第二章  イエス・キリストとキリスト教

)イエスの誕生とキリスト教

新約聖書からイエス・キリストキリスト教について少し触れてみる。

ヘロデ王の晩年、前四年頃、ガリラヤ地方のナザレの町である。ダビデの血を引く大工のヨセフはマリアと婚約し結婚を控えていた。そんなある日、マリヤの元に大天使ガブリエルが現れ、「「あなたは神から恵みを受け身ごもり、男の子を生みます」と告げた。そしてこれは「精霊のなせる業」で、生まれてくる子は後の「神の子」と呼ばれると告げた。ヨセフとマリアは結婚し、ヨセフの故郷ベツレヘムへ向かう。だがあいにく宿屋は全て満員で、ようやく見つけた一軒の馬小屋でマリアは無事男の子を生んだ。名前を「イエス」という。「ユダヤの王となる子」だとの噂を聞いたヘロデ王は、自分の地位が脅かされることになると思い、ベツレヘムの二歳以下の男の子を全員殺せと命令を下す。イエスの両親は、天使のお告げを聞き、イエスを連れてエジプトへ避難する。彼らがナザレに戻ったのはヘロデ王の死後であった。「キリスト」はギリシャ語で救世主。「イエス・キリスト」は救世主イエスであり、「キリスト教」は救世主イエスの教えを信ずる宗教である。

エスは当初ユダヤ教徒であった。イエスユダヤ教を否定したのではなく、神の前では全ての人間は平等であり、、ユダヤ人だけが救われると考えるのは間違いだ。もっと神を信じ、もっと神の愛を信じるようにと説いた。ユダヤ教否定の上にキリスト教を起こしたのではなく、自分が正しいと信じている基本にかえった、より愛に満ちたユダヤ教を説いていった。ユダヤ教の改革運動であった。

 

(二)イエス磔刑ユダヤ教徒

エスの教えに反発するユダヤ教徒らは「イエスは偽のメシアだ」「神を冒涜した」としてイエスを逮捕、この地域の支配者であったローマ帝国の総督ピラトに引き渡した。ピラトはイエスへの対処に消極的であった。「あの人がどんな悪い事をしたというのか」。しかし、多数のユダヤ人群衆は「イエスを十字架にかけよ」と叫び続け大騒ぎをした。ピラトは手の下しようがなく、そうなれば彼らの子孫に影響が出ると言ったが群衆は承知しない。ユダヤ人群衆は「その血の責任は自分たちや子孫の上に降りかかってもいい」と答えた。イエスを殺した報いが我々の子孫に降りかかってもいいという。ピラトは遂にイエスをローマに対する反逆罪だとして法廷で死刑を言い渡し、イエスゴルゴタの丘で十字架への磔により処刑されて三〇数年の生涯を終えた。

こうしてキリスト教徒からすると「イエス磔刑に処し、死に至らしめた責任は、ユダヤ人にある」「イエスの死のもとはユダヤ人にある」とされたことから、キリスト教反ユダヤ主義が始まっていく。

 

(三)キリスト教の布教

その後、イエスの教えは「イエスは神からこの世に使わされた神の子である」と信ずる弟子たちにより、各地に広められていった。

特にその弟子の中の一人パウロは、ユダヤ人以外の異邦人に布教するのを使命と考え、トルコ、ギリシャ、ローマなどへ布教活動を続けた。

 

(四)コンスタンティヌス帝、「キリスト教」を公認

キリスト教は、当初ローマ帝国によって弾圧されていたが、布教活動が広まるにつれ次第にローマ帝国内に浸透していった。

三一三年、ローマのコンスタンティヌス皇帝はミラノ勅令によりキリスト教を公認し、コンスタンチノープル(現在のイスタンプール)を首都とした。パレスチナキリスト教化され、エルサレムの旧名が復活した。

 

(五)聖墳墓教会の建設

コンスタンティヌス皇帝はキリスト教を公認したほか、エルサレムのインフラ整備も進めた。

三二五年頃、皇帝はイエス・キリストが十字架に架けられ絶命したとされるゴルゴタの丘に「聖墳墓教会」の建設を命じた。皇帝の母ヘレナ后がエルサレムに巡礼した際キリストの足跡をたどり、ゴルゴタの丘磔刑に使われた十字架と聖釘などを発見し、ここをキリストの墓と断定したと伝えられ、そこに教会を建設することとしたといわれている。キリスト教徒にとっては聖なる場所となっている。

 

(六)キリスト教、「ローマの国教」に

三九二年、キリスト教はさらに広まりテオドシウス帝のとき、「ローマの国教」となった。

 

ローマ帝国分裂、パレスチナ東ローマ帝国ビザンツ帝国)の支配下

三九五年、ローマ帝国は、東西に分裂し、コンスタンチノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がパレスチナを含む地域も支配していく。東ローマ帝国の時代は一四五三年、オスマン帝国に滅ぼされるまで続いていく。