第五章 オスマン帝国の建国とイスラム勢力の拡大

(一)オスマン帝国の建国

一二九一年に十字軍の手からエルサレムを取り戻したトルコのイスラム勢力は、更に勢力圏を拡大した。

一二九九年、オスマン一世(在位一二九九~一三二六)がアナトリア小アジア)地域を掌握し「オスマン帝国」を建国した。

 

(二)オスマン帝国東ローマ帝国を滅ぼす

ますます勢力拡大を続けたオスマン帝国東ローマ帝国ビザンツ帝国)などとの衝突を引き起こしていく。

一四五三年、オスマン帝国第七代スルタンのメフメト二世は力の弱まっていた東ローマ帝国を滅亡させ、コンスタンチノープル(現在のイスタンプール)を首都として発展していった。

一四六〇年、ギリシャ全土がオスマン帝国領土となりバルカン半島支配を確立した。

 

(三)イベリア半島の「レコンキスタ」(国土回復運動)完成

一五世紀になってくるとイベリア半島にも変化がでてくる。

イスラム勢力がスペインに入っていった八世紀頃には、イベリア半島には既に多くのユダヤ人が住んでおり、キリスト教徒やイスラム教徒らと大きな対立もなく比較的穏やかに生活していた。しかし、十字軍運動が盛んになるとこれに影響されてスペインのキリスト教徒も刺激を受け「異教徒追放」のレコンキスタ(国土回復運動)が起こってくる。

一四九二年、最後のイスラム王国(ナスル朝グラナダ王国)がカトリック王国(スペイン軍)に滅ぼされる。カトリック王国が成立すると、イスラム教徒やユダヤ教徒は改宗を迫られたり国外へ追放されたりしていく。改宗した者も疑いの目できつく扱われたり拷問を受けたりされた。ユダヤ教徒の多くは隣国のポルトガルに逃れたがそこも安泰でなく、さらにオランダ、イタリア、オスマントルコ領、北アフリカなどに避難した。一四九二年という年は民族的な惨劇の年となった。

一方カトリック側とすれば、ここに「レコンキスタを完成」させたということになる。(ちなみに一四九二年はコロンブスアメリカを発見した年でもあり、レコンキスタによるユダヤ人始め多くのヨーロッパのユダヤ教徒らがアメリカの地に移り住んでいくことになる。一五四九年にはフランシスコ・ザビエルが日本にもやってくる。)

 

(四)オスマン帝国の勢力の拡大、エルサレムを含むパレスチナの支配

オスマン帝国バルカン半島支配を確立した後もさらに支配地を広げていく。

一五一六年、オスマン帝国のセリム一世はエルサレムを含むパレスチナ地域をオスマン帝国支配下に入れ、一五一七年にはエジプト中心のマムルーク朝を滅ぼし、メッカ、メディナの保護権を掌握するなどサウジアラビアの西部やエジプト地域も支配し、支配地を拡大していった。

一五三七年、スレイマン一世(在位一五二〇年~六六年)の時代からはさらに勢力を拡大し、エルサレムの周囲に石積みの城壁と壮麗な門を構築し現在の「エルサレム旧市街」の原型を造っていった。

ここでの生活はイスラムの人々を中心に大きな争いもなく、キリスト教徒やユダヤ人も一部権利の制限が課されたものの居住も許されるなど、イスラム世界は比較的安定してイスラムの勢力は次第に拡大していく。こうして一六世紀のスレイマン一世時代イスラム勢力は大きく進展していった。