第一六章 一九九〇年代の中東情勢

一九九〇年(平成二年)から一九九九年(平成一一年)までの主な中東情勢について年を追って見ていく。

 

一九九〇年

(一)イラク軍クエートに侵攻、湾岸危機の勃発

イラン・イラク戦争は一九八八年八月に終結したが、戦争の結果イラクにプラスは少なく借金は拡大、戦後の経済政策など国民の生活への不満が高まり、フセイン大統領は新しい対応に迫られてきた。

そこでフセインはクエートを標的にした。クエートはイラクにとってアラビア海に出る好位置にあり、イラクは以前から石油産出問題などを含めクエートの動きに強く関心を持っていた。遡ればイラクとクエートはオスマン帝国の時代には一つであったがイギリスが支配した後、イラクとクエートに分割した経緯がある。

八月二日、フセインは「クエートは歴史的にもイラクの一部だった」「最近のクエートの石油生産政策は許せない」とばかりに大軍をクエートに侵攻させた。アメリカはこの侵攻に対し、先のイラン・イラク戦争の時のようにフセインの行動を大目に見ることはなかった。米ソ冷戦は前年に終結しており、もうイラクを援助するメリットはなく、クエートの石油がイラク支配となった場合など世界的に大きな影響が出ると懸念したブッシュ大統領イラクをクエートから追い出すことを考えた。アメリカのイラク攻撃計画にサウジアラビア、エジプト、シリアなどは賛同した。

 

イラク、クエートの併合を発表

八月八日、イラクはクエートをイラク第一九番目の州として併合すると発表した。

 

安保理イラク軍の即時無条件撤退を決議、フセインは拒否

国連安保理、クエートからのイラク排除を決議

八月八日、国連安保理イラクのクエート併合に直ちに反応し、イラク軍が無条件でクエートから撤退することを求め、翌九一年一月一五日までにクエートから撤退しない場合には「武力行使を含む必要なあらゆる手段」をとることを認める決議を採択した。イラク軍追い出しに他国軍隊の攻撃を認めるとした決議である。

また、八月一〇日にアラブ連盟も緊急首脳会議を開き、イラクのクエート併合を無効とする決議をした。しかし、PLOは反対した。

 

フセイン安保理決議を拒否、強硬姿勢を示す

フセイン大統領は国連安保理イラク軍の即時無条件撤退決議を拒否する。「イラクが侵略者だと非難されるなら、イスラエルも侵略者だ。そのイスラエルは国連の撤退決議に反してパレスチナを二〇年以上占領し続けているではないか。国連やアメリカはそのようなイスラエルに制裁を加えず、我々だけを非難するなどとは全く逆だ。我々にクエートから出て行けというのであれば出て行ってもいいが、その前にイスラエルパレスチナの占領地から撤退せよ」と、いわゆる「リンケージ論」を展開し、イスラエルの問題を持ち出すことでクエートに攻め込んだ自分の正当性を主張した。このフセインの発言にパレスチナの人々は「よく言ってくれた」とフセインを持ち上げた。

 

アラファトフセイン支持を宣言、アラブ諸国アラファト不支持へ

アラファトフセインのリンケージ論やパレスチナ人の間でのイラク人気を後押しし、フセインのクエート侵攻など一連の行為を支持すると宣言した。ところがこの決断は大きな代償をもたらすことになる。

アラファトフセイン支持に激怒した湾岸諸国は猛烈に反発し、PLO支援から離れていく。アラファトは湾岸諸国から疎外され窮地に陥っていく。PLOの活動資金の大半はクエートとサウジアラビアから出ている。アラファトがそのクエートを占領したイラクを支持するとしたことに怒りが収まらない。PLOへの資金送金は停止するようになる。また、これら諸国に在住するパレスチナ人も国外に追われ始め、これによりPLOは資金面で困窮するようになっていく。

 

(五)多国籍軍イラク攻撃態勢をとる

クエートから軍を引かないイラク攻撃に、アメリカ軍を中核に二八ヵ国、六〇万人超の多国籍軍が編成されイラク国境付近に集結した。

 

一九九一年

(一)湾岸戦争

多国籍軍バグダッド空爆湾岸戦争勃発

一月一五日、国連が求めたイラク軍のクエートからの撤退の日であるが、イラク軍は撤退の動きを見せない。

一月一七日、多国籍軍イラク軍へ総攻撃をかける。イラクの首都バグダッド空爆、「湾岸危機」は「湾岸戦争」に発展した。なおこの際、サウジアラビア多国籍軍に駐留地を提供し、オサマ・ビン・ラディンがこれを非難したことが後に彼が起こしていく大きな事件の発端になったといわれる。

 

イラクイスラエルを襲撃、しかしイスラエルは「報復」反撃を自重

多くのアラブ諸国フセインのクエート侵攻と撤退拒否姿勢に批判的である。フセインアラブ諸国の批判をかわし、自分の方に向かせたかった。

戦争が始まるとイラクイスラエルを戦争に引き入れようと参戦していないイスラエルのテルアビブやハイファなどにミサイルを何度も撃ち込み死傷者をだす行動にでた。

しかし、イスラエルはあえて反撃をしなかった。この攻撃にイスラエルが怒り反撃しイラクを攻撃すれば、直ちに「アラブ対イスラエルの戦争」になり、アラブ諸国フセイン側に立って戦うことになる。アメリカはこのようになることを一番恐れ、イスラエルが反撃することやめさせた。イスラエルはこの説得を受け入れて反撃をしなかった。フセインの狙ったアラブ諸国の反イラク批判をかわそうとする作戦は失敗した。

 

多国籍軍、地上戦を開始、イラク領内に侵攻

二月二四日、多国籍軍は地上戦を敢行しイラク領内に侵攻し猛爆を加えた。士気は上がらず装備の古いイラク軍はハイテク装備の多国籍軍の敵ではなかった。

 

クエート解放、湾岸戦争終結

二月二八日、多国籍軍はクエートを奪還した。ブッシュ大統領はクエート解放を宣言し停戦を発表した。

三月三日、イラク安保理決議を受け入れ、事実上の降伏の形で戦争終結となる。

 

(二)アメリカ仲介、マドリードで「中東和平国際会議」開催

アメリカ、中東和平会議へ動く

三月六日、湾岸戦争終結すると、アメリカは中東和平の好機とみて動き出した。ブッシュ大統領の主導によりベーカー国務長官は積極的に仲介に乗り出し、イスラエルパレスチナの直接対話の可能性を探りイスラエルアラブ諸国が参加する中東和平国際会議の開催を目指した。

イラク支援で失速したPLOは、アメリカの動きに「渡りに船」と乗り気になり、会議開催に期待を寄せた。

 

イスラエル、会議にPLOがパレスチナの代表として参加することに反対、アメリカは参加メンバーを再調整

イスラエルのシャミル首相は会議への参加に注文をつけ、パレスチナ代表団側にアラファトやPLOが参加する会議には出席しないと主張した。またシリアも、会議は米、ソ共同開催ではなく国連とすべきだと主張した。

アメリカは会議への参加メンバーを再調整することにした。ベーカー国務長官は会議に消極的な国々にも粘り強く交渉し、根気よく会議の開催方法など調整を続けようやく会議の開催に漕ぎつけた。

会議のパレスチナ代表団は、PLOもアラファトも加わることのないパレスチナとヨルダンの合同代表という形で参加することでまとまった。会議の参加は、イスラエル代表団、パレスチナとヨルダンの合同代表団、シリア、レバノン、エジプトで開催すると決まった。

 

マドリードで中東和平国際会議の開催

一〇月三〇日、中東和平国際会議はホスト国スペインのマドリードで開催され、一九四八年のイスラエル建国以来、初めてイスラエルパレスチナの敵対同士が同席する歴史的会議となった。「マドリード中東和平会議」と呼ばれる。

会議は「イスラエルが占領地から撤退すれば、アラブ諸国イスラエル生存権を認め、テロ行為を止め、和平を結ぶ」という国交樹立、中東包括和平が出来るかが焦点である。言わば「土地と和平の交換」が実現するかにあった。

初日はホスト国スペインのゴンザレス首相の挨拶と会議の共同開催国アメリカのブッシュ大統領ソ連ゴルバチョフ書記長の演説があり、二日目からイスラエルとアラブ代表団の演説が行われた。

イスラエル代表団側は、シャミル首相自らが演説した。当時住宅建設相のシャロンの後押しもありシャミル首相は「我々はエルサレムを首都とする唯一の民族である」、「この聖なる土地は、神の与えたイスラエルだけのものだ」などと主張し、頑ななまでに妥協を拒絶する強硬姿勢であった。

パレスチナ代表団は、ガザの医師であるシャフィー代表が演説した。代表団は常にチュニジアアラファトと連絡を取っている。シャフィーは「希望を共有しよう。そして一緒に約束の地に住もうではないか。そのため対等のパートナーになることが必要だ。そのためにも入植活動と土地収用は停止すべきだ」と主張し共感を呼んだ。

 

和平会議の終了

三日間に及んだマドリードでの会議はシャミルの強硬論とシャフィーの和平論は噛み合わず、双方が主張を述べ合う場で終わり、交渉は停滞したままで目的は達成できなかった。

その後イスラエルと周辺国との交渉は引き続きワシントンで行われたが進展はなかった。しかし、パレスチナにとっては大きな前進となる会議でもあった。アメリカのリードにより、今まで以上にイスラエルの占領地問題が俎上に上り、敵対同士が同じテーブルに着いたということは、その後の和平プロセスへの突破口となり「一歩前進」であった。

 

(三)PLOへの国際的支持、湾岸戦争終結頃から下降気味になる

湾岸戦争終結後、PLOに対する各国の対応は極端に冷淡になった。アラファトフセイン支持に激怒した湾岸諸国はPLOの支持者ではなくなった。今まで続けられていたPLOへの資金援助は打ち切りとなり、PLOの主要な財源を占めていたクエートなどへの出稼ぎ労働者らからの「税収」も彼らが国外に退去させられるなどして激減。「村八分」的にされたPLOの財政的基盤は揺るぎ始めた。また、クエートはPLOの事務所も閉鎖した。

PLOは国際社会の支持を失い孤立していく、経済的にも困窮し、アラファトの権威も落ち目になっていった。このようなPLOの政治的にも財政的にも危機といえる状況にあっては、アラファトには一九八八年の「パレスチナ国家宣言」の時のような勢いは無かった。またPLOにも強気で対イスラエル闘争を続ける気概はもう残されていなかった。

 

(四)ソ連崩壊、エリツィンロシア連邦の初代大統領に

一二月二五日、ソ連は崩壊した。ゴルバチョフ書記長が辞任し、エリツィンロシア連邦の初代大統領となる。

 

一九九二年

(一)イスラエル総選挙で労働党勝利、第次ラビン政権発足

六月、イスラエル総選挙で労働党はシャミル首相主導のリクードに勝利した。

七月一三日、労働党の党首イツハク・ラビンは二五年ぶりに二回目の首相に就いた。ペレスを外務大臣、若手有力議員ペイリンを外務副大臣に起用する。ラビン内閣は和平推進派である。和平に消極的なリクード政権と違い和平推進に前向きなラビン政権がどのような動きに出てくるか期待された。

(二)イスラエル総選挙で敗れたリクード、党首にネタニヤフを選出

シャミルを党首とするリクードは総選挙で敗れた。シャミルは退きリクードは党首選を行った。四〇歳を少し過ぎたばかりの新鋭のベンヤミン・ネタニヤフが先輩ベギンらに勝ち三代目の党首となる。ネタニヤフは、シャミルと同様に和平推進には消極的である。

和平推進派の労働党のラビンと消極派のリクードのネタニヤフが共に足場を固めたことにより、今後のパレスチナ問題をめぐる双方の駆け引きが注目されることになる。

 

一九九三年

(一)アメリカ大統領、共和党のブッシュから民主党クリントン

一月二〇日、第四二代アメリカ大統領に共和党のブッシュに勝利した民主党ビル・クリントン(一九四六~)就任した。

 

(二)ニューヨーク世界貿易センタービル爆破事件

二月二六日、ニューヨーク世界貿易センタービルが爆破される事件が起き、大統領就任直後のクリントンは、テロの脅威にショックを受ける。クリントンはこの事件により、より中東問題の解決の重要性を認識させられることとなる。

 

(三)イスラエルとPLO、ノルウェーオスロで和平推進の秘密交渉

ノルウェーオスロで和平推進について秘密交渉合意

イスラエルのラビン労働党政権は和平推進には理解を示す。「PLOとの交渉なしにはパレスチナ問題の解決なし」との考えを強くし、前年からノルウェーホルスト外相の仲介を受け、非公式にPLOと接触し始めていた。マドリードでの和平工作がPLOを外し、しかも衆人環視の下で行われたため失敗したとの反省から極秘のうちにペレス外相を軸にイスラエルパレスチナ双方の関係者が、エルサレムノルウェーオスロなどで何回も協議を重ねた。実際には、前年からひそかに関係者らがエルサレムなどで会合を重ねていたのである。

五月、秘密交渉はイスラエル政府とPLOの代表による協議へと格上げされて引き続き協議は続き、七月の交渉では途中決裂の危機もあったが双方は粘り強く協議を重ねた。八月には、ペレス外相がオスロを訪問し、関係者とさらに詰めながら、アラファトとも電話協議する。その上、ペレス、アッバスホルストら交渉責任者らが詳細に協議した。

八月一八日、遂に「イスラエル、PLO相互承認」の合意に漕ぎつけた。アラファトは安堵と幸福感で声をあげて泣いたという。

八月二〇日、代表団は「パレスチナ暫定自治に関する諸原則合意」の和平案に署名した。「パレスチナ暫定自治に関する諸原則合意」である。

 

オスロ秘密交渉の合意承認

九月三日、交渉結果についてPLO執行委員会で協議した。アラファトは合意内容が「欠点がないもの」とは認識していなかった。合意を受け入れるよう説明する際にも十分気を使った。合意に反対、批判があることは承知で熱心に説明した。反対者も多かったが投票の結果、賛成票が反対票をわずかに上回った。アラファトは安堵した。賛成多数で承認された。この承認を得て、後日の「調停」を待つことになった。

九月九日、ノルウェーホルスト外相が二通の手紙を持ってエルサレムチュニスを往復する。一通は、アラファトからイスラエルのラビン首相宛である。「PLOはイスラエル生存権を認める。安保理決議二四二号と三三八号を受け入れる。テロを始め暴力行為をやめる。パレスチナ民族憲章にあるイスラエル生存権を否定した条項は訂正する」などとした。もう一通は、ラビン首相からアラファト宛である。「イスラエル政府は、PLOをパレスチナの代表として正式に認める」とした。「オスロ秘密交渉」の合意である。

 

(四)イスラエルとPLO、「パレスチナ暫定自治協定」(オスロ合意)調印

クリントン大統領、仲介へ動く

ノルウェーでのイスラエル、PLO双方の歩み寄りにより、長年にわたり希求してきた和平への進展に明るさが見えてきた。正式調印には当事者同士が承認し合っていなければならない。アメリカはこの交渉に直接関わって来なかったが、クリントン大統領は就任一年も経たないうちに、イスラエルパレスチナの関係がこのように好転してきたことを幸運とみて直ちに仲介へ動いた。

 

パレスチナ暫定自治協定」の共同宣言(オスロ合意)調印

九月一三日、ラビンとアラファト両者はワシントンのホワイトハウスにおいてクリントン大統領、ブッシュ前大統領、カーター元大統領、キッシンジャー国務長官らをはじめ約三〇〇〇人の招待客を前に「パレスチナ暫定自治協定」の共同宣言に調印した。ここに至るまでのノルウェーの役割、中でもホルスト外相の貢献は大きい。ノルウェーの首都オスロでの事前交渉の合意を踏まえての宣言であるので「オスロ合意」または「オスロ宣言」と呼ばれる。

 

オスロ合意の要点

合意の要点は、五年間のパレスチナ暫定自治を行い、その三年目までにエルサレムの帰属、パレスチナ難民、入植地や国境などの問題を含むパレスチナ最終地位交渉を開始し、暫定自治が終る五年後に最終的地位協定を発効させるとするものである。

主な合意事項は以下のようである。

一、イスラエルを国家として、PLOをパレスチナ自治政府として相互に承認する

一、イスラエルが占領しているヨルダン川西岸地区ガザ地区からイスラエル軍は順次撤退し、撤退完了後、両地区で五年間のパレスチナ人による暫定自治が実施される

一、パレスチナ自治政府の大統領及び立法議会の選挙を行う

一、安保理決議二四二号と三三八号に基づき最終的地位交渉を行う

一、暫定自治開始後、三年以内にエルサレムの帰属、パレスチナ難民、入植地や国境などの問題を含むパレスチナ最終地位交渉を開始する

一、暫定自治開始後、五年以内にそれぞれが確定して、暫定自治が完了する

 

オスロ合意調印後のスピーチ

オスロ合意調印後、ラビン首相らはスピーチで次のように述べた。

ラビン首相は、「血も涙も十分に流しました。もう十分です。私たちは、あなたたちにいささかの憎しみも抱いていません。共に綴ってきた悲しみの書物に、新しい章を一緒に開こうではありませんか」。

アラファト議長は、「ここまで到達するには、大変な勇気が必要でした。平和を確立して共存関係を維持していくにはさらに大きな決意が必要となるでしょう」。

クリントン大統領は閉会の辞で次のように述べた。「アブラハムの子供たち、イサク(ユダヤ人)とイシュマエル(アラブ人)は、今、手を取り合って勇敢な旅を始めました。今日、私たちは心を一つにして呼びかけます。シャローム、サラーム、そしてピース(それぞれ、ヘブライ語アラビア語、英語の平和の意)と」。

 

オスロ合意」の意義

オスロ合意が調印までできたのは、マドリード中東和平会議、オスロ秘密交渉を基礎に積み重ねてきた努力の成果でもあり、中東和平の方向を示したものとして重要であるばかりでなく、中東問題に直接利害関係のない世界の国々も、この歴史的な協調関係の樹立に大きな拍手を送った。

ラビン首相とアラファト議長は、和平合意調印後に両手を広げたクリントン大統領の前で、歴史的な握手を交わした。両者の握手の瞬間の姿は新しい和平の到来を現した。世界の人々は「これで平和が来る」とその後の進展に大きな期待をし、イスラエルパレスチナの動きに注目していった。和平合意の意義は大きい。

 

オスロ合意」に積み残しの問題点

オスロ合意の意義は大きい。だが、積み残した問題点は多い。

一、パレスチナ人の自治は「暫定」である。自治期間の終了後にどのような体制となるかの定めはない。従って、和平がその後どのように展開するか不安定のままである。PLOは一九八八年にパレスチナ国家の独立を宣言しているが、イスラエルオスロ合意でこれを承認したとしていない。

二、合意はパレスチナ人の暫定自治に関する交渉を優先し、境界線やパレスチナ難民の処遇、エルサレムの帰属などパレスチナ人の最終的な地位に係る諸問題の交渉(最終的地位交渉)を先送りしている。

三、合意はパレスチナ人の総意を事前に取り付けることなく開始されたイスラエルとの直接かつ秘密の交渉によって生み出されている。

(このようなオスロ合意の「積み残した問題」は、今に続くパレスチナ問題の中心事項として現実に残って行き、オスロ合意の副作用として合意に構造的な無理があったとも指摘される)

 

一九九四年

オスロ合意に反対の勢力、イスラエルパレスチナ双方に

イスラエルパレスチナは「和平への歴史的な合意」ができた。しかしこれを快く思わない勢力がイスラエル側にもパレスチナ側にもいる。また、それぞれの側の内部における対立の動きも目に見えるようになってくる。事件も起きてきた。

二月二五日、ヘブロンのモスクでパレスチ人約八〇〇人が集まって祈りを捧げていたその背後からユダヤ人の入植者の男が銃を乱射し、二九人が射殺され一〇〇人以上が負傷する事件が起きた(ヘブロン乱射事件)。男はその場で殴り殺されたがユダヤ教過激派「カハ」の幹部で医者だった。半年前の「オスロ合意」破壊が目的だったという。

四月六日、イスラエル北部アフラのバス停でバスの自爆テロ事件が起き、多くの死傷者がでた。ハマスが犯行声明を出した。その一週間後の四月一四日、アフラに近いハデラの中央バスターミナルでもハマスによるバス自爆テロがあり、またも多くの死傷者がでた。

 

)「ガザ・エリコ先行自治協定」(カイロ協定)調印

オスロ合意から八カ月後、いよいよ具体的にパレスチナ自治が動き出した。当初自治はガザが先行自治の対象とされていたが、そこにヨルダンとの交通の要所にあるのエリコが加わることになった。

五月四日、イスラエルパレスチナの代表者ラビンとアラファトはエジプトカイロで再会し、「ガザ・エリコ先行自治協定」に調印した。「カイロ協定」と呼ばれる。カイロの国際会議場には各国の代表約二五〇〇人が詰めかけた。先のオスロ合意での合意内容に従い、ガザとヨルダン川西岸のエリコからのイスラエル軍撤退に始まる暫定自治を先行させようとする実務的な「ガザ・エリコ先行自治協定」の調印となった。

主な協定事項は

一、イスラエル軍は三週間以内にガザ、エリコ地域から撤兵する

一、パレスチナ警察を配備する。入植地と対外的治安はイスラエルが管轄する

一、イスラエル軍政当局の権限をパレスチナ自治行政府に移譲する

一、自治行政府は協定の範囲内で立法権を持つ。徴税や独自の貿易を実施する

などである。

 

)「パレスチナ暫定自治政府(PA)」の設立、暫定自治開始

五月四日のガザ・エリコ先行自治協定調印とともに「パレスチナ暫定自治政府(PA)」が設立された。パレスチナは一九九九年まで五年間、パレスチナ人自身による統治下へ移行する。パレスチナにとって画期的な自治の始まりとなった。ガザとエリコカらイスラエル軍が撤退を開始し、ガザ・エリコに先行自治が始まり和平へのステップが始められた。ここまでくるのには長い苦労の連続であった。第一次世界大戦後からイスラエル建国までのイギリスによる委任統治(一九二二年~四八年)の期間、そしてイスラエルの建国、第一次、二次中東戦争の時代(ヨルダン統治一九四八年~六七年)、さらに第三次中東戦争によるイスラエルの占領下(一九六七~ )の苦難の時代を経てきた。

 

アラファトチュニジアからガザへ帰還

七月一日、アラファトチュニジアから一一年ぶりにガザに帰ってきた。広場に集まった七万人のパレスチナ人の大歓迎を受けたアラファトは、「パレスチナの地」にキスをし「パレスチナ国家」の樹立、エルサレム回復を約束する。今やアラファトは、パレスチナ解放闘争のリーダーから「パレスチナ国家樹立」の指導者となった。

 

イスラエルとヨルダン、和平条約締結

イスラエルアラブ諸国の中で和平条約を結んでいるのはエジプト一国のみであるが、ヨルダンとも和平の協議が進められていた。長年の戦争状態の解消を目指した。

一〇月二六日、イスラエルのラビン首相とヨルダンのフセイン国王はクリントン大統領の仲介で両国の「和平条約」を締結した。イスラエルにとっては一九七九年のエジプトとの和平条約締結以来一五年ぶりで、アラブ諸国での二カ国目となる締結であった。これによりヨルダンは、一九六七年の第三次中東戦争イスラエルにより占領されていた東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区の領有権を放棄した。以後「ヨルダン川西岸地区」は、統治問題、中でもエルサレムをめぐる論争など中東紛争の焦点地域となっていく。

 

)ラビン首相、ペレス外相、アラファト議長ノーベル平和賞

一二月、イスラエルのラビン首相とペレス外相、それにPLOのアラファト議長の三名に対し、中東和平交渉での貢献によりノーベル平和賞が授与された。

 

一九九五年

(一)ハマスなどパレスチナ過激グループ、イスラエルへの反抗テロ続く

ハマスなどのパレスチナ過激グループによる自爆テロ事件は後を絶たない。

一月、「イスラム聖戦」と名乗るハマスとは別のイスラム原理主義集団が自爆テロ事件を起こした。またハマスが七月にテルアビブ郊外で、八月には東エルサレムで連続してバス爆破テロを起こすなどパレスチナ過激グループのイスラエルへの反抗は続いた。自爆テロ事件の裏にはハマスの軍事部門カッサム旅団のアヤシュという爆弾製造にたけた男がいたという。

 

パレスチナ暫定自治拡大協定(オスロ合意)調印

オスロ合意による自治区領域の拡大交渉が進められていった。

九月二八日、ラビン首相とアラファト議長は二年前のオスロ合意と同じようにワシントンでクリントン大統領主催のもと「暫定自治拡大協定」に調印した。前年の「ガザ・エリコ先行自治協定(カイロ協定)」に続いて、その領域よりもさらに拡大した範囲で自治を行う協定であり、先のオスロ合意の宣言を「オスロ・ワン」というのに因んで二つ目の協定「オスロ合意Ⅱ(オスロ・ツー)」と呼ばれる。

ヨルダン川西岸の主要六都市(ジェニン、ナプルス、トルカルム、カルキリヤ、ラマラ、ベツレヘム)及び人口密集地からの撤退、一九五六年五月の最終的地位交渉の開始に合意した。

同時にヨルダン川西岸を安全保障の面から、「誰」が、どの「権限」を有するか、を基準に三地区に区分けをした。

A地区は、自治政府が治安及び民政に関し責任を負う地区(完全自治区)

B地区は、自治政府が民政に関して責任を負うが、治安はイスラエル軍の管轄する地区(半自治区)

C地域は、イスラエル軍が治安、民政共に責任を負う地区(イスラエル軍地区)

である。

いよいよこれでイスラエルパレスチナ全支配は終わり、順次パレスチナの暫定自治政がPLOを基盤にアラファトを元首(大統領)とした組織で自治を進めていくことになる。オスロ合意に基づきイスラエル軍は撤退を始め、暫定自治は始まった。

しかし、パレスチナの現状は政治的にも経済的にも未熟で、特にガザでは若者を中心に過激な考えを持つ者も多く、反自治政府、反アラファト運動も水面下で拡大していく。一九八七年にヤシーン師により結成された「ハマス」も本格的な闘争活動を始めており、また「イスラム聖戦」と名乗るイスラム原理主義集団も活動を繰り返している状況に、アラファトの進める暫定自治も安泰ではなかった。

 

(三)イスラエル軍ヨルダン川西岸からの撤退

イスラエル軍は、撤退合意に基づき一九九五年一〇月にヨルダン川西岸から撤退を始め、一一月半ばには主要都市ジェニンからの撤退を終え自治政府が治安権限を持つ最初の都市が誕生した。二月にはイスラエル軍の大半はヨルダン川西岸の主要都市から撤退した。

 

)ラビン首相の和平推進政策、イスラエル国内で批判も

ラビン首相の進める一連の和平政策に多くのイスラエルの人々も大きな拍手を送った。しかしイスラエル国内ではこの動きに反対する根強い勢力もある。右派野党リクード党首のネタニヤフ、軍出身の有力議員右派シャロン、入植政策に力を入れる国家宗教党など反オスロ合意、反和平の右派勢力はパレスチナからの軍撤退、パレスチナ自治の拡大などに反対し、ラビンの和平推進政策を批判していった。

 

イスラエルのラビン首相、暗殺される

一一月四日、ラビン首相が暗殺された。「オスロ・ツー」の合意からわずか二カ月後のことであった。

イスラエルの和平推進派を中心に、テルアビブの市庁舎前で平和記念集会が開かれ、ラビン首相、ペレス外相らも参加していた時である。ラビン首相は演説をした。「今こそ平和を実現する機会である。暴力は非難され排除されなければならない。和平への道は様々な困難や痛みを伴う道だ。イスラエルの前に痛みを伴わない道はない。しかし、戦争より平和の道を望むのだ。私たちの子供のために、そして私たちの孫たちのために、この政府が包括的な和平の推進と達成のためにあらゆる可能性を探り尽くすように願ってやまない。今夜の集会は、世界中のユダヤ人社会、アラブ世界、そして全世界へ向け、我々が平和を望んでいることを伝えてくれるに違いない」と強調し、イスラエルパレスチナ人と共存を望んでいるとの姿勢を熱く示した。

この演説に、参加者は多くの共感と和平への願いを強くし、拍手を惜しまなかった。そして参加者全員で「平和の歌」を大合唱した。

和平希求への余韻のなか、ラビンが車に向かおうとした時、非情な弾丸がラビンを襲った。弾丸は、極右カハネ師の考えに影響を受けた一人の熱狂的なユダヤ人の青年イガール・アミールが至近距離から発射したものだった。ラビンは直ちに病院に搬送されたが蘇生しなかった。ユダヤ人が同じユダヤ同胞の首相を殺害した事件であった。首相殺害犯人の論理は、和平締結によって、「神から与えられたイスラエルの地」を「異教徒パレスチナ人に返還するなどとはユダヤ教への背信行為だ」とするものであった。

世界中が寝耳に水の大事件に大きなショックを受けた。オスロ合意後の歴史的情勢進展にラビンの手腕を大いに期待していただけにアラファトクリントンは突然の悲劇に肩を落とした。

一一月六日、ラビン首相の国葬が行われ、クリントン大統領はじめ約五〇〇〇人が参列した。暗殺現場の市庁舎前の広場にはラビンの死を悼むために約五〇万人の市民が詣でたという。アラファトは治安上の理由で欠席、三日後にラビン邸を密かに訪問し未亡人に弔意を伝えた。市庁舎前広場は現在ラビン広場と呼ばれている。

ラビンの死により「オスロ合意」の和平への道はストップしたともいわれ、その後の中東和平の進展に大きな影響を及ぼすことになる。

 

)暗殺されたラビン首相の後継に、ペレス外相

一一月、ラビン首相の後継にペレス外相が二度目の首相に就き、前首相の意思を継いでパレスチナとの和平を推進することになった。ラビン政策の継承が順調に進むか注目された。

 

一九九六年

(一)パレスチナ暫定自治政府第一回総選挙、アラファト初代大統領(議長)に

一月二〇日、パレスチナ暫定自治政府の第一回総選挙が実施された。

パレスチナ立法評議会(PLC)選挙ではファタハが八八議席中五〇議席を獲得し勝利した。同時に自治政府の大統領(議長)選挙も実施され、アラファト対立候補として唯一人出馬した女性のサミハ・ハリルに圧勝し当選した。事実上のアラファトの信任投票であった。アラファトはPLO議長と初代のパレスチナ自治政府の議長(大統領)の二つの顔を持つこととなった。PLOの組織化も充実させ事務局長にマフムード・アッバスを起用し、これまで対イスラエルテロ活動を繰り広げてきたPLOの軍事組織を「パレスチナ自治政府の警察」として再生させた。

自治政府の基盤が固まり始めていく一方、和平反対の過激派のテロ発生は続いていく。イスラエルとの闘争も予断を許さない状況が続き、アラファト議長指導力がさらに重要になってくる。

 

イスラエル初の首長公選、リクードのネタニヤフが現職ペレスに勝利

五月二九日、イスラエルでは首長公選と国会議員選挙が行われた。

首長公選はイスラエル初である。ペレスは現職である。強い首相を見せつけるために「テロ対策を強化した平和と共に、強力な国家体制」を主張した.リクードのネタニヤフは「無差別テロから治安回復」を旗印に、テロを封じた「国家の安全が保障された和平」を真っ向から主張する発言を続けた。結果は得票率一%未満の僅差でネタニヤフが勝った。「和平主張」のペレス有利かと見られていたが最終的にネタニヤフの「安全保障主張」の強硬姿勢が効き逆転の結果となった。

 

イスラエル、ネタニヤフ政権発足、対パレスチナへの強硬姿勢

六月一八日、首長公選で勝ったリクード党首ベンヤミン・ネタニヤフ(一九四九~ )が首相に就く。イスラエル史上最年少の四六歳であった。テルアビブ生まれで父の関係もありアメリカで育ちマサチューセッツ工科大学を卒業、イスラエル軍での経験を経て、八四年に国連大使、八八年に国会議員に転身し九一年まで外務次官を務めていた。そして四年前のリクード党首選で党首に選ばれていた。アメリカのネオコンイスラエル・ロビーと関係が深い。

七月一日、クード強硬派のシャロンが国家基盤相として入閣する。

ネタニヤフ政権の対パレスチナ姿勢は強硬であった。「ヨルダン川西岸の都市からのイスラエル軍の撤退を中断させる」、「ヨルダン川西岸の入植地を拡大する」、「エルサレムイスラエルの永遠の首都、二度と分割をさせない」、「ゴラン高原はシリアに返還しない」、「パレスチナ国家樹立に反対する」などとオスロ合意の内容を反古にする政策を次々と打ち出していった。ヨルダン川西岸やガザへのユダヤ人の入植も推奨し始めた。

このようなネタニヤフの政策にオスロ合意を仲介したクリントンは不快感を持った。

 

イスラエル労働党、党首にバラクを選出

イスラエル労働党は、党首のペレスが首長選でネタニヤフに敗れたため、後任党首を選出した。ラビン政権下から内務大臣、外務大臣を務めていたバラクをネタニヤフに対抗できる適任者とした。一九七二年の航空機乗っ取り事件での特殊部隊突入による乗客救出で名を挙げていた。

 

クリントン大統領、イスラエル軍ヘブロン撤退へ緊急首脳会議開催

クリントン大統領は、和平進展へ向けてイスラエル軍ヘブロンからの撤退を急いだ。

一〇月一日、クリントン大統領は、イスラエルのネタニヤフ新首相、PLOのアラファト議長、ヨルダンのフセイン国王をワシントンへ緊急に招き、パレスチナ自治拡大協定で残っていたヘブロンからのイスラエル軍の撤退について協議を促した。ネタニヤフは支持基盤である右派の顔色を窺いながらクリントンには大きな反対もできず、パレスチナ側に一定の譲歩をせざるを得なくなる。会議は実務交渉の開催が決まった。

 

一九九七年

(一)ネタニヤフとアラファトイスラエル軍ヘブロンからの撤退合意

一月一五日、ネタニヤフとアラファトは、イスラエル軍の撤退計画で残っていたヘブロンからの撤退について協議し、一部の地域を除き「イスラエル軍ヘブロンから撤退、段階的な権限移譲」が合意された。「ヘブロン合意」である。イスラエル軍の撤退によりパレスチナ側はまた一歩前進した。

 

(二)イラン大統領、ラフサンジャニ師からハタミ師に

八月、イランのラフサンジャニ大統領の任期満了に伴う選挙により、イスラム指導相を務めていたモハド・ハタミ師が当選した。

 

(三)イスラエルハマス最高幹部メシャルの暗殺失敗

九月二五日、ヨルダンの首都アンマンで、シリア在住のハマス最高幹部ハレド・メシャルがイスラエルの特務機関モサド工作員三人に襲われた。ヨルダン当局は三人のうちの二人を逮捕、イスラエルによるメシャル暗殺は失敗した。

 

)メシャル暗殺失敗のイスラエル、逮捕獄中のハマスのヤシーン師を釈放

自国内での事件にヨルダンのフセイン国王は激怒、イスラエルのネタニヤフ首相に「工作員を絞首刑にする。釈放の条件はイスラエル終身刑で服役中のヤシーン師の釈放だ」と迫った。

一〇月一日、イスラエルは一九八九年に逮捕し、八年間獄中にいたヤシーン師を釈放した。なお、メシャルは生死をさまよったが一命を取りとめた。

 

一九九八年

(一)クリントン大統領仲介、ネタニヤフとアラファトの「ワイリバー合意」

ハマスの最高幹部メシャルの暗殺失敗とヤシーン師釈放をきっかけに、イスラエルパレスチナに話し合いも持たれるようになる。

一〇月一五日、クリントン大統領はネタニヤフ、アラファトらをワシントン郊外のワイ河畔会議場に招き、前年のヘブロン合意を発展させパレスチナ政治犯の釈放、ガザ地区の港湾・空港などの建設、イスラエル軍追加撤退などについて集中交渉を進めた。交渉は難航したが交渉六日目、癌で体調を崩していたヨルダンのフセイン国王も顔を見せ交渉促進を図った。

一〇月二三日、熱心な協議の結果、ネタニヤフとアラファトは「ワイリバー合意」と呼ばれる三段階での追加撤退合意に署名した。

 

(二)ネタニヤフ首相、総選挙の前倒し実施を決める

昨年のヘブロン合意、今回のワイリバー合意と続けてイスラエル軍の追加撤退を決めたネタニヤフ首相は、リクードの支持基盤にいる右派勢力などから「パレスチナに譲歩し過ぎだ」と大きな反発を招くことになった。首相の動きを批判した国家宗教党が連立政権から離脱を宣言した。首相は政権を立て直し、リクード中心のより強固な政権にすることに迫られてきた。

ネタニヤフ首相は就任からわずか二年半であるが、次回選挙の時期を模索し始めた。首相は「パレスチナ暫定自治期限である一九九九年五月四日は半年後だ。そこでパレスチナ側が独立宣言を出せば占領地駐留の軍とパレスチナ住民とさらに大きな衝突が起こるだろう。そのような時に選挙を行えば右派のリクードの圧勝は固い」と考えたようだ。そこで首相は「首長公選と国会の総選挙を来年(自治期限である九九年五月四日より約二週間後の)五月一七日に実施する」と発表した。

 

(三)クリントン大統領、パレスチナ初訪問

一二月一四日、クリントン大統領はパレスチナを訪問した。アメリカ大統領がパレスチナを訪問するのは初めてであった。妻のヒラリーも同行した。この時、パレスチナはガザでパレスチナ民族評議会PNC)を開催しパレスチナ民族憲章から「イスラエル敵視条項」を削除することを決議した。クリントン大統領はこの採決に立ち会い決議を見届けた。

 

一九九九年

(一)ヨルダンのフセイン国王死去、アブドラ皇太子が後を継ぐ

二月七日、体調を崩していたヨルダンのフセイン国王が死去した。国王に三七歳のアブドラ皇太子が就いた。

 

(二)アラファト、暫定自治期限は終了するも「パレスチナ独立宣言」を行わず

五月四日、五年間の「暫定自治に関する終了期限」である。しかし、その日パレスチナ側は「独立宣言」をしなかった。アラファトは総合的に判断の上問題の紛糾を避ける方向で各方面との調整を行い、期限の五月四日になっても動きを見せなかった。事実、国際社会は諸状況からパレスチナ側の一方的な独立宣言に消極的であり、クリントン大統領もアラファトに対し、独立宣言の延期とハマスなどに対するテロ活動自粛の働きかけを行うよう要請していた。アラファトはその方向に沿った。

ネタニヤフが予想していたような衝突事件に発展することなく節目の日が過ぎた。イスラエルパレスチナの衝突が続く中での選挙であればリクードの勝利は確実と考えていたネタニヤフの思惑は外れた。

 

(三)イスラエル回首長公選、労働党党首バラクが現職ネタニヤフに圧勝

ネタニヤフの決断した前倒し選挙の日が近づいた。強硬なネタニヤフの方針に反対する国民も多かったが現職のネタニヤフは労働党党首のバラクには負けられないと懸命であった。

五月一七日、イスラエルの第二回首長公選が実施された。結果、「ネタニヤフは「予想以上の大差負け」であった。バラクはラビン路線を受け継いで和平交渉再開を公約に掲げて勝利した。

 

(四)イスラエル、和平推進派のバラク政権発足

七月六日、エフード・バラク(一九四二~ )がイスラエル首相に就任した。中道・左派連立政権が発足した。

ラク首相の誕生は沈滞していた中東和平への動きに光明をもたらす。バラクは和平交渉再開を前面に出しオスロ合意六周年を機に「中東和平の総括的合意」に積極的に動いた。だが境界線、パレスチナ難民の帰還、入植地拡大などイスラエルの基本的な立場は変えられない中でバラクは苦労していく。

 

(五)イスラエルリクード党首にシャロン

イスラエル首長公選で敗れたリクード党首であったネタニヤフは一時政界を去った。

九月二日、リクードは新党首に外相のシャロンを党首に置いた。シャロンはバラク政権の政策を批判しつつリクード勢力を強化していった。

 

(六)パレスチナ暫定自治期間延長に係る「シャルム・エル・シェイフ合意」

五月四日でパレスチナ暫定自治期限が切れている。クリントン大統領は和平交渉に何とか活路を見出し仲介の成果を出したかった。和平推進派のバラクイスラエル首相になったこの時を好機と見て自分の大統領任期中に和平交渉をまとめたいとして積極的に和平仲介の動きに出た。

九月四日、バラク首相とアラファト議長は、エジプトのムバラク大統領、ヨルダンのファイサル国王、アメリカのオルブライト国務長官らの立ち合いのもと、シナイ半島南端の保養地シャルム・エル・シェイフで会談し、ネタニヤフ首相時代に完全に停滞していた和平プロセスを再び軌道に乗せるべく、ワイリバー合意の再確認を含め和平交渉の見直しと継続について協議した。「五年間の暫定自治期間を延長して最終的合意への交渉を再開する」という合意文書に調印した。二〇〇〇年九月一三日までに和平を達成しようとするものであった。「シャルム・エル・シェイフ合意」と呼ばれる。

九月一三日、ガザ地区で最終的地位交渉開始の式典を開催、一〇月に西岸・ガザ間の安全通行路が開通したのに続き西岸地区からのイスラエル軍の撤退等も実施に移された。

一九九七年のへブロン合意や一九九八年のワイリバー合意の「パレスチナからのイスラエル軍の撤退合意」を経て事態の好転が期待されたがバラクアラファトが思うように進展して行かなかった。