第一章 古代イスラエルやユダヤ人について
最初に、基礎的な理解を深めるために、古代イスラエルやユダヤ人について旧約聖書の時代に遡ってみる。
(一)アダムとエバ(イブ)から
旧約聖書によれば、「はじめに神は、光あれ!と命じ、続いて天地や動植物を創造され、最後に人間を創り、七日目には休まれた」という。
神が創った最初の人間はアダムとエバ(イブ)。エデンの楽園の暮らしとその追放を経て子孫は続いた。そしてノアの箱舟(方舟)、大洪水の試練を乗り越え、ノアの息子、セム、ヤベテ、ハムが地上のすべての民の祖先となったという。
時代は進み、紀元前(以下時代を現す場合、紀元前は「前」とする)七〇〇〇年頃、今のエジプトからイランに広がる地域に農耕文化が発達し、前四〇〇〇年頃にはナイル川、チグリス川、ユーフラテス川沿いに高度な文明の発達した生活圏が生まれていったという。
(二)アブラハムとその子孫、アラブの民とイスラエルの民神(ヤハウェ)とアブラハム
前一九〇〇年頃のことだろうか。セムの子孫アブラハムの話である。ノアから数えて一〇代目に当るという。
アブラハムはユーフラテス川の下流の町ウル(現在のイラクの南部)に生まれた。後、父のテラと妻のサラ、甥のロトらとともにウルを離れ、ハラン(現在のトルコ南東部)の地に移り住んでいた。ある日、アブラハムは天より「神の声」を聞いたという。「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と。心から神を敬い熱心な信者であったアブラハムは、神の声に従い一族を連れて旅に出た。土地を持たない遊牧の民だった。着いた地は「カナン」という地であり、そこで生活を始めた。
アブラハムに対し「神の声」は続いた。神はアブラハムに対し子々孫々に至るまで自らを唯一の神として信仰するように求め、その代償として「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたを多くの民の祖先にさせよう。そしてこの地カナンをあなたとあなたの子孫に永久に与えよう。そしてわたしは彼らの神となるであろう」と。ここに神との契約が結ばれた。「カナン」は「神との契約の地」となった。そしてここに住み着いたアブラハムとその一族は、カナン各地の先住の勢力と戦いながら支配地域を拡大していった。カナンの住人は新しくやってきた彼らをイブリム(「ヘブライ人」、川の向こうから来た人たち)と呼んだ。このカナンの地は「乳と蜜の流れる地」と聖書に記されている地、今のイスラエルを含む地中海の東の辺りのかなり広い地域を指すという。
アブラハムの二人の息子、兄はイシュマエル、弟はイサク
カナンに住み着いたアブラハムと妻サラは共に既に高齢であった。二人の間にまだ子がなかった。アブラハムはサラの女召使エジプト人のハガルとの間に息子イシュマエルをもうけた。アブラハムの子を産み権力を得たハガルはサラを軽んじ始める。
ハガルとサラの二人が対立を深める中、妻のサラは待望の息子イサクを生んだ。アブラハム一〇〇歳、サラ九〇歳だったという。
アブラハムはハガルとイシュマエルを追放する
自分の子を持った妻サラはハガルとイシュマエルに辛くあたる。サラは夫アブラハムにハガルとイシュマエルを追い出すように懇願する。アブラハムにとってはイシュマエルも我が子である。思い悩むアブラハムにまた神の声がした。「サラの言うことを聞くがよい。あなたの子孫はイサクによって伝えられるが、イシュマエルもまた一つの民の父となる。あなたの子であるからだ」と。アブラハムは神の声に従い、神の救いを信じハガルとイシュマエルを荒れ野に追放した。
アブラハムとイシュマエルは「アラブの民の祖」
ハガルとイシュマエルの二人は荒れ野をさまよったが神は見守り続けた。イシュマエルは成長し「弓を射る者」となる。母と出身を同じくするエジプト人と結婚し子孫を増やしていった。イシュマエルの子孫たちは、イシュマエル、その父アブラハムを「アラブの民の祖」であるとしている。また、ムハンマドの祖先でも
神はアブラハムにイサクを生贄として捧げるよう命じる
アブラハムは兄イシュマエルを追放した後、弟のイサクを愛しむ。ある日、神はアブラハムの信仰心を試すため、イサクを生贄として捧げるよう命じる。信仰心の強いアブラハムは神の命に従う。アブラハムがイサクを縛って焼く薪に乗せ生贄にしようとしたその時、アブラハムの揺るぎない信仰心を確認した神は、「その子に手をかけてはいけない。あなたが神を畏れる者だということは良くわかった」とイサクの生贄を止めさせた。そして「大いにお前を祝福し、お前の子孫を天の星にごとく、浜辺の砂のごとく増やし、そして地上のすべての民を祝福しよう」と告げられたという。後に、兄イシュマエルの系統がアラブの民(アラブ人)と呼ばれるようになっていくのに対し、イサクの系統がユダヤの民(ユダヤ人)と呼ばれるようになっていく。
アブラハムの死
時代は前一八〇〇年を過ぎていた。アブラハムは一七五歳という高齢で息を引きとり、先に逝ったサラが埋葬されているマクペラの洞穴に葬られた。マクペラの洞穴は今のヘブロンにある。
イサクは父アブラハムの弟筋にあたる親族の娘リベカと結婚した。四〇歳の時だという。なかなか子供に恵まれなかったが双子の息子をもうける。兄がエサウ、弟がヤコブである。兄弟は見た目も性格も正反対であった。兄のエサウは赤く毛むくじゃらで生まれ成長すると狩猟を主にする野の人となり、一方弟のヤコブは穏やかでいつも天幕や家族の近くにいることを好んだ。
ヤコブはある日不思議な体験をする。正体不明の見知らぬ者と格闘になる。ヤコブは夜通し体力限界まで闘った。相手は天使であった。神はヤコブに祝福を与える。「もうよい。あなたは神と闘って勝ったのだからこれからはイスラエル(神の戦士)と呼ばれる」と告げた。ヤコブはイスラエルと呼ばれることになった。
ヤコブの妻にレアとラケルの二人がいる。二人は共に伯父ラバンの娘であり姉がレア、妹がラケルである。
レアとの間に、ルべン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンの六人の息子と娘ディナをもうけ、ラケルとの間にヨセフ、ベンヤミンの二人の息子をもうけた。またレアの召使いジルバとの間にガド、アシェルの二人の息子をもうけ、ラケルの召使いビルハとの間にダン、ナフタリの二人の息子をもうけた。合わせて一二人の息子と一人の娘に恵まれる。
ヤコブの息子ヨセフ、エジプトへ奴隷として売られ、後にエジプトで出世。息子はマナセとエフライム
ヤコブは一二人の息子の中でラケルとの間に生まれた第一一番目の息子ヨセフに格別の愛情を注いだ。ヨセフは嫉妬した兄たちの策略によりエジプトへ奴隷として売られる。ヨセフを買ったのはファラオ(王)の侍従長のポティファルだった。ヨセフはポティファルによく使え、ポティファルもヨセフを信頼し、家の財産管理をまかせるまでになる。ヨセフは容姿端麗、頭脳明晰、そして誠実であった。その上、夢を解き明かすなどの特異な能力を持っていた。夢解きの名人としての噂がファラオの耳に入りファラオの夢を解き明かすなどファラオに気に入れられ出世する。遂には最高官僚(宰相)の権限を持つまでになる。アセナトと結婚してマナセとエフライムの二人の息子をもうける。
イスラエル一二支族(部族)
ヤコブの一二人の息子らの時代になると彼らは支族(部族)として分かれていく。後に地域支配となる「イスラエル一二支族」と呼ばれるのは、ルべン、シメオン、ユダ、イサカル,ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、それにヨセフの息子のマナセとエフライム、そして末弟のベンヤミンを加えた一二の支族を指すとされ、レビは司祭職のためここに入らない。
そこでヤコブの息子らの子孫は、父ヤコブ、その父イサク、またその父アブラハムを「イスラエルの民の祖」であるとしている。
従って、兄のイシュマエルから続く「アラブの民」も、弟のイサクやその息子ヤコブなどから続く「イスラエルの民」も、共に「アブラハム」を自分たちの民の祖であるとしている。言い換えれば「アブラハム」は、アラブの民とイスラエルの民の共通の祖であるとされる。
アブラハムの子孫はエジプトに根をおろす
前一六世紀の頃である。エジプトを含む広い地域で大飢饉が襲うが、エジプトはヨセフの事前の飢饉対策で十分な備蓄もあり、深刻な被害に遭わずに済んだ。ヨセフの兄弟たちの住むカナンの地も飢饉の被害は大きく、彼らは食糧を求めてエジプトへやって来る。この時、彼らは奴隷として売られていったヨセフが生きており、エジプトの宰相として活躍しているとは夢にも思っていなかった。ヨセフは当初兄たちに自分がヨセフだということを明かさなかった。父ヤコブも健在で兄たちの誠実さを見届けたヨセフは自分の正体を明かした。兄たちは今までの非を詫びヨセフと和解した。そして父ら一族もエジプトへ呼び寄せた。エジプト王も寛大で、皆を受け入れてくれた。
こうして、ヤコブと兄弟たちは、アブラハム以来住み慣れたカナンの地を去ってエジプトに移り住み、そこに根を下ろした。、
(以上は、旧約聖書の「創世記」にある物語の概略の一部である)
(三)モーセ、エジプト脱出と「十戒」、ヨシュアらカナンの地へ
アブラハムの子孫(イスラエルの民)はエジプトで繁栄を続け、新しい土地に広がっていった。
ヨセフや彼の兄弟たちの死後、ヨセフらのことを知らないエジプト王が現れて、一族への圧迫が始まった。
一族は神(ヤハウェ)を崇め信仰心で結ばれていた。多神教のエジプト社会になじめないことなどもあり王と衝突、王の怒りを助長させていった。この王が現れてから一族は数百年にわたり奴隷とされ、ピラミッド建設など土木作業に酷使されていった。
モーセの誕生
前一三世紀頃であるという。エジプト王ラムセス二世の時代であった。厳しい労役に耐えながら一族の人口はますます増えていった。王(ファラオ)は一族がさらに増え、自分の地位が脅かされることを恐れ、出生の男子を全て殺せと命ずる。
その頃である。ヤコブの第三子レビの系統(祭祀を司る一族)に一人の男の子が生まれた。母親は子を殺すに忍びず生後三カ月までは何とか隠して育てたがそれも難しくなり、母親は息子ををパピルスで作られたゆり籠に入れ、ナイル川の岸辺の葦の茂みの中に置いた。だが幸いにもエジプト王の娘に拾われ、モーセと名付けられて王女の息子として最高の教育も与えられ大切に育てられた。
成長したモーセ
モーセは王宮で何不自由なく育ったが成長して自分の出生の秘密を知った。同胞が虐げられているのを見る度に心が痛んだ。そしてある日のこと、強制労働の現場でユダヤ人が激しくムチ打たれるのを目にしたモーセは、怒りで我を忘れて遂にそのエジプト人監督を殺してしまった。王道にいたモーセは反逆者として追われシナイ半島の南東部の荒野ミデヤンに逃れた。そこで祭司の娘と結婚し羊飼いとして暮らす。ある日、モーセはホレプ山(シナイ山)で木の燃えるのを目にし、神の声を聞いた。「エジプトで苦役に喘いでいる一族の民を救い出し、カナンの地につれ戻せ」と。モーセがエジプトを離れてから既に長い年月が経っている。モーセは迷った。躊躇するモーセに神はさらに決断を迫リ、奇跡を起こす杖を授けた。それでもモーセは何度も神に断りを入れた。だが遂に神の命に従うことに意を決した。エジプトに戻ったモーセは、雄弁な兄アーロンとともに王(代替りした新王)にユダヤの民を解放するよう直談判する。しかし、王は全く無視し聞こうとしない。そこで神はモーセを通じて、王が承認するまで一〇の奇蹟、例えば疫病の流行、イナゴの大群の襲来、「過ぎ越し事件」などを起こさせ、エジプト人が恐れを感じる災いを生じさせる。これらの災いに遂に折れた王はモーセらにエジプトから出ることを許す。王が許さざるを得なくなったのは一〇の奇蹟の中でも一〇番目の「過ぎ越し事件」が最も効いたという。これは一夜にしてエジプト中の長子を殺すというものであるが、その際、ユダヤ人は自分たちの家には印を付けて、裁きを執行する天使にここは「(災いを避けて)パスオーバー(通り過ぎ)する家」とさせたという。現在行われているユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」は、このことを基にしているという。
モーセのエジプト脱出
エジプトから出ることを許されたモーセは、大勢の集団(成人男子だけでも約六〇万人という)を引き連れて彼らの故郷「カナン」の地に向けてエジプトを脱出した。「エクソダス」という。しかし、王は意を翻しモーセたちの追撃を命じた。追い詰められたモーセたちの前は葦の海、後ろは追撃軍、万事休すかと思われたこの時、モーセが手を海に向かって差し伸べて祈ると海は突然二つに割れ、人が通る事が出来る乾いた地面が出現した。奇跡が起きたのだ。一行が渡り切った直後にエジプト軍が追撃しようとすると、海はたちまち閉じ追撃兵は溺死、エジプトの追撃を逃れた一行はシナイ半島に渡り無事エジプトを脱出することができた。
シナイ半島でのモーセは不思議な体験をする。ある時、モーセは神の声に導かれシナイ山に昇る。山頂で神から二枚の石板に刻まれた、神と人との関係や人と人とに関する「一〇の戒律」が示された「十戒」を授かる。
- 神は一つである。二、偶像を崇拝してはならない。三、神の名をみだりに唱えてはならない。四、安息日を守れ。五、父母を敬愛せよ。六、人を殺すな。七、姦淫するな。八、盗むな。九、偽証するな。一〇、貪欲になるな。」の一〇の決まりである。これを守ることで神との契約が結ばれると示された。「モーセの十戒」と呼ばれる。これを基本として細部にわたる「モーセの律法」も示され、これを更に拡大増補して「ユダヤ教の立法」となっていく。
エジプトを脱出しシナイ半島に渡った一行も、シナイ半島での生活は苦しく団結も乱れかけていった。「エジプトでの生活の方が良かった、エジプトへ帰ろう」とする者も現れて混乱が生じてくる。神は怒り彼らに試練を与えた。約四〇年間、一行はシナイ半島の荒野を放浪することになる。しかし試練を乗り越えた彼らは神の力を再認識し、モーセへの信頼感を強めていった。
モーセはカナンを目前にして死去、後継者ヨシュアらがカナンに入る
長い間シナイ半島の荒野を放浪している一行は安易にカナンに入れなかった。この間に、エジプト脱出当時成人であったの者の多くは亡くなり、二世、三世時代となっていく。荒野と砂漠での厳しい生活はさらに彼らを鍛え上げ、団結させ、神への信仰を高めさせていった。
モーセらがシナイ半島で厳しい生活をしていた間にエジプトの国力はかなり弱体化していった。それまで属州としていたカナン地方の支配権を失うほどになった。この状勢にモーセらは、神との契約の地であり故郷でもあるカナンの地に定着を図る好機だと判断しカナンへ向かって出発した。途中地着きの民とも戦いながら苦労してヨルダン川の東、モアブの地まで来たが、川の西には既に地中海の方から来たペリシテ人らが住み着いており容易に川を渡りカナンの地に入れない。一二〇歳にもなっていたモーセは死を前にし、民に四〇年にわたる旅を顧み神への忠実を説く。モーセは副司令官で後継者ヌンの子ヨシュアを後継者に任命、約束の地カナンに入る決心をする。だがモーセはカナンを目前にして死亡し、カナンへの帰還はならなかった。
モーセの死後、一行は神の加護を受け、ヨシュアを中心に団結し、ヨルダン川を渡りカナンに入った。ヨシュアらは、同一民族として協力して勢力を高め、苦労の末に先住者を駆逐し約束の地カナンの地を占領していった。カナンの南方海岸地方を支配していたペリシテ人は難敵であったが彼らも破った。
ヨシュアはこの地を分割しイスラエルの一二支族に分配していく。彼らはこの地に根を下ろし、住み続けることになる。(以上は、旧約聖書の「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」を経て「ヨシュア記」にある物語の概略の一部である。モーセについてはアメリカ映画に「十戒」がある)
(四)士師の時代から王国の時代へ(第一神殿)
ヨシュアの死後「士師」と呼ばれる人々が指導的役割を果たすようになった。士師らはカリスマ的な指導者で、彼らのリードで次第に王国らしき体制が整っていった。サムエルが宗教的指導者、サウルが軍事的指導者として更に王国的体制を固めるようになっていった。
サウル(在位前一〇二〇頃~前一〇〇四頃)がカナンの地に「王国」的体制をつくる
前一〇〇〇年頃、今から三〇〇〇年以上前のことである。
サウル(ヤコブの一二人の息子のうちの末弟「ベンヤミン」の系列にある)は三十歳の若者であったが指導力を発揮し、一族の支持を得てカナンの地に「王国」的体制を初めてつくった。だが次第に独断的支配をするようになり、支配力を落としていく。
ダビデ(在位前一〇〇四頃~前九六五頃)がイスラエルを統一して初めての「王国」を樹立
サウルの次にダビデ(ヤコブの一二人の息子のうちの一人「ユダ」の系列にある)が最大の敵ペリシテ人のゴリアテを倒すなどして頭角を現す。ダビデは武勇面に優れるとともに人望もあった。サウル王の人気を上回ようになると王の反感を買い、命まで狙われるようになるとダビデは南の方に逃れ時期を待った。
サウル王の死後北上し、先住のペリシテ人らを撃破。ダビデ体制を拡張強化して「エルサレムを首都」とし、この地方を統一して初めての「王国」を樹立した。王権と王制組織を確立し勢力圏を拡大、王国の安定と繁栄を築いた。ダビデは「イスラエル最初の王」とも呼ばれている。
ソロモン(在位前九六五頃~前九二六頃)が「神殿」(第一神殿)を造る
ダビデ王の次に息子の一人ソロモンが王となった。ソロモンはイスラエルの一二に分かれている地方を統括し、各支族長にそこの責任者として治めさせる。そしてエルサレムのモリヤの丘に壮大な「神殿」を造った。完成は前九五三年であったという。後に「第一神殿」「ソロモン神殿」と呼ばれる神殿である。ここにあの「十戒」の石板を収めた「聖櫃(契約の箱、アーク)」を安置し、ユダヤ民族の信仰の中心となるものとした。
優れた知識人であり詩人でもあったソロモンは、また諸外国渡航易や建築造営などにも力を傾注し、イスラエルはかってない栄華を誇るようになる。しかし、国が繁栄する一方住民には負担が増加、王が自分の出身のユダ族などを中心に優遇政策を行っていたこともあり、各支族間に不満や不信が拡大していった。
ソロモンの死後イスラエル王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂
ソロモン王が死ぬと息子のレハブアムが王位を継いだが支族間の不満がより顕著になり、王国は分裂の危機を迎えた。
前九二八年、王国は崩れ北の一〇支族と南の二支族の二つのエリアに分かれた。この二つの王国は不信不仲を通り越し激しく対立するまでになってしまった。こうしてダビデ、ソロモンの王国はわずか七〇年ほどで終わった。
北の一〇支族がヤロブアム王のもとでサマリアを首都として「イスラエル王国」の名を継承していった。一方、南の二支族はレハブアム王に従い、エルサレムを首都とする「ユダ王国」になった。このユダ王国の系統がユダヤの主流になっていく。
北のイスラエル王国は悲劇の王国であった。
前七二二年、国内外とも不安定になっていったイスラエル王国は、アッシリアのサルゴン二世の攻撃を受け王国は滅亡した。独立して二〇〇年ほど後のことであった。この敗れた一〇支族は奴隷としてアッシリアに強制連行され、それ以降消息不明で歴史の舞台から消えてしまった。今では「失われた一〇支族」と言われ、その子孫が世界のどこかで暮らしているのではないかと考えられ、様々な伝説や伝承が生まれることとなった。
南のユダ王国は新バビロニアに征服され属国に、バビロンへ連行される者も出る
一方、南のユダ王国もアッシリアに攻められるが独立を保ち、アッシリアの属国として生き残っていった。
前六一二年、ところがそのアッシリアは勢力を伸ばしてきた新バビロニアの攻撃を受け滅亡した。
前五九七年、その新バビロニアの二代目王ネブカドネザルがユダ王国を攻撃しユダ王国は新バビロニアの属国となった。住民の中には新バビロニアに連行された者も多くいた。
(五)バビロン捕囚時代からユダヤ教の誕生時代へ(第二神殿)
前五八六年、ユダ王国はまた新バビロニアの攻撃を受け、首都エルサレムは徹底的に破壊され廃墟と化して陥落。あのソロモンが造った神殿は破壊された。「第一神殿の破壊」「ソロモン神殿の破壊」と呼ばれる。ここにユダ王国は滅亡し、五〇〇年近く続いた古代イスラエルの「王国」の歴史は幕を降ろした。
ユダ王国の民はバビロンへ連行される、「バビロンの捕囚」
新バビロニアに敗れたユダ王国の支配層ら多数の民は新バビロニアの首都バビロンへ連行される。「バビロンの捕囚」と呼ばれる。連行は前五八二年にもあり、捕囚による連行は前後三回行われたという。
「バビロンの捕囚」時代(前五八六~前五三八)でのユダの民の生活と発展
ユダの民はバビロンへ連行されてからも強かった。ある程度の外出や職業の選択も出来たことなども幸いし、互いに連携団結することができた。生活は比較的自由を許され、エルサレムへの想いを胸に神を崇め、信仰を深めることができた。囚われの中でもエルサレムを忘れることはなかった。彼らはエルサレムを思って歌った。「われらは バビロンの川のほとりにすわり シオンを思いつつ涙を流した」(旧約聖書詩篇第一三七編の一部)」という。「シオン」とは神殿のあった丘の南側に向かい合った丘のことを指しており、ここから神殿の丘がよく見え、「シオン」はエルサレムを象徴していた。
こうした捕囚の中で、従来からの神殿礼拝を中心とした信仰の形態は、新しい信仰形態へと変わっていった。
長老や知識人らを中心とした集会で律法(トーラー)の言葉を学び、祈り、礼拝するというような今のシナゴーグの原型ともいえるようなものが生まれていった。また、安息日、割礼、食べ物の規制など日常の生活習慣も次第に定着するようになっていった。
捕囚の民の大部分は、ユダ王国のユダ部族であったため、捕囚後は「ユダの民」つまり「ユダヤ人」と呼ばれるようになり、彼らが信仰する神への崇めと生活が「ユダヤ教」の基礎となっていく。彼らはエルサレムへの想いを忘れず、神を崇め団結して生活しユダヤ教の成立に強い影響を与えていく。旧約聖書が編纂され始めたのもこの頃であるといわれる。
そこで現在ではバビロン捕囚前の宗教を「古代イスラム教」または「ヤハウェ宗教」とし、捕囚以降の律法を中心にした宗教を「ユダヤ教」と言うこととし区別していくようになる。そして、この教えを守っていく人々を「ユダヤ人」というようになる。
前五三九年、彼らを支配下に治めていた新バビロニアは、東のアケメネス朝ペルシャのキュロス二世の攻撃を受けバビロンが陥落し滅亡した。バビロン捕囚から約五〇年後のことであった。
ユダの民、バビロン捕囚からエルサレムへの帰還を許される
前五三八年、ユダの民に寛大であったペルシャのキュロス二世は勅令を発布しバビロン捕囚を解除、彼らのエルサレムへの帰還を許可した。最初の捕囚から半世紀も経っており、実際に帰還した者は三割程度で、自由意思でバビロンに留まった者も多くいたという。
エルサレムの復興、第二神殿の建設
エルサレムへ帰還したユダヤ人らは廃墟と化したかってのユダ王国の地の再興に真剣に取り組み始めた。彼らの最大の望みはまず「神殿の再建」であった。
前五二〇年、神殿の本格的再建に取りかかった。
前五一五年、神殿再建工事は途中何度も困難に直面したが神への信仰を絆に協力して努力した。先のソロモン神殿よりも規模は小さいが新しい神殿を完成させた。ソロモン神殿を第一神殿というのに対し「第二神殿」と呼ぶ。
ユダヤ人たちは、南北両王国の滅亡とバビロンの捕囚という国家的苦難を強いられながらその中で、神との契約や罪といった神学的な観念を核に協力し団結して、信仰共同体を再興する動きを強めていった。結果として「バビロンの捕囚」は、彼らユダヤ人の「成長」と「発展」に大きく影響を与えたといえる。
ユダヤ教時代の出発点
第二神殿の建設は、エルサレム新時代の発端になった。捕囚の民が育ててきたユダヤ人としての信仰共同体が確立され、シナゴーグの原型ができていった。神殿は離散していたユダヤ人たちを神の信仰によって結びつける拠点となり、ユダヤ教徒と呼ぶ信仰・民族集団の出発点となっていく。
(六)ヘレニズム時代を経てローマの支配時代へ
アレキサンダー大王の東征、へレニズム時代
前四世紀、ギリシャのマケドニアにアレキサンダー大王(前三五六~前三二三)が現れる。ギリシャ全土を制圧したマケドニア王フィリッポス二世の子で、アレクサンドロス三世ともいわれる。アリストテレスを家庭教師として育ち、一九歳で王位を継いだ。
前三三四年から死ぬまでのわずか一一年間で、ギリシャ、アナトリア半島の小アジア、シリア、フェニキア、エジプトへと軍を進めペルシャ、さらにインドのパンジャブ地方へと大遠征し大帝国を建設する。
前三三二年、エルサレム地方はアレキサンダー大王に制圧される。アレキサンダー大王はアレキサンドリアを建設しヘレニズム文化の中心としていく。広大な地域がヘレニズム国家の支配下に入っていった。
前三二三年、三二歳の若さでアレキサンダー大王が死ぬと、大帝国は複数に分裂してしまう。アンディゴノス朝のマケドニアは主にギリシャ地方を、セレコウス朝のシリアはトルコあたりからペルシャの東までの北の地方を、そしてプトレマイオス朝のエジプトはエルサレムを含む南の地方をそれぞれ支配していった。
前三〇一年、パレスチナ地方はプトレマイオス一世(前三六七~前二八三)のエジプトに併合される。しかし、プトレマイオスはユダヤ人に対し寛大な政策をとっていく。
前一九八年、パレスチナ地方はプトレマイオス軍を撃破したセレコウス朝のシリアの支配下に入った。セレコウスはプトレマイオスとは逆にユダヤ人を弾圧する政策をとっていく。
「マカバイ戦争」、エルサレムをユダヤ人の手に奪還、ユダヤ人による最後の独立国家ハスモン朝
前一六七年、ユダ・マカバイ主導のハスモン家を中心に勢力を固めたユダヤ勢力は、セレコウス朝のシリアに反抗、独立を図るようになる。
前一四三年、マカバイはセレコウスを破りユダヤ人による独立王国ハスモン朝を起こす。「マカバイ戦争」
といわれ、前五八六年にユダ王国滅亡以来実に四五〇年余ぶりにユダヤ人による独立国家が回復した。
ユダヤ人による独立国家が回復した頃、ローマ勢力はカエサル将軍を先頭に強力な国政を張り、東部、南部へと支配地域を次々と拡大していく。クレオパトラ、アントニウスらが活躍する時代になった。そのような中でユダヤ人たちも安穏ではなった。ハスモン家内部に混乱が起きるようになると、ローマ軍の侵攻を受け状勢は混沌としてくる。
前六三年、エルサレムはポンペイウス活躍のローマの支配下にはいった。ある程度自治を認められながらローマのシリア属州の一部になる。ここで前一四三年マカバイ戦争で手にしたユダヤ人による独立国は幕を閉じた。
エルサレム、ヘロデ王の支配下に、第二神殿の大改築(ヘロデ神殿)
前三七年、遂にハスモン朝滅亡した。ローマは占領地対策として属州となった地域にはローマの息のかかった現地の支配者を置く政策をとっていく。このユダヤ人の地も例外ではなかった。エルサレム地域も現地の有力者ヘロデの支配下となっていった。ヘロデはユダヤ人ではなく死海の西に位置するイドマヤの出身であったが、ローマの権力者にうまく取り入り元老院に認められてヘロデ王(在位前三七~前四)としてこの地を統治していく。猜疑心が強く人の殺害も平気で行う非道の王としても知られる。
前二〇年、ヘロデは残忍な暴君と知られる一方、市街地の整備や建築方面にも力を注ぎ、第二神殿の大改築に着手、ソロモンの神殿を超える規模の大改築を進めた。神殿の完成は彼の死後になったが「ヘロデ神殿」として知られる。彼はまたマサダ砦の改築やマクベラの洞窟の整備なども行った。
ヘロデ王の死後、エルサレムは再び独立を目指し反ローマの動きが出る
前四年、ヘロデ王が死去すると、後継者たちはローマの属州からの独立を目指す動きに激しさを増してきた。
一つの神を崇める彼らは多神教のローマの教義とは相入れず、ますます反ローマへの団結を強め対抗し始める。
ローマ軍によりエルサレム陥落、第二神殿焼失、ユダヤ人の国は滅亡、エルサレムはローマの支配下に
ユダヤ人らは反ローマ姿勢を強化、ローマ側はこれに対抗して制圧にかかる。
西暦六六年(以下西暦の年号を表す場合、「西暦」は省略する)、ローマはこのユダヤの反ローマの動きに反撃、総勢八万人の大部隊をエルサレムに向かわせる。エルサレムは孤立するが激しく対抗。しかし多勢に無勢、建物などには火を放たれ炎上した。
七〇年、エルサレムは陥落、ローマの支配下になった。ユダヤ人の大反乱のこの戦いは第一次ユダヤ戦争(六六~七〇年)と呼ばれている。このローマ軍の攻撃でエルサレムの大部分とヘロデによって大改築された第二神殿も焼失した。ここにユダヤ人は国を失い、六〇〇年近く続いた第二神殿時代は終わった。ユダヤ人の生存者の多くはガリラヤ地方に逃れてまとまり、シナゴーグがつくられていった。
第二神殿の西壁「嘆きの壁」と「神殿の丘」
七〇年に焼失したこの第二神殿の西壁の一部が今も残っており、ユダヤ人はこの壁に向かって祖国喪失を嘆いたことからここが「嘆きの壁」と呼ばれ、祈りの場になっている。そしてこの東側の丘を「神殿の丘」と呼んで聖地としている。
(八)ローマ支配下でユダヤの反乱、ローマの圧政にユダヤ人離散
ローマの支配下となった紀元一世紀は、「激動の世紀」となった。ローマの圧政にユダヤ人らの不満はますます高まり反ローマ、対ローマ独立運動へとエスカレートしていく。
七〇年にエルサレムは陥落し祖国を失ったが、ユダヤ人の一部の者は反抗を諦めなかった。
七四年、強硬派は死海の西岸に近い峡谷から聳え立つマサダの要塞に立てこもり、あくまでも抵抗した。しかし、支配者ローマの勢力が相手であり、しかも兵糧攻めにあっては如何ともし難く全滅。さしものマサダの要塞も陥落してしまった。この時、ユダヤ人九六〇人が集団自決を遂げたという。
パル・コクバの乱、ローマ側の再攻勢にエルサレム陥落、第二次ユダヤ戦争
その後も反ローマ感情と独立願望は高まるばかりであった。
一三二年、パル・コクバが先頭に立ち反乱を起こし成功、二年半ほどであったが、エルサレムの大公として統治できた。しかし長く続かなかった。
一三五年、ローマ軍は大軍を投入し攻撃に出た。コクバは敢然として立ち向かうがかなわずエルサレムは陥落、コクバは戦死、死者と廃墟だけが残った。「パル・コクバの乱(一三二~一三五)」であり第二次ユダヤ戦争とも呼ばれる。ユダヤ最後のローマへの抵抗運動はここに終わった。
ユダヤ戦争で敗れた多くのユダヤ人らがローマに連行された。またこの戦争を境にユダヤ人たちは、ローマへの反感を抱きながら、やむなくこの地を離れ世界中に離散していった。ユダヤ人の「離散(ディアスポラ)」である。これから一八〇〇年余後の一九四八年「イスラエル建国」まで、ユダヤ人たちの多くはヨーロッパを始め世界中に散っていくことになる。前六世紀のバビロンの捕囚に次ぐ第二の離散(ディアスポラ)とも呼ばれる。
離散していったユダヤ人らは、迫害を受けながらも住みついた地において彼らの神を崇め、多神教のギリシャ人やローマ人などとは交わらず、ユダヤ人同士でまとまって生活するようになる。「ユダヤ教」がこうして固まっていった。
「パル・コクバの乱」など大きな反乱を経て、ユダヤ人の統治に苦慮してきたローマ皇帝ハドリアヌスはこの地方から徹底的にユダヤ色を一掃する動きにでる。
まず、支配しているローマ属州を廃しローマ帝国のシリア州の一部に編入し、「シリア・パレスチナ」に改名するとともに、この地方の呼び名もユダヤの仇敵で忌み嫌った「ペリシテ民族」の名にちなんで「ペリシテ人の地」の意から「パレスチナ」と呼ぶことに変更した。この地がパレスチナと呼ばれるようになったのはこれ以降である
また、ハドリアヌス皇帝は、エルサレムの町もローマ植民市「アエリア・カピトリーナ」に変更し、ローマ風の建築物を建て、ユダヤ人の立ち入りを禁止するなど徹底的にローマ化した。ローマのユダヤ人への圧迫は続き、このようなローマ帝国の方策に、ユダヤ人の心の中でのローマへの反目は消え難いものとなっていった。
(以上、士師時代以降は師旧約聖書にある「士師記」、「ルツ記」、「サムエル記」を経て「列王記」に至る歴史書の概要の一部である)
ここまでエルサレムやユダヤ人について語り継がれていることの概略であり、ユダヤ民族史の一端を見てきた。