いていたイスラエル軍も一一月八日には停戦に合意した。

 

三カ国軍撤退、ナセルは英雄視される

一二月、イギリス、フランス両軍はポートサイドから撤退、撤退を渋っていたイスラエル軍も翌年三月、チラン海峡の入り口のシャルム・エル・シェイクを含む占領地全域から軍を撤収した。

この第二次中東戦争でエジプト軍は三〇〇〇人以上の死者を出すほど大打撃を受けた。軍事的に見れば完敗だったこの戦争もイギリス、フランスの軍事介入を排除してスエズ運河を守り抜き、国有化に成功した上に国際世論を味方につけた政治的大勝利であった。これを境にエジプトは一層強固になり、ナセルはアラブ諸国から英雄視されるようになる。

一九五七年四月にはスエズ運河に沈められた船舶の残骸なども取り除かれ通行が可能になった。

 

(五)世界勢力図はイギリス、フランスから、アメリカ、ソ連

イギリス、フランスにとって第二次中東戦争で失ったものはあまりにも大きかった。イギリスのイーデン首相は辞任した。これまで中東の舞台で主役を演じてきた両国は完全に脇役になった。。今までのアラブ諸国に対する両国の影響力は大きく下落した。

一九五六年にはハンガリー動乱からソ連軍のハンガリー介入、アメリカの反発など世界勢力図はイギリス、フランスからアメリカ、ソ連へ大きく転換していくことになる。

第一二章 第三次中東戦争への足音

(一)第二次中東戦争後のイスラエル、国力を強化へ

一九五六年一一月、第二次中東戦争は終わった。イスラエルはエジプトから軍を引き上げ安全保障強化などの当初の目的達成はならなかった。だが二次にわたる中東戦争での反省から結果的に大規模な軍の機構改革と組織の近代化でより進んだ「国力強化」を図っていった。。伝統的な歩兵重視から近代戦車隊などの機甲部隊重視へ、優秀航空機の配備など空軍の強化、通信機の充実など通信網の拡充、そして英、仏との共同作戦よりも単独作戦方策の確立などに力を入れ、さらに強固なイスラエルの進む方向を画策していった。

 

アラファトの登場、パレスチナ解放組織「ファタハ」設立 

二次にわたる中東での戦争により、アラブ諸国の混迷はさらに深まっていく。特にパレスチナを離れた若者の中には独自の方法で祖国パレスチナを奪回しようとの運動が次第に大きくなっていく。そうした中にヤーセル・アラファト(一九二九~二〇〇四)が登場してくる。

 

アラファトの登場、「ファタハ」を設立

アラファトは一九二九年の生まれ。出生地や出生日には二説あるという。アラファト自身の説明によれば一九二九年八月四日、母親の実家のあったエルサレム旧市街の「嘆きの壁」に隣接する一三軒の石造りの集落のうちの一軒で生まれたという。一方、エジプトにあるアラファトの出生記録ではエルサレムではなく、当時父親のいたエジプトのカイロでの出生で同年八月二四日に誕生したとなっている。四歳の時母と死別、少年時代をエルサレムの母方の叔父の家で腕白で元気に育ったという。

その後、アラファトはエジプトへ帰り、カイロ大学の学生となり学生組織のリーダーとなる。第一次中東戦争では義勇兵部隊に志願し、第二次中東戦争ではエジプト工兵大尉として従軍もした。戦後クエートへ移り間もなく建設会社を設立し実業家として成功する。だが祖国パレスチナの状況の悪化に苛立ちを募らせ祖国解放に動いていく。

一九五七年、アラファトは蓄えた資金を基にパレスチナ人学生らを中心とした戦闘的パレスチナ解放組織を結成した。この組織のアラビア語の頭文字を綴ると「ハトフ」となり、「死」を意味する。そこでこれを逆に読んで「勝利する」「征服する」の意味となる「ファタハ」を組織の名前としたという。

 

ファタハゲリラ活動始まる

一九五九年、ファタハパレスチナ人の政治活動への厳しい取り締まりが続く中、雑誌「フィラスティーンナー(我々のパレスチナ)」を発刊するなど次第に地下組織活動を露わにしていく。

 

イラク革命、王国から「イラク共和国イラク)」へ

一九五八年七月一四日、カセム将軍ら軍人グループはバグダードでクーデター実行、国王らを殺害し「イラク共和国(通称イラク)」の樹立を宣言した。「七月一四日革命」と呼ばれる。イラク王国は三代で滅亡した。

一九五九年、イラクは中東条約機構を脱退する。これを受けて中東条約機構は本部をトルコのアンカラに移し、「中央条約機構」と改称した。

 

)ナセル、アラブ結束への動き活発

二次にわたる戦争でのアラブ諸国の敗退は、結果的にアラブの結束を促進させることとなった。敗退の原因はアラブ諸国のいわば寄せ集めの力によるものだとの反省からも、アラブ民族主義はさらに強固になり「自分たちの手で祖国を取り戻そう」という動きが広がっていった。またイスラエルにより故郷を追われた難民たちも、イスラエルによる故郷帰還拒否政策にもめげず、祖国奪還の熱望は高まっていた。アラブの首脳たちは、まず自分たちが同じ考えを共有することが大切だと痛感するようになる。

 

ナセル主導、「アラブ連合共和国」を結成

スエズ運河国有化と第二次中東戦争で政治的勝利を手中にしたエジプトは、ガザ地区を含むシナイ半島に停戦監視のため国連緊急軍(UNEF)の駐留を認め、スエズ運河の通行も再開してエジプトの安定を図っていった。アラブ諸国はナセルの発揮した政治手腕を改めて評価し、よりナセルとの協調関係を深めようとしていった。イスラエルと南で接するシリアもそんな国の一つであった。アラブ世界の英雄であるナセルとの協調姿勢はシリア国民に支持された。そのような情勢下でナセルは次第にアラブのリーダーを自覚し汎アラブ民族国家樹立を目指すようになる。

一九五八年二月一日、エジプトとシリアは統合国家の樹立を表明、首都をカイロに置き「アラブ連合共和国」を結成し、初代大統領にナセルが就任した。三月にはイエメンが加わった。

 

シリア、アラブ連合から離脱し連合関係解消

しかし、アラブ連合共和国の将来は明るいと見られていたが順調ではなかった。

一九六一年九月、シリアはアラブ連合から離脱した。エジプトの高級官僚や軍人たちがシリアにエジプト統治方式を適用、属国のようにしようとしたこともあり.1、シリアが事実上「エジプトに併合された」と考えた軍人やナセル政策の批判者たちが反エジプトクーデターを起こした。新政権の首相に就任したクズバリは連合から脱退を宣言し「シリア・アラブ共和国」として再独立した。

この結果、同盟関係はわずか二年半で事実上解消となったがジプトはその後も引き続いて「アラブ連合共和国」の名称を国号に掲げ、アラブの統一への努力を重ねた。

 

ヨルダン川の取水問題、イスラエルとアラブ側対立は顕著に

一九六三年六月からイスラエル首相にベングリオンの後任としてレヴィ・エシュコル(一八九五~一九六九)が就いた。イスラエルにとってヨルダン川は重要な川である。周辺国にとっても生活上重要な「水」の供給源である。そのヨルダン川の水位が年々低下してきており、イスラエルと周辺の国々はこれを問題化し対立が目立つようになってきていた。

イスラエルは一九五四年頃より、南部のネゲブ砂漠での灌漑用にヨルダン川の水を汲み上げて送水する計画を進めていた。これに反発したアラブ側は一九六四年一一月、ヨルダン川上流の支流で川を分岐させヨルダンに送水する工事に着手した。ヨルダンへの取水が進むとイスラエルにとっては水不足を招く恐れがあり、イスラエルはアラブ側による重大な挑戦だと受け止めた。ヨルダン川の水を巡っての対立は、次のイスラエル側とアラブ側との戦争の主要な原因にもなっていく。

 

)第一回アラブ首脳会議開催、パレスチナ解放組織の結成を決める

一九六四年一月、ナセルの主導によりカイロでアラブ連盟による「第一回アラブ首脳会議」が開催された。

イスラエル闘争の総合組織の設立の必要性を確認し、「アラブ諸国の統一がパレスチナ解放への道である」として、「イスラエル支配下にあるパレスチナを解放することを目的とする組織」「イスラエルにより奪われた土地を奪い返すための組織」を結成することを決めた。考えの異なるパレスチナゲリラ組織や労働組合などをまとめ、統一してパレスチナ解放を達成しようとする組織の結成である。

 

(七)第一回パレスチナ民族評議会開催、パレスチナ解放機構(PLO)結成

一九六四年五月、ヨルダン統治下であった東エルサレムで「第一回パレスチナ民族評議会(PNC)」が開催され、世界中から四〇〇人以上の代議員が集まり「パレスチナ民族憲章」を採択した。本部をヨルダンのアンマンに置き、アラブ統一を目指す「パレスチナ解放機構(PLO)」が正式に結成された。最高議決機関はパレスチナ民族評議会とされ、正規軍としてパレスチナ解放軍が設立された。PNCで議長を選出、初代PLO議長に外交官しても活躍したアラブ連盟の幹部でパレスチナ生まれの弁護士シュカイリーが就任した。当初のパレスチナ解放軍はエジプト軍が中心で、政治路線は「ユダヤ人を地中海に突き落とせ」の反ユダヤ主義のスローガンのもと武装闘争によりイスラエルからパレスチナを解放することを掲げた。

 

アラファト主導のファタハ、独自活動を活発化

アラファトはシリアに軸足を置きながら結成されたPLOには直ちに加入せず、PLOとは距離を置いて独自の活動をしていった、

一九六四年一二月、ファタハの軍事部門はイスラエルに対する初めての軍事作戦を実行した。ファタハは「パレスチナ自身による武装闘争がパレスチナ解放への道である」とし、イスラエルと国際社会にパレスチナ人自身のアイデンティティを訴えた。

武器をソ連や東欧諸国などから購入して、戦闘訓練および兵站基地をシリアのダマスカスに設置。独自にイスラエルに対しゲリラ活動を続けていった。ファタハの動きに、協力的なシリア以外のアラブ諸国はあまりにもテロ的であると反発をみせるほどファタハの活動は積極的であった。シリアはファタハの闘争に刺激を受け、改めて反イスラエルへの姿勢を明確にし、占領されているゴラン高原イスラエル軍に攻撃を加えていく。

 

第三次中東戦争イスラエル、アラブ双方の動き急となる

一九六七年に入ってもアメリカ、ソ連の冷戦は続いている。ソ連は中東での優位を探っていた。ソ連のブレジネフ大統領は、ソ連が援助しているエジプトがイスラエルとの戦いに勝てば中東でアメリカより優位に立てると考えていた。

 

ソ連からの情報とナセルの行動

一九六七年五月、エジプト情報部は、ソ連から「イスラエルがシリア国境に大兵力を集結しシリアを先制攻撃する準備をしている」との情報を得、ナセルに報告した。しかし、ナセルはガザ地区のゲリラ情勢に目を向けており、情報部の報告には慎重で動きを見せなかった。アラブ諸国はシリアの状況を考慮し戦争の勃発を危惧した。ヨルダンは公然とナセルの弱腰を批判し始めた。「それでもナセルはアラブの盟主を自任するつもりか」などとアラブ諸国から批判されるとナセルのプライドが許さなかった。アラブのリーダーナセルは急に思い切った行動に出る。後で情報部の掴んだ情報は誤っていたとわかったが事態は動いていった。

 

ナセル、国連監視軍の撤退を要求、チラン海峡を封鎖

一九六七年五月一四日、エジプト軍はシナイ半島に大兵力を進駐させるとともに、半島に駐留する国連監視軍の撤退を要求した。国連監視軍は五月一八日までに半島から撤退した。

五月二二日、ナセルは紅海に通ずるチラン海峡はエジプトの領域だと主張し、イスラエル艦船の南への出口であるチラン海峡の封鎖を宣言した。そしてスエズ運河以西にエジプト軍を集結させてイスラエルへの対抗措置にでた。アラブ諸国もナセルの決断に合わせ結束体制をとる。

 

アラブ側は対イスラエル体制へ結束

五月三〇日、ヨルダンのフセイン国王は急遽ナセルと会い、エジプト、ヨルダン、シリア三国軍事同盟の結成を急いだ。イラク、クエート、スーダンアルジェリアも派兵を約束し、対イスラエル体制を固めた。

 

イスラエル側は対アラブに挙国一致体制、実力者が揃う

アラブ側がナセルを中心に対イスラエル体制を固めつつあるのに対し、イスラエルも対抗を考える。だがイスラエルは建国から二〇年近く経ち、二度の戦争も経験し政治的にも経済的にも過渡期にもあり、意見が分かれていた。エシュコル首相は慎重であった。近隣アラブ諸国の圧力、中でもエジプトのチラン海峡の閉鎖は経済的にも影響は大きく、第二次中東戦争のような英、仏との協力も望めない現在、単独で戦うのは無理だと考えていた。

しかし、首相らの慎重派に対して強硬意見の実力者らが前に出てきた。

六月一日、アラブ諸国の脅威に対する積極的な挙国一致内閣が成立した。独眼の猛将ダヤンが国防相として入閣する。闘士ベギンも入閣した。それに参謀総長にはラビンが就いている。ダヤンら強硬派の入閣はイスラエルの世論を一気に戦争に向けることになった。

六月二日、もはや開戦は不可避と判断したイスラエルは、「国防閣僚委員会と参謀本部の合同会議を開催し、来るべき戦争をいかに戦うかを討議した。

六月四日、イスラエル閣議は軍事行動に全権を首相と国防相に一任する。

第一三章 第三次中東戦争とその後

第三次中東戦争

イスラエルの先制攻撃で開戦

一九六七年六月五日午前八時過ぎ、「攻撃される前に攻撃すべきだ」とイスラエル空軍はエジプト、ヨルダン、シリア、イラクの空軍基地に先制の奇襲攻撃を行った、滑走路に並んだアラブ側の空軍はなす術もなく、飛び立てないまま壊滅的な被害を受けた。

翌六月六日、イスラエル軍は休む間もなく、エジプトが支配していたガザを占領した。

六月七日にはシナイ半島のエジプトの強力戦車部隊を壊滅させシナイ半島を占領、七日と八日にはヨルダン軍支配のヨルダン川西岸を攻撃、エルサレムとテルアビブ間の要衝ラトルンを急襲した。さらにエルサレム旧市街を占領し、エルサレム東地区を奪取。東西エルサレムを統一した。

イスラエル軍は、遂にヨルダン川西岸地域全体を支配下に置いた。ヨルダン軍はヨルダン川の東へ退却し、ヨルダン領はヨルダン川の東地域のみに縮小した。

六月八日、エジプトとヨルダンは国連安保理の停戦決議を受け入れを発表した。

六月九日、イスラエル軍はさらに北のシリアゴラン高原に侵攻、シリア軍を退却させ、ゴラン高原を占領した.

 

イスラエルの圧勝、国連の停戦決議を受諾し停戦

六月一〇日、シリアも停戦決議を受け入れ、六月五日に始まった戦争はわずか六日間でイスラエルの圧勝で終結した。「第三次中東戦争(アラブ側は六月戦争、イスラエル側は六日戦争と呼ぶ)」である。

 

イスラエル圧勝、占領地拡大、エルサレムを「統一された首都」と宣言

第三次中東戦争イスラエルの圧勝に終わった。一方の圧勝は他方の悲劇と苦悩を発生させる。この戦争の結果、ヨルダンはヨルダン川西岸地区を占領され、エジプトはガザ地区を失いシナイ半島を占領された。シリアもゴラン高原を占領された。これによりイスラエルは、ヨルダン川西岸地区ガザ地区を占領したことで国連のパレスチナ分割案の元となった「パレスチナ全域」を掌握した。

イスラエル国民は、この大勝利に歓喜、とりわけ聖地エルサレムや旧市街奪還という悲願の達成はこの上ない喜びであった。東エルサレムは二〇年ぶりに取り戻され、ヨルダンにより設けられていた東西境界線の壁は撤去されて東西エルサレムは併合された。ヨルダン川西岸とガザ地区には軍政が敷かれた。今は広場になっている「嘆きの壁」の前一帯(マグレブ地区)にあったイスラエル人の一三五戸の住人六五〇人は、突然立ち退きを命じられ家はブルドーザーで破壊された。

一九六七年六月二七日、イスラエルは東エルサレムを併合し、「東西エルサレムイスラエルの統一された首都」と宣言する。イスラエルパレスチナ全域を掌握したことで、占領地は一挙に今までの五倍近くに拡大した。一九四八年の独立宣言当時七〇万人程度であった人口は、二七〇万人にもなった。

この戦争によりイスラエルは強固な「国家」としての基盤を形成し、中東に新たな緊張関係を生み出していく。

 

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()パレスチナ難民(パレスチナの地から逃れたアラブ人)の大量発生

パレスチナ全域がイスラエルの占領地となり、第三次中東戦争はまたも多数の難民を発生させた。第一次中東戦争でも多くの難民を生じさせたが今回の戦争は最大の難民問題を引き起こした。多くのパレスチナの住民が故郷を離れ、特にヨルダン川東部のヨルダン領などへの難民の流入は後を絶たなかった。さらにアメリカをはじめ世界各地に移り住んだ者も多数いた。

パレスチナから逃れ移り住んだ者は「パレスチナ難民」と呼ばれ、一〇〇万人以上といわれる。パレスチナ難民は「これまでパレスチナに住んでいたアラブ人が、ここを占領しイスラエルという国を創ったユダヤ人によりこの地を追われ難民となった」のであり、パレスチナ人という固有の民族は存在せず、「パレスチナ人」という固有の民族が難民となったのではない。パレスチナ難民は、パレスチナに住んでいたアラブ人が、イスラエルパレスチナ占領によりその地から追われ「自分たちはパレスチナ難民」という共通意識が生まれてきて、そこから「パレスチナ人」という意識が出来上がっていったと理解するとされる。

一方、難民とならなかった者も多くいた。占領地に残りイスラエル軍の占領下で苦労して暮らしていった。

さらに一部にはイスラエル国民になる道を選ぶ者もいた。なお現在、イスラエル領内には「イスラエル・アラブ人」としてイスラエル人口の約二〇%(一八〇万人)を占めるという。(現在、子孫を含め四〇〇万人以上の人々が故郷へ帰る権利をパレスチナ側は主張しているが、イスラエルは難民の帰還を拒絶しており、「イスラエル・アラブ人」の問題と合わせ和平交渉の最大の難問の一つになっている。)

 

)アラブ首脳会議、イスラエルに屈しない結束の「三つのノー 」を決議

イスラエル第三次中東戦争の大勝利に沸き、占領した領地は絶対に離さない姿勢だ。イスラエルの国内では、もはやアラブ諸国パレスチナ問題を武力で解決する道を諦め、和平交渉のテーブルに着いてくると読んでいた。

しかし、敗北したアラブ諸国は屈辱に満ちながらもここで意思を結束する。壊滅的な大敗北を引きずって、ずるずるとイスラエルの意のまま交渉のテーブルに着くことは、アラブ側にとって耐え難い屈辱である。敗北したままで交渉に臨めばそれは降伏を意味し、アラブ諸国のプライドが許さなかった。

一九六七年八月末から、アラブ諸国スーダンの首都ハルツームで第四回アラブ首脳会議を開催し、九月一日、後に、「アラブの三つのノー」として知られる「イスラエルと交渉せず」「イスラエルと講和せず」「イスラエルを独立の国として承認せず」の原則を決議し、アラブ諸国としての統一意思を改めて確認した。

 

第三次中東戦争の戦後処理の原則を定めた「安保理決議二四二号」

第三次中東戦争が終わって各国の反応は注目される。アメリカはイスラエルの立場を支持し、国家の安全を保障するため、イスラエルは必ずしも全占領地から撤退しなくてもよい」と主張した。一方、ソ連はアラブ支持の立場をとり、戦争の原因はイスラエルの先制攻撃にある。全占領地からのイスラエル軍の撤退を呼び掛けた。イスラエル支持国もアラブ支持国も、国連総会や安保理の裏舞台でも動いた。そうした中で、安保理の決議が注目された。

一九六七年一一月二二日、国連安保理イスラエルに対してこの戦争で占領した領土から軍隊を引き揚げるように要求、戦争当事者に中東での公正かつ永続的な平和の確立のために円満な解決を呼びかけ和平のガイドラインとして原則を定めた〈中東紛争解決に関する安保理決議二四二号」を決議した。

  • 占領された領土からのイスラエル軍の撤退
  • 中東のすべての国家の主権、領土の保全、政治的独立の尊重と承認
  • アラブ諸国イスラエル国家を承認する
  • あらゆる交戦状態を終結し、あらかじめ承認された境界内で、安全を保障されて平和に生存しうるよう公正かつ永続的な権利の確認をする

しかし、イスラエルは軍の占領地からの撤退など論外であり全面的に無視した。大変な犠牲を払いようやく手に入れた聖地や領土の放棄につながる軍の撤退などは決して容認されるものではない。「占領地から絶対に撤退しない」とする立場で安保理決議を無視した。しかも、占領地にユダヤ人の住宅建設も始めていった。

アラブ諸国も、この決議を認めることは「イスラエルが占領したパレスチナ全土の支配を既成事実として承認し、イスラエルを独立の国と認めことになる」、「パレスチナ人の民族自決権について一切言及がない」として安保理決議を受け入れることはできないとした。

結局、安保理決議二四二号は決議されたものの、解釈の仕方の相違もあり双方から受け入れを拒否されたままとなった。この二四二号のはっきりした動きは二〇年後の一九八八年一二月のアラファトの「受諾」発言までかかることになる。

この第三次中東戦争はその後の中東情勢に大きな影響を与えた節目となる戦争であり、現在のイスラエルパレスチナの関係を理解するにあたり最も注目していく必要のある戦争であった。

 

(六)PLO、次第にパレスチナ奪取への「武力闘争組織」に変化

PLOの発足初期では、アラブ諸国の統一がパレスチナ解放への道だというアラブ・ナショナリズムイデオロギーが支配的で、多くのパレスチナ人はアラブ諸国が祖国パレスチナを「取り戻してくれる」であろうと期待していた。だがPLOは次第に「武力闘争によりパレスチナを奪い取ることこそ解放への道である」との考えが支配的になり「武力闘争組織」化していく。軍事活動が活発になり強力にイスラエルに対するゲリラ闘争を繰り広げることになる。

 

アラファトファタハ、PLOへ加入

第三次中東戦争が終わって、アラファトは行動姿勢を明確にしていく。「アラブは三度もイスラエルと戦ってきたが、いずれも敗北した。これではパレスチナの解放はほど遠い。エジプト、シリア、ヨルダンの力だけに頼っていては、永久にパレスチナの郷土は戻らない。我々パレスチナ人が主体となってイスラエルに対抗し、我々の手でパレスチナ国家を建設する以外に方法はない。今こそパレスチナ人として目覚め、パレスチナ人自身による武装闘争に訴える時だ」とアラファトの決意は高まっていった。

一九六七年、アラファトファタハのPLOへの加入を決断した。ヨルダンにはゲリラ組織の拠点が集まった。PLO傘下にはアラファトの主導のファタハジョルジュ・ハバシュを指導者とするパレスチナ解放人民戦線(PFLP)、ナイフ・ハワトメが率いるパレスチナ解放人民民主戦線(DFLP)などがそれぞれの考えを異にしながらイスラエルへの対抗活動が続けられていった。

 

アラファト、「カラメの戦い」に勝ち名声高まる

一九六八年三月一八日、遠足から帰る途中のユダヤ人の子供を乗せた車が砂漠を走行中、パレスチナ側が埋めた地雷に触れ二九人が死傷する事件が起きた。

三月二一日、イスラエル側はこれを機会にパレスチナ側の挑戦だとして報復にでた。イスラエルの大軍はヨルダン渓谷を越えてヨルダン領内のファタハの施設のあるカラメの町に大攻撃を仕掛けてきた。ここににはパレスチナ難民が多く住んでおり、難民に危機が迫ってきた。アラファト率いるファタハ勢は敢然とイスラエル軍に立ち向かった。少人数、かつ貧弱な兵器しか無い不利な状況にあったがヨルダン軍の支援を得ながら大激戦の末この攻撃を防ぎイスラエルの大軍を撃退させた。三〇〇人近い死傷者を出したイスラエルにとっては大誤算であった。一方アラブ側にとっては、イスラエルの建国以来初の「イスラエル軍撃退」の大勝利となった。この戦いを「カラメの戦い」と呼ぶ。

アラブ諸国はこの勝利でアラファトを一躍「PLOのアラファト」「アラブ世界のヒーロー」に押し上げた。

ゲリラ組織は人々の支持を獲得し、PLOの実権を握っていく。ファタハの威信は高まり、何千人もの若者が「フェダイーン」に志願していった。「フェダイーン」は「ゲリラ活動の闘士」「パレスチナ大義に自らを犠牲にする者」の意である。

七月、PLOはカラメの勝利によって高揚したパレスチナ人の民族意識を高らかに謳い上げた「パレスチナ民族憲章」と呼ばれる声明文を採択した。その第九条に「武装闘争は、パレスチナ解放の唯一の方法である。云々・・」とあるように、パレスチナの活動は対イスラエル闘争を先鋭化していく。

 

アラファト、PLO議長に就任

一九六九年二月、アラファトは第五回パレスチナ民族評議会(PNC)においてシュカイリーに代わりPLO議長に選出され、パレスチナ解放運動の最高リーダーとなった。

パレスチナ解放運動の最高リーダーの座に就いたということは、アラファトにとっては「ファタハ」のリーダーにとどまらず、ファタハ以外の解放勢力をも掌握する責任者となったことである。活動勢力には「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」、「パレスチナ解放民主戦線(DFLP)」、「サイカ(雷鳴)」などいくつもの組織ができていたが、カラメの戦い後にも次々に誕生した過激なグループも多くあり、アラファトは議長としてこれら組織をも統括していくことになる。

 

一〇第三次中東戦争後にエジプト軍とイスラエル軍が交戦、「消耗戦争」

第三次中東戦争で圧倒的勝利を勝ち取ったイスラエルでは、戦争が終了すると次第に軍事的危機感は薄れ、軍の縮小議論まで出るほどに緊張感はなくなってきていた。一方、シナイ半島を失ったエジプトでは、イスラエルに対する対抗意識を失わず、スエズ運河沿いに駐留するイスラエル軍に砲撃を加えるなどの散発的な攻撃を行っていた。

六八年九月、スエズ運河沿いのイスラエル軍に向けてエジプト軍が対岸から大規模な砲撃を加えた。イスラエル軍は対抗手段に欠け、衝突はスエズ運河を挟んで恒常的にそれから二年も続いた。

一九七〇年八月、アメリカの仲介で停戦となるが、この間双方に何千人もの死傷者を出した。この戦争衝突の結果はあまり効果のない戦闘で「消耗戦争」と呼ばれる。

 

一一)ヨルダンとPLO、軍事衝突からヨルダン内戦(通称「黒い九月」)へ

PLOのヨルダンでの行動、ヨルダン側から批判

ヨルダンでは、第三次中東戦争エルサレムを含めヨルダン川西岸をイスラエルに奪われ国土が縮小していた。ここへ大量にパレスチナ難民が流入してきており、さらにゲリラ組織の増加と横暴化などで国内秩序が混乱し始めてきた。このようなヨルダン国内の状況下で、PLOは首都アンマンを中心に勢力を拡大し、強力なテロ組織へと成長していった。PLOはヨルダン国内で「PLO国」的な存在となり、横暴な行為も目立つようになる。PLOが、イスラエルと戦う前に保守的なヨルダン国王を排除しなければと主張するようになるとヨルダン当局との対立は避けられない。また、イスラエルはヨルダンにあるPLOの拠点を攻撃するだけでなくヨルダン自体にも攻撃を加えるようになる。

このようなヨルダンの状況にフセイン国王は、国内にいるゲリラ的組織が自国ヨルダンにとって「危険な活動組織」だと考え、これら組織を国外に追い出そうと画策し始めた。アラファトはこれに対抗する動きを見せる。

 

ヨルダンとPLO、対立激化、軍事衝突からヨルダン内戦へ

一九七〇年九月、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)がスイス民間旅客機四機をハイジャックし、そのうち三機をヨルダンの砂漠で爆破するという事件が起きた。和平ムードを壊し、ヨルダンで革命を起こすことを目指していたという。ヨルダン側と解放組織との対立は決定的となった。フセイン国王はこの航空機ハイジャック事件を機にパレスチナゲリラの一斉排除攻撃に踏み切り、ゲリラ基地への攻撃を開始した。ヨルダンとPLOの関係は急速に悪化、遂に衝突事件に発展し、アンマンのパレスチナ難民キャンプが主戦場になり多くの一般市民が死傷した。ヨルダン国王軍とPLO軍事組織とが衝突する闘争に発展し「ヨルダン内戦」となった。

ここでシリア軍がPLO側を支援するために介入姿勢を見せ国境を越え始めた。内戦はシリアとヨルダン戦の様相にもなってきた。ここでアメリカの後ろ盾でイスラエルが介入しヨルダンを支援する行動を起こし始めた。シリア軍はイスラエルが相手となっては勝ち目がない。シリア軍はヨルダンから軍を引き帰国してしまった。シリア軍の支援のないPLO側の苦戦は免れない。ヨルダン軍はパレスチナゲリラ攻撃に集中しゲリラ側は大きな損害をうけて敗退し、エジプトのナセル大統領の仲介により多く月レバノンに逃れた。

九月に起きたこの事件をパレスチナ側は「黒い九月」と呼び彼等の脳裏に深く刻まれていく。

 

一二)PLOの拠点、ヨルダンからレバノンへ移る

一九六九年一一月、ヨルダン側と対立していたPLOはレバノン当局と密かな合意を図り、「カイロ協定」と呼ばれる約束を結んだ。「レバノンの主権と安全の範囲内で、内政に干渉せず、国内のパレスチナ人難民キャンプ内での事実上の自治を認め、パレスチナ人の武装闘争の権利、パレスチナ難民キャンプ内での武装組織の活動を容認」するとした。PLOはレバノン側と密接になっていく。

一九七一年七月、ヨルダンの攻勢に敗北したPLOは、ヨルダンに留まることができず、PLO拠点(アラファト議長)と共に活動拠点をレバノンベイルートへ移した。これを契機にレバノン南部にはヨルダンから追われたパレスチナゲリラが移り最大の拠点となっていく。難民キャンプではこの状況を熱烈に歓迎した。

このレバノンイスラエルの北に隣接し、以前からオスマン帝国の領土であったが、第一次世界大戦の戦後処理でシリアとともにフランスの支配下に入り、歴史的にも経済的にもシリアと一体感が強く一九四〇年代にそれぞれレバノン、シリアとして分離した形で独立していた。世界的に見ても特殊な「宗教体制」をとり、キリスト教諸派イスラム諸派などが入り乱れ、複雑かつ微妙な力の均衡により成り立っている「モザイク国家」であるといわれる。「大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラムスンニ派、国会議長はイスラム教シイーア派から選出する」ことを慣例として政治的にバランスを保っていた。そこに多数の難民やPLO関係者らが入ってくると人口比率が変わり、レバノン国内の政治的バランスが崩れてくる。

 

一三イスラエル首相エシュコル死去、後任に女性のメイア

一九六九年三月、外務大臣の経験を持つゴルダ・メイア(一八九八~一九七八)がイスラエル初の女性としてエシュコルの死去により第五代の首相に就く。

 

一四)エジプトのナセル大統領が急死、サダト副大統領が後を継ぐ

一九七〇年九月二八日、エジプトのナセル大統領が心臓発作で急死した。ヨルダン内戦の調停などで多忙を極めていたといわれる。心待ちにしていたアスワンダムの完成を見ることはなかった。

一〇月一五日、ナセル大統領の急死を受けて後任に副大統領のアンワール・サダト(一九一八~八一)が大統領に就いた。自由将校団の一員でありこれまでよくナセル政権を支えてきた。政治的力量は未知数であったがアラブの主導国のリーダーとしての手腕が期待された。

一九七一年、サダトはこれまで「アラブ連合共和国」としてきた国号を「エジプト・アラブ共和国」に変えた。

 

一五)シリア大統領にバース党のアサド就任

一九七一年二月、シリアでは前年無血クーデター(矯正運動)で実権を握ったバース党穏健派のハーフィズ・アル・アサド(一九三〇~二〇〇〇)が国民投票により大統領に就任した。

 

一六)PLO傘下組織、ロッド空港での航空機乗っ取り事件などテロ活動続く

一九七二年五月、PLO傘下のテロ組織「ブラック・セプテンバー」がロッド空港(現在のベングリオン国際空港)行きのサベナ機を乗っ取り、逮捕されている仲間三一七人の解放をイスラエル政府に要求し乗客を人質にする事件が起きた。イスラエル政府は要求を拒否し特殊部隊を突入させ乗客九三人を救出した。四人の犯人のうち二人を射殺、二人を逮捕した。ハイジャックは失敗した。この失敗の報復としてPFLPの支援を受けていた日本赤軍が、ロッド空港で銃を乱射し、二六人が死亡する事件を起こした。

九月、同じく「ブラック・セプテンバー」グループがドイツのミュンヘン・オリンピック村のイスラエル選手らを襲い、選手、コーチら一一人を殺害する事件も起こす。

その後もPLO傘下のゲリラは、各所で何回もゲリラ活動を起こしていく。