第三章 ムハンマドとイスラム教、その後継者たち

(一)ムハンマド

五七〇年、ムハンマド(五七〇~六三二)はアラビア半島のメッカ(現在のサウジアラビアの都市)で、ヒジャーズ地方のクライシュ族の名門ハーシム家に生まれた。生まれた時にすでに父は亡くなっており、母も彼が六歳の時死亡した。最初祖父のもとに引き取られたが、祖父の死後叔父のアブー・ターリブに育てられた。

当時アラビアの北地域は東ローマ帝国ササン朝ペルシャが対立していたこともあり、交易ルートは中部のメッカ経由が多く、メッカは恵まれた交易中継地として繁栄していた。このメッカには「カーバ神殿」があり、偶像崇拝の中心地でもあった。

ムハンマドは二五歳の時、メッカの有力商人の未亡人であつたハディージャと結婚し商人として成功、安定した生活を送っていた。

 

(二)ムハンマド、神の啓示を受ける

ムハンマドは四〇歳の頃になると、しばしばメッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけることが多くなった。

六一〇年、ラマダン月のある夜、彼は不思議な体験をする。何者かに羽交い絞めされ「誦め(よめ)」と命じられた。「誦め」とは声に出して読めということであった。読み書きができなかったムハンマドは「読めない」と断ったが声の主はさらに二度、三度と同じように繰り返し命じた。結局、ムハンマドは言われた通りのことを声に出して唱えた。ムハンマドは恐れおののき家に逃げ帰り震えながら妻のハディージャに異常な恐ろしい体験を話した。ムハンマドはその後も同じような体験をする。ハディージャは彼を信じ、励まし支えた。「誦め」と命じ神の声を伝えたのは天使ジブリール(ガブリエル)であった。ムハンマドは神の声を聞きこれを預かる人間、即ち「預言者」だと自覚するようになっていった。唯一絶対の神は、アダムからアブラハムモーセ、イエスなど幾人かの預言者たちに啓示を授けたが世は乱れ、民の独善は直らなかった。そこで神は最後の預言者ムハンマドに啓示を伝えたという。

 

(三)ムハンマド、神の教えを広める

ムハンマド唯一神(アラー)の啓示を基にこの教え(即ち「イスラム教」)を広めようと布教活動を始める。唯一の神を信じ、神から下った啓示を信じるよう活動した。神のことばに沿って信じ正しく生活をしていけば来世は天国に行くことができると説いた。イスラム教の始まりであった。しかし当初はこれを信ずる者は少なくムハンマドは冷笑され疎外された。だが最も彼を信じたのは妻のハディージャであり最初の信者となった。また従弟のアリーもムハンマドの教えに強く引かれていった。

イスラム教は、唯一絶対の神アラーを信仰しこれに従う一神教であり、神が最後の預言者としてのムハンマドを通じて下した「コーラン」を信じこれに従う教えである。コーランは「神の言葉」をそのままアラビア語で記録した文書であり、「声に出して読む」ものとされる。

 

(四)ムハンマドとメッカ、メディナ

六一四年、彼はメッカで布教を始めたがその教えはなかなか受け入れられなかった。

六一九年にハディージャが亡くなり、擁護してくれていた伯父も死亡すると、後ろ盾を失ったムハンマドはさらに苦境に陥る。

六二一年、そうした中で彼はまたもや不思議な体験をする.ある夜、天使と共にメッカから天馬に乗ってエルサレムに行き、そこから天に昇り、アダム、アブラハムを始め何人かの預言者らに会い、神(アラー)の啓示を受けて再び地上に戻って来たという。「ムハンマドの昇天」と呼ばれる。

六二二年、メッカでの仕打ちにムハンマドと信者たちはメッカでの布教を諦め、信者の多くいるメッカの北四〇〇キロメートルほど離れたところにあるヤスリブに脱出し、そこを拠点に活動をするようになった。このヤスリブへの移住をヒジュラ(聖遷)いう。後にこの聖遷がイスラム暦の紀元とされ、イスラム時代の始まりとされた。

ヤスリブの人々は彼らを快く迎え入れ、町の名もマディーナ・アンニナビ(預言者の町)、通称「メディナ」に改めるなど布教の後ろ盾となった。メディナでの布教活動はイスラム共同体「ウンマ」を中心に大きな勢力になっていった。

彼らのアラーを崇め、団結した布教勢力は、メッカの偶像崇拝側に対抗できるほどの勢力になり、メッカと衝突を繰り返すようになっていった。この時ジハード(努力)に一つに神のために戦う「聖戦」が付け加えられたという。

六三〇年、ムハンマドはメッカを征服、カーバ神殿の偶像を破壊した。代わりに聖なる宝として黒石を据えイスラム教の聖堂とした。ムハンマドはメッカ征服後もメディナにとどまり信徒を増やしていった。イスラム教の礼拝の地もエルサレムからメッカに改めた。

六三二年、高齢になっていたムハンマドは最後のメッカ巡礼(ハッジ)を行った。現在の「メッカ巡礼」はムハンマドの行ったこの巡礼に則って行われている。巡礼の後ムハンマドは六二歳で死去した。

メッカはイスラム教の第一の聖地、メディナは第二の聖地とされ、イスラム教勢力は世界中に広まっていった。

 

(五)ムハンマドの後継者たち

ムハンマドは後継者を誰にするかを遺言しないまま死去したため後継者問題が生じる。ムハンマドハディージャとの間に三男四女をもうけたが、男児はすべて夭折し、ムハンマドが死去の頃は末娘のファーティマだけが健在であった。ファーティマはムハンマドを良く支えた従弟のアリーと結婚しており、ムハンマドの子孫は続いていった。ムハンマドに下った啓示を信者たちは書物にまとめていった。これがイスラム教の聖典コーラン」である。

 

(六)正統カリフムハンマドの代理者)の時代

ムハンマドの死後、イスラム共同体は神の使徒ムハンマドの代理者・後継者としての「カリフ」と呼ばれる

指導者、最高権威者たちにより統括されていく。カリフたちイスラム勢力は勇敢で軍事的にも優れ、彼らの活躍によりイスラム教の布教範囲は拡大されていく。

 

初代カリフのアブー・バクルイスラム勢力を拡大

初代カリフにアブー・バクル(在位六三二~六三四)が就いた。バクルはムハンマドの無二の親友であり、ムハンマドより二歳年下で最初の信徒の一人でムハンマドの二番目の妻アーイシャの父でもあった。

六三三年、バクルたちは東ローマ領になっていたシリアに侵攻した。当時東ローマとササン朝ペルシャは互いに反目し戦争をしており共に疲弊していた。そこへやってきた彼らの勢力はシリアに歓迎された。

 

第二代カリフのウマル、エルサレムを攻略し入城、エルサレムイスラム勢力の支配下に戻す

二代目カリフは初代カリフのバクルが死ぬ前に後継として指名していたウマル(在位六三四~六四四)であった。勇敢で戦闘能力にすぐれておりイスラム領土の拡大に大いに貢献した。

六三六年、イスラム勢力はシリアの東ローマ勢力を撃破した。

六三八年、エルサレムはローマ支配の大司教が治めていたが、ウマル勢力がこれを包囲し、大攻撃や破壊に至らずに降伏させエルサレムに入城、イスラム支配下に置くことに成功した。荒れ果てていたエルサレムはローマ支配下からイスラムの勢力下になった。エルサレムの名称も「聖なる土地」を意味する「アル・クドゥス」に変えた。またササン朝ペルシャ軍を撃破したりエジプト地域も勢力下に置くなどイスラム支配地域は西アジア一帯にに広がり広大なアラブ帝国を形成した。ウマルは六四四年にメディナのモスクで礼拝中に暗殺された。

 

第三代カリフのウスマン、「コーラン」を編纂

三代目カリフはウスマン(在位六四四~六五六)である。メッカの豪商ウマイヤ家の出身ウスマンは「コーラン」をムハンマドが神から与えられた「神の言葉」として数人の信者に命じて編纂させた。ウスマンは出身のウマイヤ家を重用したため六五六年敵対者によって暗殺された。

 

第四代カリフのアリー、アリーまでが「正統カリフ

四代目カリフにはハーシム家のアリー(在位六五六~六六一)が就任した。アリーのカリフ就任にムハンマドの秘書の立場にあったウマイヤ家のムアーウィアアーイシャは異を唱え反発した。アリーはムハンマドの従弟にあたり妻はムハンマドの末娘ファーティマである。アリーの父親はムハンマドを育てたアブー・ターリブである。四代のアリーまでが「正統カリフ」の時代(六三二~六六一)と呼ばれる。

 

(七)イスラム教は「シーア派」と「スンニ派」などに分裂

ウマイヤ家のムアーウィア

第三代カリフのウマイヤ家のウスマンが殺害された後、その家長の地位をムアーウィアが継いだ。アリーが第四代カリフに選出されたことにウマイヤ家は反発し、アリーとムアーウィアとの争いが起きた。

六六一年、アリーは争いの中でムアーウィア側により暗殺された。アリーには妻ファーティマとの間にハサンとフサインの二人の息子がいた。アリーが暗殺されるとその支持者たちはアリーの後継に長男ハサンに望みを託した。しかしハサンは無意味な争いが続くことを避け、その座をすぐに手放しウマイヤ家のムアーウィアに譲ってしまった。ムアーウィアは「ウマイヤ朝」を開き第五代カリフへ就任した。

 

「カルバラーの悲劇」、アリーの血を引く派がウマイヤ朝側に大敗

ムアーウィアの五代目カリフへの就任に反発する動きが起きてくる。ムアーウィアが没し息子がカリフを継承するとアリー側は反ウマイヤ家の行動にでた。

六八〇年一〇月一〇日、ウマイヤ朝側の流れに反対していたアリー派の一部は、アリーの次男フサインを立ててアリーの血統の再興を図り、ウマイヤ朝側と争いになった。しかし、少人数で劣勢であったアリー派はウマイヤ朝側に全く歯が立たず大敗した。この争いにフサインは惨殺され、一族は皆殺しにされた。土地の名から「カルバラーの悲劇」と呼ばれる。(なお、カルバラーはイラクの首都バグダッドの南方九〇キロほどのところにあり、現在ではフサイン殉教の地としてシーア派の最大の聖地となっている。シーア派の信徒にとってはこの一〇月一〇日はフサインの殉教の日(アシュラー)として追悼祭を行うなど特別な日となっている。)

 

シーア派の成立

シーア派の成立にあたり次のような説明がなされているという。フサインが存命中にイランの王女が戦争により捕虜になって来ており、フサインとの間に子供が生まれていたといわれ、アリーの血を引く派は亡びることなく続いていったという。こうしてアリーの血は繫がっていき、アリーの側にあったシーア・アリー(アリーの党、シーアは党の意)の人びとは血統を重視して、「我々はムハンマドの血を引き、しかもイラン王室の血も受けている正当な後継者だ」「アリーアリー血を引く者こそが正当なムハンマドの後継者だ」と主張した。そしてアリーを初代イマーム(最高指導者)とし、アリーの長男ハサンを二代目イマーム、次男フサインを三代目イマームとする血統を重視するイマーム制を敷き、ウマイヤ朝とは別の派が出来ていった。四代目以降一二代までのイマームフサインとイラン王女の子孫とされていく。この派がやがてシーア・アリーのアリーの部分が省略されて単に「シーア派」と呼ばれるようになる。(なお、第一二代イマームは若くして姿を消したため、信者たちは「お隠れになったのでありこの世の終末に再臨される。それまでは教えを極めた法学者が最高指導者となり導いていく」としている)

 

シーア派イスラム教信者の少数派

アリーとアリーの子孫のみをムハンマドの後継者と認めるシーア派は、現在ではイスラム教信者の一五%ほどで少数派である。イランの国民のほとんどはシーア派である。

 

スンニ派

シーア派に対してスンニ派と呼ばれる派が生まれてきた。

六六一年、ウマイヤ朝を開き五代目カリフとなったムアーウィアは、都をシリアのダマスカスに置きカリフの座を世襲制としていった。彼らはシーア派が重視する血筋とは関係なく、ムハンマドからの「慣習(スンニまたはスンナ)」に従っていくべきであるとし、基本的にはコーランに記されていることと、生前のムハンマドの生活や行動を記録し彼の言行を記した伝承「ハディース」を規準にし、代々伝えられてきた伝統や習慣を守るべきであり、正統派だと主張する。「スンニ派」と呼ばれる。現在ではスンニ派サウジアラビアを始め世界各地に広がり、イスラム教信者の八五%ほどを占める多数派となっている。

 

(八)ウマイヤ朝(六六一~七五〇)の時代、イスラム世界の拡大

ムアーウィアから続くウマイヤ朝正統カリフ時代に続いて領土の拡大を図っていった。カリフの部隊は、東はサマルカンドからインダス川流域あたり、西は北アフリカ、さらに七一一年にはジブラルタル海峡を渡りイベリア半島までも征服していった。イスラム世界は東西に大きく広がり、ウマイヤ朝は一四代カリフのマルワーン二世(七四四~七五〇)まで続いていった。

 

(九)「岩のドーム」と「アル・アクサ・モスク」の建設

ウマイヤ朝第五代カリフ納品アブドル・マリクの六九一年頃、イスラム教徒らはエルサレムムハンマドが昇天したとされる地に「岩のドーム」が建設された。岩のドームの下には岩(巨石)が収められている。この岩はアブラハムがその子イサクを生贄に捧げようとした時の祭壇だといわれ、またムハンマドが昇天する時に手をつき、その手の跡が残っている岩だという。

第六代カリフの七一五年頃、岩のドームの南側にアル・アクサ・モスクが建てられた。

 

(一〇)イスラム教の「ハラム・アッシャリーフ」とユダヤ教の「神殿の丘」

イスラム教徒らが岩のドームやアル・アクサ・モスクを建設した地は、ムハンマドが天に昇った聖なる場所を意味する「ハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖域)」と呼んでいる所であり、メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地とされている。またこの場所はユダヤ教徒にとっては祈りを捧げる「嘆きの壁」の東にあたる「神殿の丘」と呼ぶ聖域でもある。(両教徒にとって共に「神聖な祈りの場」であることから、ここが現在に続くパレスチナ問題の最大の争点地となっている)

 

(一一)ウマイヤ朝からアッバース朝(七五〇~一二五八)へ

八世紀に入った。時代は進み、ウマイヤ家の支配を否定し、ムハンマドハーシム家こそが指導者にならなければならないとする運動が激しさを増してくる。アリーの血を引くシーアだったがどの家系を正統とするかで争いが生じてくる。

七四七年、正統の派は預言者ムハンマドの伯父アッバースの血統を継ぐアッバース家にあると主張するグループがウマイヤ朝に対する武装蜂起を起こした。

七五〇年、ウマイヤ朝に対する殺戮は凄惨を極め、ウマイヤ朝第一四代カリフのマルワーンを始め支配者層を根絶やしした。ここにウマイヤ朝は大敗を喫し滅亡した。こうしてアッバース朝が興されていった。このとき、ウマイヤ朝の支配層の中で唯一人アブド・アッラーフマンだけが生き残りイベリア半島へ逃れ、コルドバを首都とする後期ウマイヤ朝を興しスペインで発展していく。

アッバース朝は樹立後、支配者層の強化を図るため大粛清を行うとともに、イスラムの国創りに血筋は関係ないとしてスンニ派に大転換した。アッバース朝第二代目のカリフマンスールは新首都をバグダードに定めた。その後バグダードは交易の中心地として大いに発展しアッバース朝は八世紀から九世紀にかけ最盛期を迎えていった。

普通、「イスラム帝国」と呼ぶ場合、このアッバース朝の時代を指すことが多い。

 

(一二)アッバース朝の滅亡、エジプトにマムルーク朝

九世紀末になるとアッバース朝は戦乱時代に入り一二五八年にモンゴル軍の攻撃ににバグダードが陥落しアッバース朝は滅亡した。なお、一二五〇年にはエジプトにマムルーク朝が成立している。

 

一三イスラム教に帰依する「ムスリム」たちの「五行・六信」

イスラム教に帰依する者「ムスリム」たちは神の言葉である「コーラン」を信じ、さらに理解を深めるためムハンマドの生前の発言や行動を記録した「ハディース」(伝承)を守り実行していった。

実行の基本は「五行(イバーダート)」、信仰の基本は「六信(イマーン)」といわれる。「五行」は信仰告白シャハーダ)、礼拝(サラート)、断食(サウム)、喜捨(ザカート)、巡礼(ハッジ)を実行することをいう。信仰告白は、「私はイスラム教の信者です。アラーは唯一の神であり、ムハンマドはその使徒です」ということを他人に宣言すること、礼拝は実際にメッカに向かって一日に五回礼拝すること、断食は太陰暦の九月に日中は断食をすること、喜捨は他人に施しをすること、巡礼はカーバ神殿のあるメッカに生涯のうち一度は参詣をすることという「五つの行」だとされる。「六信」は唯一神(アラー)、天使(マラク)、啓典(コーラン使徒預言者、ナビー)、来世(アーヒラ)、天命(カダル)を信じることをいう。六信はこの世の創造主である唯一神(アラー)がいることを信じ、神の使徒である天使がいることを信じ、神の言葉である啓典(コーラン)にあることを信じ、啓典(コーラン)を預かり伝える人預言者の言うことを信じ、預言者の言うことを守れば天国へ行けると信じ、この世界に起きることはすべて神の意志に沿ったものであると信じなさいという「六つの信」だとされる。