はじめに

不安定な国際情勢

最近の不安定な国際情勢が大変気にかかる。日々ニュースを見たり聞いたりするたびに、どうも愚痴や批判が先に出てしまう。心底から称賛し、大きな拍手を送ることができるニュースは実に少ない。自国中心で、すぐ相手を批判したり非難したりする不信と対立の構図である。今、国際関係において求められることは、胸中を開いて歩み寄り、真摯に対話して平和を希求する姿勢であると思う。

 

中東地域

このような不安定な国際情勢の中で、特に中東地域に関するニュースから目が離せない。地域の分け方はいろいろあるが、中東地域とは、アラブ首長国連邦、イエメン、イスラエルイラク、イラン、エジプト、オマーンカタールクウェートサウジアラビア、シリア、トルコ、バーレーン、ヨルダン、レバノンの諸国、及びパレスチナ自治政府の管轄地域(パレスチナ)を包含した地域を指すとされる。この地域では、(地域外との関係よりも)地域内における対立抗争が絶えず、国際社会からも紛争多発地域だとして格別に注視されている。シリアの内戦問題、イエメンの内戦問題、イランの核開発をめぐる問題、カタールの断交問題、イスラエルパレスチナ間の対立問題など多くの紛争や事件が続いている。また、イスラム国」(IS)の問題、クルド人自治の問題などもこの地域での厳しい紛争の問題である。

 

パレスチナ問題

中東地域における紛争や事件の中でもイスラエルパレスチナ間の対立問題は、宗教、人種、地域、領土、国境、国などの要素が絡み合って、長年にわたり解決できずに続く紛争問題である。この問題は、パレスチナ紛争、イスラエルパレスチナ紛争、中東問題、パレスチナ問題などと様々の言い方がされるが、ここでは一つに絞り「パレスチナ問題」としていくことにする。

パレスチナ問題は複雑すぎてよく分からないとの声が多いが、一般的には一九世紀後半頃からの問題として捉えていくと理解し易いとされる。平易に表せば、第一次世界大戦前からシリアの南部辺りにはイスラム教徒のアラブ人が多く住んでいた。その地に世界中に散らばっていたユダヤ人が移住し始め、自分たちの独立した国を建設しようとして、先に住んでいたアラブ人との間で衝突が起きた。ユダヤ人側が優勢で多くのアラブ人が難民となって住んでいた土地を離れ、そこに「イスラエル」という国が建設された。その後もこの双方の紛争が続いており、途中「オスロ合意」という和解もあったが対立は解けず、現在も抗争が続いている。これがパレスチナ問題だとされる。また別の言い方をすれば、パレスチナと呼ばれる地域をめぐるユダヤ人とアラブ人との政治的な紛争であるとか、ユダヤ人対アラブ人、ないしはイスラエル人対パレスチナ人の土地をめぐる紛争問題であるとか、ユダヤとアラブのエルサレム争奪を中心にした争いであるなどとされる。このようなことからパレスチナ問題は、宗教上の対立による問題よりもイスラエルパレスチナの地域をめぐる政治・社会的な対立問題と見た方が分かり易いとされる。

パレスチナ問題の解決に向けては、これまで双方が何度も話し合い、またアメリカ始め多くの国や機関が仲介に入ったり決議をしたりして努力をしてきた、しかし、双方の対立は解けず、パレスチナ問題は今も続く国際的な対立と紛争の問題である。

(以後、特に断らない限り、イスラエルパレスチナ双方の問題を解決し合意する和平を「中東和平(又は和平)」、それに向けての交渉を「中東和平交渉(又は和平交渉)」と呼び、その合意を「中東和平合意(又は和平合意)」としていく)

 

イスラエルパレスチナエルサレム

地図を開いてイスラエルパレスチナエルサレムの位置などをチエックしてみる。

最初に「イスラエル」である。イスラエルは地中海の南東岸に位置する矢じりのように尖った形の国である。

周りには北にレバノン、北東にシリア、東にヨルダン、南にサウジアラビア、西にエジプトの国々がある。ヨルダンとの境にヨルダン川が流れ、アカバ湾へ通じている。

イスラエルは歴史的にも非常に興味深い地にある。聖書に見える物語の舞台とされる「カナンの地」にあり、神がアブラハムとその子孫に与えると約束した地だとされる。この辺りは古くからユダヤ教徒ヘブライ語の聖書からのエレツ・イスラエルイスラエルの地)と呼んでおり、紀元前一一世紀頃には古代イスラエルの王国があったとされる地域である。一九世紀後半頃から世界中に散らばっていたユダヤ人が移住し始め、この地に独立した自分たちの国をつくろうというシオニズム運動が高まり、第二次世界大戦後の一九四八年にここに国を建設した。国名の「イスラエル」は、彼らの祖先アブラハムの孫ヤコブ(別名イスラエル「神の戦士」の意)に因んでいるという。

一九六七年の第三次中東戦争で支配地を更に広げ、今では面積が約二万二〇〇〇平方キロメートルで、人口は八六〇万人ほどだとされる。首都はエルサレムとされるが国際的には未承認である。現在のイスラエルの首相は、ベンヤミン・ネタニヤフ氏である。

 

次は「パレスチナ」である。パレスチナを地図上で探すがパレスチナという国は見当たらないし、またパレスチナという地の表示もない。イスラエルに重なるように「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」の表示がある。この両地区はイスラエルが占領した地域であり、現在ではパレスチナ自治政府が管轄する「パレスチナ自治区」の地域となっておりパレスチナという場合の地域はこの両地域を指す。パレスチナは、正式には「国」とは認められておらず、将来、「国」として独立することを目指している。

この辺りの地域は、古くから(現在のイスラエルの地も含んで)周辺地域をアラビア語でフィラスティーン(ペリシテ人の地)と呼び、更にフィラスティーンがなまってパレスチナと呼んでいたという。パレスチナについて広辞苑第七版の説明によると、(ギリシャ語の「ペリシテ人の地」から)西アジアの地中海南東岸の地方。カナンとも称し、聖書に見える物語の舞台。第一次大戦後、オスマン帝国からイギリス委任統治領。以後、シオニズムによるユダヤ移民が進展。一九四八年イスラエル独立とともにイスラエルとヨルダンとに分割されたが、六七年イスラエルヨルダン川西岸地区ガザ地区を占領。八八年独立宣言、二〇一二年に国連総会でパレスチナ自治政府を国家と決議」となっている。少し付け加えれば、「六七年イスラエルヨルダン川西岸地区ガザ地区を占領」とは、一九六七年の第三次中東戦争イスラエルがヨルダンからヨルダン川西岸地区を占領し、エジプトからガザ地区を占領したことを指している。また、「八八年独立宣言、二〇一二年に国連総会でパレスチナ自治政府を国家と決議」とは、一九八八年、パレスチナの国会に相当する民族評議会でパレスチナ国家の独立宣言を採択しパレスチナの独立が宣言されたことと、二〇一二年に国連総会でパレスチナ国家の独立を再確認し、パレスチナの資格をオブザーバー国家と決議したことを指している。

ヨルダン川西岸地区は面積約五六五五平方キロメートルで人口は二九〇万人ほど、ガザ地区は面積約三六五平方キロメートルで人口は一八五万人ほどだとされる。現在の自治政府の議長は、マフムード・アッバス氏である。

 

もう一つ、「エルサレム」である。エルサレムイスラエルヨルダン川西岸地区との境界近くにある都市である。歴史的にはこの辺りに古代イスラエル王国の首都があったとされる。その後、悲惨な戦争と征服の歴史を刻みながら支配者が次々と入れ替わってきた地域で、ユダヤ教キリスト教イスラム教の三宗教の「聖地」であるとされている。第一次中東戦争の結果、エルサレムは東と西に分割され、東エルサレムはヨルダン、西エルサレムイスラエルの統治となった。その後第三次中東戦争イスラエルが東エルサレムを占領して、エルサレム全体を領有した。そしてイスラエルは、「エルサレムイスラエルの永遠の首都である」としている。一方、パレスチナイスラエルの主張を認めず、東エルサレムを将来の独立したパレスチナ国の首都にすると主張している。なお、多くの国はエルサレムイスラエルの首都と承認しておらず、大使館は地中海寄りの商業都市テルアビブに置いている。エルサレムの面積は約一〇五平方キロメートル、その中で旧市街は、わずか一平方キロメートルほどである。

 

最近の中東和平への動き

中東和平への動きは一九九三年の「オスロ合意」の締結を経て、パレスチナ自治政府による暫定自治が始まり大きく進展した。しかし、その後も対立、闘争は絶えず不安定な情勢が続いた。二〇〇三年に示されたロードマップに基づく動きも弱く、むしろ混迷を深めてしまった。さらにその後も何度となく和平交渉の場が持たれたものの合意できず、いずれの交渉も途中で中断してしまった。

 

最近の中東和平に向けた動きを少し見てみよう。

二〇一三年七月、三年ぶりにオバマ政権下のアメリカの仲介により和平交渉がイスラエルパレスチナ双方の代表によりワシントンで始まった。これまでの交渉での反省を踏まえ、国境、領土、首都などをどのように定めていくかを双方で話し合い、「二国家共存」による和平を達成しようとするものであった。しかし、パレスチナ側のパレスチナ国建設の主張に対し、ネタニヤフ首相を始めイスラエル側のこれを認めようとしない基本的な対立に交渉は初期段階から難航した。

 

二〇一四年に入った。和平交渉は続いたがこれまでの交渉と同じように進展がない。

四月、交渉は暗礁に乗り上げ、今回の交渉もまた中断してしまった。

 

二〇一五年三月、イスラエルで総選挙が行われた。ネタニヤフ首相率いる与党強硬派の右派と中東和平の再開を目指す中道左派の野党連合が接戦を展開した。選挙戦の途中では劣勢の予想もあったネタニヤフ側が後半挽回して僅差で勝ち、政権の継続を確実にした。これによりイスラエルの強硬姿勢は継続し、(今まで通り)イスラエルパレスチナとの対立は続き、中東和平の達成は遠のいたとする見方がさらに強くなっていった。

三月二〇日の日本経済新聞は、「ネタニヤフ氏が総選挙勝利」、「中東に広がる失望感」との見出しで、次のようなイギリスフィナンシャル・タイムズ紙の社説を紹介した。

イスラエル総選挙でネタニヤフ氏が決定的な勝利を収めた。彼の政治家としての強烈な意志を感じさせる。だが、彼が期目の首相として再任されることは西側諸国と中東全域で失望感を高めるだけだ。

ネタニヤフ氏は圧勝したわけではない。選挙結果は右派政党「リクード」を率いるこの指導者についての評価が今も分かれていることを示す。

彼の勝利は過度に不安をあおる選挙運動がもたらした結果でもある。彼は右寄りの有権者の票を得ようと必死で、パレスチナ国家を拒否、それを認めれば「イスラム過激派に攻撃の陣地」を提供することになるだろうと述べた。

彼を支持する人たちはネタニヤフ氏を「ビビ(ネタニヤフ氏の愛称)国王」と呼ぶが、彼の選挙運動をみると、とても国父の称号を与えるわけにはいかない。

問題は彼の首相再任がイスラエルの地域政策にどのような意味を持つかだ。まずイラン問題がある。彼はイランの核計画をめぐる取引に強く反対してきた。イランは計画を完全に放棄するか、そうでないなら制裁を強化すると主張するが、彼の姿勢は非現実的だ。

今回の選挙結果はイスラエルパレスチナ自治政府との関係により大きな影響を与える。国家解決案をめぐる双方の交渉は昨年月に失敗に終わっているが、ネタニヤフ氏が今回、その案を拒否したことで雰囲気は一段と冷めた。西岸とガザの住民は幻滅感を深めるだけだ。

したがってオバマ政権は何らかの対策を考えなければならない。米国は二国家案を支持しているが、パレスチナ自治政府が国家安全保障理事会で国家としての承認を求めた際、米国は交渉を複雑にすると言って拒否権を行使した。

ネタニヤフ氏は今や交渉自体を拒否しているようであるし、西岸への入植をやめない。こうした状況下では米国がパレスチナ国家に関する拒否権をいつまでも続けられると信じるわけにはいかない。ワシントンはパレスチナ側が国連で再び国家承認を求めた場合には、対応を再検討すべきだ。

イスラエルパレスチナの歴史は新たな章に入りつつある。(一九日付、社説)

五月一四日、この総選挙から二カ月後、勝利したネタニヤフ首相は、パレスチナ国家反対の右派五党で連立を組み、通算四期目となる政権を発足させた。これで右派傾向はさらに強まり、パレスチナへの強硬路線が続き、パレスチナとの二国家共存を目指す和平交渉の再開は極めて困難な状況となった。

五月二〇日、ネタニヤフ首相が「二国家共存構想を支持する」と今までの姿勢を覆すような発言があったとの報道があり驚きが広がった。

六月二日、オバマ大統領はネタニヤフ氏の二国家共存支持発言に対し、「国際社会は既にパレスチナとの二国家共存に対するイスラエルの真剣さを信じていない」とネタニヤフ発言を批判したともとれる報道がされた。ネタニヤフ氏の真意はどこにあるのだろうか。ネタニヤフ氏はその後もパレスチナへの強硬姿勢を続け、パレスチナの独立を認めようとする具体的な動きはない。パレスチナの独立には反対の姿勢だ。この状況では和平交渉の再開は到底望めない。

 

二〇一六年はアメリカの大統領選挙が実施された年であった。オバマ氏の後継は、民主党ヒラリー・クリントン氏か共和党ドナルド・トランプ氏か。投票前からクリントン氏の優勢が伝えられていたが一一月の選挙結果は「トランプ氏の勝利」であった。親イスラエルの姿勢を鮮明にしているトランプ氏が中東和平交渉にどのように向き合うか注目された。

一二月、オバマ政権の任期は残り一カ月となった。イスラエルと距離を置くオバマ政権は対イスラエルで注目される判断をした。アメリカはイスラエルが入植活動を強化している状況を懸念して提出された国連安保理の「イスラエルによるユダヤ人入植活動の停止を求める決議」を「棄権」した。決議は一五カ国中一四カ国が賛成し、アメリカ一国のみが棄権した。アメリカが友好国であるイスラエルの立場に反する決議案の採択で「拒否権」を行使せず、「棄権」したのは極めて異例である。オバマ政権は政権最後にさらに大きく「イスラエルとの距離」を広げた。

 

二〇一七年に入った。一九六七年の第三次中東戦争から五〇年となる大きな節目の年である。

一月二〇日、トランプ氏がアメリカ第四五代の大統領に就任し、新政権はトランプ氏のアメリカ第一主義を政策方針を基盤にその第一歩を踏み出した。アメリカの国内政策に及ぼす影響は言うに及ばず、世界全体が期待と不安の混在した特異な政権の発足となった。政権を担ったトランプ氏は、早々と「パレスチナ問題」にも積極的に動いた。

二月一五日、トランプ氏はイスラエルのネタニヤフ首相とワシントンで会談し、国際情勢や中東地域の安定などについて協議した。ネタニヤフ首相はトランプ政権の発足を好機と捉え、トランプ氏のイスラエル支持を期待している。トランプ氏はネタニヤフ首相との共同記者会見で注目される重大な発言をした。これまでアメリカが支持してきた二国家共存の和平案を転換するともとれる「二国家共存に必ずしもこだわらない」との考えを示した。ネタニヤフ首相のパレスチナの独立を認めないとする姿勢を支持した形で「一国家」案につながる発言だとも評された。イスラエルはトランプ氏の姿勢に感謝と期待を示した。一方、パレスチナ側はトランプ氏の発言は二国家共存を否定するものだとし、不安をつのらせ強く反発した。

五月三日、トランプ氏はパレスチナ自治政府アッバス議長とワシントンで会談した。二月にネタニヤフ首相との会談に続き、今度はアッバス議長と中東和平などについての協議である。アッバス氏は先の二国家共存に必ずしもこだわらないとするトランプ氏の発言を念頭に、従来からの二国家共存の和平実現を熱く主張した。その上でトランプ氏の中東和平への仲介熱意を大いに期待するとしつつ、一貫して二国家共存を目指し、トランプ政権の理解を得ようと懸命であった。パレスチナでは自分たちのパレスチナの国の樹立に望みを託し希望を失っていない。ほとんどのアラブ諸国も同じ姿勢だ。

五月一九日、トランプ大統領北大西洋条約機構NATO)首脳会議、主要国首脳会議(G7)などへの出席に先立ち、ユダヤ教イスラム教、キリスト教の三宗教に縁の深い、サウジアラビアイスラエルパレスチナバチカンの訪問に出発した。歴代のアメリカ大統領が就任後の最初の訪問先にこれらの地域を選んだ例はない。新大統領がこの地を訪問することの意義は大きい。トランプ氏は現地でイスラエルではネタニヤフ首相らと、パレスチナではアッバス議長らとそれぞれ中東和平についても会談し、重ねて中東和平に向けての積極姿勢を示した。

六月、一九六七年六月の第三次中東戦争イスラエルヨルダン川西岸や東エルサレムなどを占領してから

五〇年の節目を迎え、改めてイスラエルパレスチナに注目が集まった。

七月、トランプ政権が発足から半年が過ぎた。大統領に対する支持率はまだ低いままだ。七月一六日、新しい世論調査が発表された。四月発表の世論調査で四二%だった支持率は三六%にダウンし、不支持率は逆に五三%から五八%にアップした。内政、外交も厳しい状況だ。トランプ政権は対北朝鮮問題に躍起であるが、中東での諸問題への外交手腕も問われる。声高に主張するトランプ大統領ではあるが目立った成果が表れていない。

七月下旬、聖地エルサレムをめぐりイスラエル側とパレスチナ側の対立がまた激化してきた。

九月以降、パレスチナファタハハマスの対立解消に向けての協議が進み始め、明るいムードになると期待されたがスムーズに進展しなかった。

一二月六日、国際社会に激震が走った。トランプ大統領エルサレムイスラエルの首都と認定。テルアビブにあるアメリカ大使館をエルサレムに移すと表明した。イスラエルは長い間、「エルサレムイスラエルの首都」、「(各国は)エルサレムに大使館を」と主張しており、今回のアメリカの表明を大歓迎した。一方、パレスチナ始めイスラム諸国は猛烈に反発した。

 

二〇一八年になった。二月二三日、アメリカは在イスラエル大使館を今年の五月に現在のテルアビブからエルサレムへ移転させると発表した。移転時期はまだ先だと思われていただけに、前倒しの発表に国際社会は驚いた。

五月一四日、イスラエル建国七〇周年に当たる日、アメリカは大使館をエルサレムに移転した。エルサレム旧市街の南の方にある領事館の建物を衣替えしたという。移転に強く反発していたパレスチナでは大反対のデモ行動が各地で起きた。特にガザではイスラエル軍との衝突により死者五〇人超、負傷者二〇〇〇人以上がでる事件となった。国際的にもエルサレムの帰属や位置づけをめぐる問題に新たな火種が加わり、和平交渉に向けての困難性が一段と高まった。多くの国がアメリカの動きを批判した。

和平交渉は四年前に中断したままだ。交渉の再開に向けて新しい進展が待たれるが、アメリカ大使館の移転問題がさらに状況を悪くしている。パレスチナ側はイスラエル寄りのアメリカの仲介を拒否する姿勢を崩していない中、トランプ政権は和平交渉の仲介役を模索し、近く新たな和平案を纏めたいとしているようだ。真の和平に繫がる案となるか期待されるが、逆に混乱を増すことにならないか心配もされる。

 

パレスチナ問題へのアプローチ

さて、二〇一八年の今年は一九四八年のイスラエル建国から七〇年となる年であり、また一九九三年のオスロ合意からは二五年となる節目の年である。このような時にこそ改めてパレスチナ問題に焦点を当ててみるのも意義がある。また、複雑で分かりにくい問題であるからこそ、この問題にチャレンジしてみる価値がある。そう思ったとき、「そもそもこの問題が生じてきた始まりは何だったのだろうか」、「この問題が解決できない主な原因はどこにあるのだろうか」、「問題解決に向けて今まで誰がどんなことをしてきたのだろうか」、「果たしてこの問題の解決はあるのだろうか」などと次々と疑念が湧いてくる。

そこで、関係がありそうな事柄ついて、年代順にどんどん勝手に拾ってみれば少しはこの問題に近づけるのではないかと考えた。拾い出しの初めは一九世紀以降からでいいと思ったが、この際、もっと遡って旧約聖書の時代からのことにも触れることにした。まず、聖書の時代からムハンマドイスラムの時代などを経て、イスラエル建国に至るまでの概略を見る。続いて、イスラエル建国から現在まの七〇年はもう少し詳しくフォローする。特に、オスロ合意からの二五年間についてはより詳細にチェックしてみるのがよいと考えた。その中でも、アメリカにトランプ政権が誕生してからの動きには細心の留意を持ってあたることにした。

そこで、

一、既に広く伝えられていることや報道されていることを

一、誇張したり憶測を交えたりすることなく

一、いつ頃、どこで、どのような事があったかなどを

一、時系列に留意しつつ、できるだけ年代・年月日の順に

、年表を拡大する(項目を増やして少し説明を加えるような)方法で

書き出してみることにした。

 

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第一章 古代イスラエルやユダヤ人について

最初に、基礎的な理解を深めるために、古代イスラエルユダヤ人について旧約聖書の時代に遡ってみる。

 

(一)アダムとエバ(イブ)から

旧約聖書によれば、「はじめに神は、光あれ!と命じ、続いて天地や動植物を創造され、最後に人間を創り、七日目には休まれた」という。

神が創った最初の人間はアダムとエバ(イブ)。エデンの楽園の暮らしとその追放を経て子孫は続いた。そしてノアの箱舟(方舟)、大洪水の試練を乗り越え、ノアの息子、セム、ヤベテ、ハムが地上のすべての民の祖先となったという。

時代は進み、紀元前(以下時代を現す場合、紀元前は「前」とする)七〇〇〇年頃、今のエジプトからイランに広がる地域に農耕文化が発達し、前四〇〇〇年頃にはナイル川チグリス川、ユーフラテス川沿いに高度な文明の発達した生活圏が生まれていったという。

 

(二)アブラハムとその子孫、アラブの民とイスラエルの民神(ヤハウェ)とアブラハム

前一九〇〇年頃のことだろうか。セムの子孫アブラハムの話である。ノアから数えて一〇代目に当るという。

アブラハムはユーフラテス川の下流の町ウル(現在のイラクの南部)に生まれた。後、父のテラと妻のサラ、甥のロトらとともにウルを離れ、ハラン(現在のトルコ南東部)の地に移り住んでいた。ある日、アブラハムは天より「神の声」を聞いたという。「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と。心から神を敬い熱心な信者であったアブラハムは、神の声に従い一族を連れて旅に出た。土地を持たない遊牧の民だった。着いた地は「カナン」という地であり、そこで生活を始めた。

アブラハムに対し「神の声」は続いた。神はアブラハムに対し子々孫々に至るまで自らを唯一の神として信仰するように求め、その代償として「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたを多くの民の祖先にさせよう。そしてこの地カナンをあなたとあなたの子孫に永久に与えよう。そしてわたしは彼らの神となるであろう」と。ここに神との契約が結ばれた。「カナン」は「神との契約の地」となった。そしてここに住み着いたアブラハムとその一族は、カナン各地の先住の勢力と戦いながら支配地域を拡大していった。カナンの住人は新しくやってきた彼らをイブリム(「ヘブライ人」、川の向こうから来た人たち)と呼んだ。このカナンの地は「乳と蜜の流れる地」と聖書に記されている地、今のイスラエルを含む地中海の東の辺りのかなり広い地域を指すという。

 

アブラハムの二人の息子、兄はイシュマエル、弟はイサク

カナンに住み着いたアブラハムと妻サラは共に既に高齢であった。二人の間にまだ子がなかった。アブラハムはサラの女召使エジプト人のハガルとの間に息子イシュマエルをもうけた。アブラハムの子を産み権力を得たハガルはサラを軽んじ始める。

ハガルとサラの二人が対立を深める中、妻のサラは待望の息子イサクを生んだ。アブラハム一〇〇歳、サラ九〇歳だったという。

 

アブラハムはハガルとイシュマエルを追放する

自分の子を持った妻サラはハガルとイシュマエルに辛くあたる。サラは夫アブラハムにハガルとイシュマエルを追い出すように懇願する。アブラハムにとってはイシュマエルも我が子である。思い悩むアブラハムにまた神の声がした。「サラの言うことを聞くがよい。あなたの子孫はイサクによって伝えられるが、イシュマエルもまた一つの民の父となる。あなたの子であるからだ」と。アブラハムは神の声に従い、神の救いを信じハガルとイシュマエルを荒れ野に追放した。

 

アブラハムとイシュマエルは「アラブの民の祖」

ハガルとイシュマエルの二人は荒れ野をさまよったが神は見守り続けた。イシュマエルは成長し「弓を射る者」となる。母と出身を同じくするエジプト人と結婚し子孫を増やしていった。イシュマエルの子孫たちは、イシュマエル、その父アブラハムを「アラブの民の祖」であるとしている。また、ムハンマドの祖先でも

 

神はアブラハムにイサクを生贄として捧げるよう命じる

アブラハムは兄イシュマエルを追放した後、弟のイサクを愛しむ。ある日、神はアブラハムの信仰心を試すため、イサクを生贄として捧げるよう命じる。信仰心の強いアブラハムは神の命に従う。アブラハムがイサクを縛って焼く薪に乗せ生贄にしようとしたその時、アブラハムの揺るぎない信仰心を確認した神は、「その子に手をかけてはいけない。あなたが神を畏れる者だということは良くわかった」とイサクの生贄を止めさせた。そして「大いにお前を祝福し、お前の子孫を天の星にごとく、浜辺の砂のごとく増やし、そして地上のすべての民を祝福しよう」と告げられたという。後に、兄イシュマエルの系統がアラブの民(アラブ人)と呼ばれるようになっていくのに対し、イサクの系統がユダヤの民(ユダヤ人)と呼ばれるようになっていく。

 

アブラハムの死

時代は前一八〇〇年を過ぎていた。アブラハムは一七五歳という高齢で息を引きとり、先に逝ったサラが埋葬されているマクペラの洞穴に葬られた。マクペラの洞穴は今のヘブロンにある。

 

イサクの双子の息子、兄のエサウと弟のヤコブ

イサクは父アブラハムの弟筋にあたる親族の娘リベカと結婚した。四〇歳の時だという。なかなか子供に恵まれなかったが双子の息子をもうける。兄がエサウ、弟がヤコブである。兄弟は見た目も性格も正反対であった。兄のエサウは赤く毛むくじゃらで生まれ成長すると狩猟を主にする野の人となり、一方弟のヤコブは穏やかでいつも天幕や家族の近くにいることを好んだ。

 

ヤコブは神より「イスラエル」と呼ばれる

ヤコブはある日不思議な体験をする。正体不明の見知らぬ者と格闘になる。ヤコブは夜通し体力限界まで闘った。相手は天使であった。神はヤコブに祝福を与える。「もうよい。あなたは神と闘って勝ったのだからこれからはイスラエル(神の戦士)と呼ばれる」と告げた。ヤコブイスラエルと呼ばれることになった。

 

ヤコブイスラエル)の一二人の息子と一人の娘

ヤコブの妻にレアとラケルの二人がいる。二人は共に伯父ラバンの娘であり姉がレア、妹がラケルである。

レアとの間に、ルべン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンの六人の息子と娘ディナをもうけ、ラケルとの間にヨセフ、ベンヤミンの二人の息子をもうけた。またレアの召使いジルバとの間にガド、アシェルの二人の息子をもうけ、ラケルの召使いビルハとの間にダン、ナフタリの二人の息子をもうけた。合わせて一二人の息子と一人の娘に恵まれる。

 

ヤコブの息子ヨセフ、エジプトへ奴隷として売られ、後にエジプトで出世。息子はマナセとエフライム

ヤコブは一二人の息子の中でラケルとの間に生まれた第一一番目の息子ヨセフに格別の愛情を注いだ。ヨセフは嫉妬した兄たちの策略によりエジプトへ奴隷として売られる。ヨセフを買ったのはファラオ(王)の侍従長ポティファルだった。ヨセフはポティファルによく使え、ポティファルもヨセフを信頼し、家の財産管理をまかせるまでになる。ヨセフは容姿端麗、頭脳明晰、そして誠実であった。その上、夢を解き明かすなどの特異な能力を持っていた。夢解きの名人としての噂がファラオの耳に入りファラオの夢を解き明かすなどファラオに気に入れられ出世する。遂には最高官僚(宰相)の権限を持つまでになる。アセナトと結婚してマナセとエフライムの二人の息子をもうける。

 

イスラエル一二支族(部族)

ヤコブの一二人の息子らの時代になると彼らは支族(部族)として分かれていく。後に地域支配となる「イスラエル一二支族」と呼ばれるのは、ルべン、シメオン、ユダ、イサカル,ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、それにヨセフの息子のマナセとエフライム、そして末弟のベンヤミンを加えた一二の支族を指すとされ、レビは司祭職のためここに入らない。

 

アブラハム、イサク、ヤコブは「イスラエルの民の祖」

そこでヤコブの息子らの子孫は、父ヤコブ、その父イサク、またその父アブラハムを「イスラエルの民の祖」であるとしている。

従って、兄のイシュマエルから続く「アラブの民」も、弟のイサクやその息子ヤコブなどから続く「イスラエルの民」も、共に「アブラハム」を自分たちの民の祖であるとしている。言い換えれば「アブラハム」は、アラブの民とイスラエルの民の共通の祖であるとされる。

 

アブラハムの子孫はエジプトに根をおろす

前一六世紀の頃である。エジプトを含む広い地域で大飢饉が襲うが、エジプトはヨセフの事前の飢饉対策で十分な備蓄もあり、深刻な被害に遭わずに済んだ。ヨセフの兄弟たちの住むカナンの地も飢饉の被害は大きく、彼らは食糧を求めてエジプトへやって来る。この時、彼らは奴隷として売られていったヨセフが生きており、エジプトの宰相として活躍しているとは夢にも思っていなかった。ヨセフは当初兄たちに自分がヨセフだということを明かさなかった。父ヤコブも健在で兄たちの誠実さを見届けたヨセフは自分の正体を明かした。兄たちは今までの非を詫びヨセフと和解した。そして父ら一族もエジプトへ呼び寄せた。エジプト王も寛大で、皆を受け入れてくれた。

こうして、ヤコブと兄弟たちは、アブラハム以来住み慣れたカナンの地を去ってエジプトに移り住み、そこに根を下ろした。、

(以上は、旧約聖書の「創世記」にある物語の概略の一部である)

 

(三)モーセ、エジプト脱出と「十戒」、ヨシュアらカナンの地へ

アブラハムの子孫(イスラエルの民)はエジプトで繁栄を続け、新しい土地に広がっていった。

ヨセフや彼の兄弟たちの死後、ヨセフらのことを知らないエジプト王が現れて、一族への圧迫が始まった。

一族は神(ヤハウェ)を崇め信仰心で結ばれていた。多神教のエジプト社会になじめないことなどもあり王と衝突、王の怒りを助長させていった。この王が現れてから一族は数百年にわたり奴隷とされ、ピラミッド建設など土木作業に酷使されていった。

 

モーセの誕生

前一三世紀頃であるという。エジプト王ラムセス二世の時代であった。厳しい労役に耐えながら一族の人口はますます増えていった。王(ファラオ)は一族がさらに増え、自分の地位が脅かされることを恐れ、出生の男子を全て殺せと命ずる。

その頃である。ヤコブの第三子レビの系統(祭祀を司る一族)に一人の男の子が生まれた。母親は子を殺すに忍びず生後三カ月までは何とか隠して育てたがそれも難しくなり、母親は息子ををパピルスで作られたゆり籠に入れ、ナイル川の岸辺の葦の茂みの中に置いた。だが幸いにもエジプト王の娘に拾われ、モーセと名付けられて王女の息子として最高の教育も与えられ大切に育てられた。

 

成長したモーセ

モーセは王宮で何不自由なく育ったが成長して自分の出生の秘密を知った。同胞が虐げられているのを見る度に心が痛んだ。そしてある日のこと、強制労働の現場でユダヤ人が激しくムチ打たれるのを目にしたモーセは、怒りで我を忘れて遂にそのエジプト人監督を殺してしまった。王道にいたモーセは反逆者として追われシナイ半島の南東部の荒野ミデヤンに逃れた。そこで祭司の娘と結婚し羊飼いとして暮らす。ある日、モーセはホレプ山(シナイ山)で木の燃えるのを目にし、神の声を聞いた。「エジプトで苦役に喘いでいる一族の民を救い出し、カナンの地につれ戻せ」と。モーセがエジプトを離れてから既に長い年月が経っている。モーセは迷った。躊躇するモーセに神はさらに決断を迫リ、奇跡を起こす杖を授けた。それでもモーセは何度も神に断りを入れた。だが遂に神の命に従うことに意を決した。エジプトに戻ったモーセは、雄弁な兄アーロンとともに王(代替りした新王)にユダヤの民を解放するよう直談判する。しかし、王は全く無視し聞こうとしない。そこで神はモーセを通じて、王が承認するまで一〇の奇蹟、例えば疫病の流行、イナゴの大群の襲来、「過ぎ越し事件」などを起こさせ、エジプト人が恐れを感じる災いを生じさせる。これらの災いに遂に折れた王はモーセらにエジプトから出ることを許す。王が許さざるを得なくなったのは一〇の奇蹟の中でも一〇番目の「過ぎ越し事件」が最も効いたという。これは一夜にしてエジプト中の長子を殺すというものであるが、その際、ユダヤ人は自分たちの家には印を付けて、裁きを執行する天使にここは「(災いを避けて)パスオーバー(通り過ぎ)する家」とさせたという。現在行われているユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」は、このことを基にしているという。

 

モーセのエジプト脱出

エジプトから出ることを許されたモーセは、大勢の集団(成人男子だけでも約六〇万人という)を引き連れて彼らの故郷「カナン」の地に向けてエジプトを脱出した。「エクソダス」という。しかし、王は意を翻しモーセたちの追撃を命じた。追い詰められたモーセたちの前は葦の海、後ろは追撃軍、万事休すかと思われたこの時、モーセが手を海に向かって差し伸べて祈ると海は突然二つに割れ、人が通る事が出来る乾いた地面が出現した。奇跡が起きたのだ。一行が渡り切った直後にエジプト軍が追撃しようとすると、海はたちまち閉じ追撃兵は溺死、エジプトの追撃を逃れた一行はシナイ半島に渡り無事エジプトを脱出することができた。

 

モーセは神より「十戒」を授かる

シナイ半島でのモーセは不思議な体験をする。ある時、モーセは神の声に導かれシナイ山に昇る。山頂で神から二枚の石板に刻まれた、神と人との関係や人と人とに関する「一〇の戒律」が示された「十戒」を授かる。

  1. 神は一つである。二、偶像を崇拝してはならない。三、神の名をみだりに唱えてはならない。四、安息日を守れ。五、父母を敬愛せよ。六、人を殺すな。七、姦淫するな。八、盗むな。九、偽証するな。一〇、貪欲になるな。」の一〇の決まりである。これを守ることで神との契約が結ばれると示された。「モーセ十戒」と呼ばれる。これを基本として細部にわたる「モーセの律法」も示され、これを更に拡大増補して「ユダヤ教の立法」となっていく。

エジプトを脱出しシナイ半島に渡った一行も、シナイ半島での生活は苦しく団結も乱れかけていった。「エジプトでの生活の方が良かった、エジプトへ帰ろう」とする者も現れて混乱が生じてくる。神は怒り彼らに試練を与えた。約四〇年間、一行はシナイ半島の荒野を放浪することになる。しかし試練を乗り越えた彼らは神の力を再認識し、モーセへの信頼感を強めていった。

 

モーセはカナンを目前にして死去、後継者ヨシュアらがカナンに入る

長い間シナイ半島の荒野を放浪している一行は安易にカナンに入れなかった。この間に、エジプト脱出当時成人であったの者の多くは亡くなり、二世、三世時代となっていく。荒野と砂漠での厳しい生活はさらに彼らを鍛え上げ、団結させ、神への信仰を高めさせていった。

モーセらがシナイ半島で厳しい生活をしていた間にエジプトの国力はかなり弱体化していった。それまで属州としていたカナン地方の支配権を失うほどになった。この状勢にモーセらは、神との契約の地であり故郷でもあるカナンの地に定着を図る好機だと判断しカナンへ向かって出発した。途中地着きの民とも戦いながら苦労してヨルダン川の東、モアブの地まで来たが、川の西には既に地中海の方から来たペリシテ人らが住み着いており容易に川を渡りカナンの地に入れない。一二〇歳にもなっていたモーセは死を前にし、民に四〇年にわたる旅を顧み神への忠実を説く。モーセは副司令官で後継者ヌンの子ヨシュアを後継者に任命、約束の地カナンに入る決心をする。だがモーセはカナンを目前にして死亡し、カナンへの帰還はならなかった。

モーセの死後、一行は神の加護を受け、ヨシュアを中心に団結し、ヨルダン川を渡りカナンに入った。ヨシュアらは、同一民族として協力して勢力を高め、苦労の末に先住者を駆逐し約束の地カナンの地を占領していった。カナンの南方海岸地方を支配していたペリシテ人は難敵であったが彼らも破った。

ヨシュアはこの地を分割しイスラエルの一二支族に分配していく。彼らはこの地に根を下ろし、住み続けることになる。(以上は、旧約聖書の「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」を経て「ヨシュア記」にある物語の概略の一部である。モーセについてはアメリカ映画に「十戒」がある)

 

)士師の時代から王国の時代へ(第一神殿)

ヨシュアの死後「士師」と呼ばれる人々が指導的役割を果たすようになった。士師らはカリスマ的な指導者で、彼らのリードで次第に王国らしき体制が整っていった。サムエルが宗教的指導者、サウルが軍事的指導者として更に王国的体制を固めるようになっていった。

 

サウル(在位前一〇二〇頃~前一〇〇四頃)がカナンの地に「王国」的体制をつくる

前一〇〇〇年頃、今から三〇〇〇年以上前のことである。

サウル(ヤコブの一二人の息子のうちの末弟「ベンヤミン」の系列にある)は三十歳の若者であったが指導力を発揮し、一族の支持を得てカナンの地に「王国」的体制を初めてつくった。だが次第に独断的支配をするようになり、支配力を落としていく。

 

ダビデ(在位前一〇〇四頃~前九六五頃)がイスラエルを統一して初めての「王国」を樹立

サウルの次にダビデヤコブの一二人の息子のうちの一人「ユダ」の系列にある)が最大の敵ペリシテ人ゴリアテを倒すなどして頭角を現す。ダビデは武勇面に優れるとともに人望もあった。サウル王の人気を上回ようになると王の反感を買い、命まで狙われるようになるとダビデは南の方に逃れ時期を待った。

サウル王の死後北上し、先住のペリシテ人らを撃破。ダビデ体制を拡張強化して「エルサレムを首都」とし、この地方を統一して初めての「王国」を樹立した。王権と王制組織を確立し勢力圏を拡大、王国の安定と繁栄を築いた。ダビデは「イスラエル最初の王」とも呼ばれている。

 

ソロモン(在位前九六五頃~前九二六頃)が「神殿」(第一神殿)を造る

ダビデ王の次に息子の一人ソロモンが王となった。ソロモンはイスラエルの一二に分かれている地方を統括し、各支族長にそこの責任者として治めさせる。そしてエルサレムのモリヤの丘に壮大な「神殿」を造った。完成は前九五三年であったという。後に「第一神殿」「ソロモン神殿」と呼ばれる神殿である。ここにあの「十戒」の石板を収めた「聖櫃(契約の箱、アーク)」を安置し、ユダヤ民族の信仰の中心となるものとした。

優れた知識人であり詩人でもあったソロモンは、また諸外国渡航易や建築造営などにも力を傾注し、イスラエルはかってない栄華を誇るようになる。しかし、国が繁栄する一方住民には負担が増加、王が自分の出身のユダ族などを中心に優遇政策を行っていたこともあり、各支族間に不満や不信が拡大していった。

 

ソロモンの死後イスラエル王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂

ソロモン王が死ぬと息子のレハブアムが王位を継いだが支族間の不満がより顕著になり、王国は分裂の危機を迎えた。

前九二八年、王国は崩れ北の一〇支族と南の二支族の二つのエリアに分かれた。この二つの王国は不信不仲を通り越し激しく対立するまでになってしまった。こうしてダビデ、ソロモンの王国はわずか七〇年ほどで終わった。

北の一〇支族がヤロブアム王のもとでサマリアを首都として「イスラエル王国」の名を継承していった。一方、南の二支族はレハブアム王に従い、エルサレムを首都とする「ユダ王国」になった。このユダ王国の系統がユダヤの主流になっていく。

 

北のイスラエル王国アッシリアに滅ぼされる

北のイスラエル王国は悲劇の王国であった。

前七二二年、国内外とも不安定になっていったイスラエル王国は、アッシリアサルゴン二世の攻撃を受け王国は滅亡した。独立して二〇〇年ほど後のことであった。この敗れた一〇支族は奴隷としてアッシリアに強制連行され、それ以降消息不明で歴史の舞台から消えてしまった。今では「失われた一〇支族」と言われ、その子孫が世界のどこかで暮らしているのではないかと考えられ、様々な伝説や伝承が生まれることとなった。

 

南のユダ王国新バビロニアに征服され属国に、バビロンへ連行される者も出る

一方、南のユダ王国アッシリアに攻められるが独立を保ち、アッシリアの属国として生き残っていった。

前六一二年、ところがそのアッシリアは勢力を伸ばしてきた新バビロニアの攻撃を受け滅亡した。

前五九七年、その新バビロニアの二代目王ネブカドネザルユダ王国を攻撃しユダ王国新バビロニアの属国となった。住民の中には新バビロニアに連行された者も多くいた。

 

(五)バビロン捕囚時代からユダヤ教の誕生時代へ(第二神殿)

ユダ王国滅亡し、古代イスラエル王国に幕

前五八六年、ユダ王国はまた新バビロニアの攻撃を受け、首都エルサレムは徹底的に破壊され廃墟と化して陥落。あのソロモンが造った神殿は破壊された。「第一神殿の破壊」「ソロモン神殿の破壊」と呼ばれる。ここにユダ王国は滅亡し、五〇〇年近く続いた古代イスラエルの「王国」の歴史は幕を降ろした。

 

ユダ王国の民はバビロンへ連行される、「バビロンの捕囚」

新バビロニアに敗れたユダ王国の支配層ら多数の民は新バビロニアの首都バビロンへ連行される。「バビロンの捕囚」と呼ばれる。連行前五八二年にもあり、捕囚による連行は前後三回行われたという。

 

「バビロンの捕囚」時代(前五八六~前五三八)でのユダの民の生活と発展

ユダの民はバビロンへ連行されてからも強かった。ある程度の外出や職業の選択も出来たことなども幸いし、互いに連携団結することができた。生活は比較的自由を許され、エルサレムへの想いを胸に神を崇め、信仰を深めることができた。囚われの中でもエルサレムを忘れることはなかった。彼らはエルサレムを思って歌った。「われらは バビロンの川のほとりにすわり シオンを思いつつ涙を流した」(旧約聖書詩篇第一三七編の一部)」という。「シオン」とは神殿のあった丘の南側に向かい合った丘のことを指しており、ここから神殿の丘がよく見え、「シオン」はエルサレムを象徴していた。

こうした捕囚の中で、従来からの神殿礼拝を中心とした信仰の形態は、新しい信仰形態へと変わっていった。

長老や知識人らを中心とした集会で律法(トーラー)の言葉を学び、祈り、礼拝するというような今のシナゴーグの原型ともいえるようなものが生まれていった。また、安息日、割礼、食べ物の規制など日常の生活習慣も次第に定着するようになっていった。

 

ユダヤ人」、「ユダヤ教」の誕生

捕囚の民の大部分は、ユダ王国のユダ部族であったため、捕囚後は「ユダの民」つまり「ユダヤ人」と呼ばれるようになり、彼らが信仰する神への崇めと生活が「ユダヤ教」の基礎となっていく。彼らはエルサレムへの想いを忘れず、神を崇め団結して生活しユダヤ教の成立に強い影響を与えていく。旧約聖書が編纂され始めたのもこの頃であるといわれる。

そこで現在ではバビロン捕囚前の宗教を「古代イスラム教」または「ヤハウェ宗教」とし、捕囚以降の律法を中心にした宗教を「ユダヤ教」と言うこととし区別していくようになる。そして、この教えを守っていく人々を「ユダヤ人」というようになる。

 

ユダの民を捕囚した新バビロニアペルシャに滅ぼされる

前五三九年、彼らを支配下に治めていた新バビロニアは、東のアケメネス朝ペルシャのキュロス二世の攻撃を受けバビロンが陥落し滅亡した。バビロン捕囚から約五〇年後のことであった。

 

ユダの民、バビロン捕囚からエルサレムへの帰還を許される

前五三八年、ユダの民に寛大であったペルシャのキュロス二世は勅令を発布しバビロン捕囚を解除、彼らのエルサレムへの帰還を許可した。最初の捕囚から半世紀も経っており、実際に帰還した者は三割程度で、自由意思でバビロンに留まった者も多くいたという。

 

エルサレムの復興、第二神殿の建設

エルサレムへ帰還したユダヤ人らは廃墟と化したかってのユダ王国の地の再興に真剣に取り組み始めた。彼らの最大の望みはまず「神殿の再建」であった。

前五二〇年、神殿の本格的再建に取りかかった。

前五一五年、神殿再建工事は途中何度も困難に直面したが神への信仰を絆に協力して努力した。先のソロモン神殿よりも規模は小さいが新しい神殿を完成させた。ソロモン神殿を第一神殿というのに対し「第二神殿」と呼ぶ。

ユダヤ人たちは、南北両王国の滅亡とバビロンの捕囚という国家的苦難を強いられながらその中で、神との契約や罪といった神学的な観念を核に協力し団結して、信仰共同体を再興する動きを強めていった。結果として「バビロンの捕囚」は、彼らユダヤ人の「成長」と「発展」に大きく影響を与えたといえる。

 

ユダヤ教時代の出発点

第二神殿の建設は、エルサレム新時代の発端になった。捕囚の民が育ててきたユダヤ人としての信仰共同体が確立され、シナゴーグの原型ができていった。神殿は離散していたユダヤ人たちを神の信仰によって結びつける拠点となり、ユダヤ教徒と呼ぶ信仰・民族集団の出発点となっていく。

 

(六)ヘレニズム時代を経てローマの支配時代へ

アレキサンダー大王の東征、へレニズム時代

前四世紀、ギリシャマケドニアアレキサンダー大王(前三五六~前三二三)が現れる。ギリシャ全土を制圧したマケドニア王フィリッポス二世の子で、アレクサンドロス三世ともいわれる。アリストテレスを家庭教師として育ち、一九歳で王位を継いだ。

前三三四年から死ぬまでのわずか一一年間で、ギリシャアナトリア半島小アジア、シリア、フェニキア、エジプトへと軍を進めペルシャ、さらにインドのパンジャブ地方へと大遠征し大帝国を建設する。

前三三二年、エルサレム地方はアレキサンダー大王に制圧される。アレキサンダー大王はアレキサンドリアを建設しヘレニズム文化の中心としていく。広大な地域がヘレニズム国家の支配下に入っていった。

 

アレキサンダー大王死後の大帝国の分裂とパレスチナの支配

前三二三年、三二歳の若さでアレキサンダー大王が死ぬと、大帝国は複数に分裂してしまう。アンディゴノス朝のマケドニアは主にギリシャ地方を、セレコウス朝のシリアはトルコあたりからペルシャの東までの北の地方を、そしてプトレマイオス朝のエジプトはエルサレムを含む南の地方をそれぞれ支配していった。

前三〇一年、パレスチナ地方はプトレマイオス一世(前三六七~前二八三)のエジプトに併合される。しかし、プトレマイオスユダヤ人に対し寛大な政策をとっていく。

前一九八年、パレスチナ地方はプトレマイオス軍を撃破したセレコウス朝のシリアの支配下に入った。セレコウスはプトレマイオスとは逆にユダヤ人を弾圧する政策をとっていく。

 

マカバイ戦争」、エルサレムユダヤ人の手に奪還、ユダヤ人による最後の独立国家ハスモン朝

前一六七年、ユダ・マカバイ主導のハスモン家を中心に勢力を固めたユダヤ勢力は、セレコウス朝のシリアに反抗、独立を図るようになる。

前一四三年、マカバイはセレコウスを破りユダヤ人による独立王国ハスモン朝を起こす。「マカバイ戦争

といわれ、前五八六年にユダ王国滅亡以来実に四五〇年余ぶりにユダヤ人による独立国家が回復した。

 

エルサレム、ローマのシリア属州の一部となりローマの支配下

ユダヤ人による独立国家が回復した頃、ローマ勢力はカエサル将軍を先頭に強力な国政を張り、東部、南部へと支配地域を次々と拡大していく。クレオパトラアントニウスらが活躍する時代になった。そのような中でユダヤ人たちも安穏ではなった。ハスモン家内部に混乱が起きるようになると、ローマ軍の侵攻を受け状勢は混沌としてくる。

前六三年、エルサレムポンペイウス活躍のローマの支配下にはいった。ある程度自治を認められながらローマのシリア属州の一部になる。ここで前一四三年マカバイ戦争で手にしたユダヤ人による独立国は幕を閉じた。

 

エルサレムヘロデ王支配下に、第神殿の大改築(ヘロデ神殿

前三七年、遂にハスモン朝滅亡した。ローマは占領地対策として属州となった地域にはローマの息のかかった現地の支配者を置く政策をとっていく。このユダヤ人の地も例外ではなかった。エルサレム地域も現地の有力者ヘロデの支配下となっていった。ヘロデはユダヤ人ではなく死海の西に位置するイドマヤの出身であったが、ローマの権力者にうまく取り入り元老院に認められてヘロデ王(在位前三七~前四)としてこの地を統治していく。猜疑心が強く人の殺害も平気で行う非道の王としても知られる。

前二〇年、ヘロデは残忍な暴君と知られる一方、市街地の整備や建築方面にも力を注ぎ、第二神殿の大改築に着手、ソロモンの神殿を超える規模の大改築を進めた。神殿の完成は彼の死後になったが「ヘロデ神殿」として知られる。彼はまたマサダ砦の改築やマクベラの洞窟の整備なども行った。

ヘロデ王の晩年の前六年頃、イエスベツレヘムで生まれる。

 

ヘロデ王の死後、エルサレムは再び独立を目指し反ローマの動きが出る

前四年、ヘロデ王が死去すると、後継者たちはローマの属州からの独立を目指す動きに激しさを増してきた。

一つの神を崇める彼らは多神教のローマの教義とは相入れず、ますます反ローマへの団結を強め対抗し始める。

 

(七)ユダヤ戦争、エルサレム陥落

ローマ軍によりエルサレム陥落、第二神殿焼失、ユダヤ人の国は滅亡、エルサレムはローマの支配下

ユダヤ人らは反ローマ姿勢を強化、ローマ側はこれに対抗して制圧にかかる。

西暦六六年(以下西暦の年号を表す場合、「西暦」は省略する)、ローマはこのユダヤの反ローマの動きに反撃、総勢八万人の大部隊をエルサレムに向かわせる。エルサレムは孤立するが激しく対抗。しかし多勢に無勢、建物などには火を放たれ炎上した。

七〇年、エルサレムは陥落、ローマの支配下になった。ユダヤ人の大反乱のこの戦いは第一次ユダヤ戦争(六六~七〇年)と呼ばれている。このローマ軍の攻撃でエルサレムの大部分とヘロデによって大改築された第二神殿も焼失した。ここにユダヤ人は国を失い、六〇〇年近く続いた第二神殿時代は終わった。ユダヤ人の生存者の多くはガリラヤ地方に逃れてまとまり、シナゴーグがつくられていった。

 

二神殿の西壁嘆きの壁」と「神殿の丘」

七〇年に焼失したこの第二神殿の西壁の一部が今も残っており、ユダヤ人はこの壁に向かって祖国喪失を嘆いたことからここが「嘆きの壁」と呼ばれ、祈りの場になっている。そしてこの東側の丘を「神殿の丘」と呼んで聖地としている。

 

)ローマ支配下ユダヤの反乱、ローマの圧政にユダヤ人離散

ローマの支配下となった紀元一世紀は、「激動の世紀」となった。ローマの圧政にユダヤ人らの不満はますます高まり反ローマ、対ローマ独立運動へとエスカレートしていく。

 

マサダの要塞陥落、第一次ユダヤ戦争

七〇年にエルサレムは陥落し祖国を失ったが、ユダヤ人の一部の者は反抗を諦めなかった。

七四年、強硬派は死海の西岸に近い峡谷から聳え立つマサダの要塞に立てこもり、あくまでも抵抗した。しかし、支配者ローマの勢力が相手であり、しかも兵糧攻めにあっては如何ともし難く全滅。さしものマサダの要塞も陥落してしまった。この時、ユダヤ人九六〇人が集団自決を遂げたという。

 

パル・コクバの乱ローマ側の再攻勢にエルサレム陥落、第二次ユダヤ戦争

その後も反ローマ感情と独立願望は高まるばかりであった。

一三二年、パル・コクバが先頭に立ち反乱を起こし成功、二年半ほどであったが、エルサレムの大公として統治できた。しかし長く続かなかった。

一三五年、ローマ軍は大軍を投入し攻撃に出た。コクバは敢然として立ち向かうがかなわずエルサレムは陥落、コクバは戦死、死者と廃墟だけが残った。「パル・コクバの乱(一三二~一三五)」であり第二次ユダヤ戦争とも呼ばれる。ユダヤ最後のローマへの抵抗運動はここに終わった。

 

ローマの圧政にユダヤ人の離散(ディアスポラ)始まる

ユダヤ戦争で敗れた多くのユダヤ人らがローマに連行された。またこの戦争を境にユダヤ人たちは、ローマへの反感を抱きながら、やむなくこの地を離れ世界中に離散していった。ユダヤ人の「離散(ディアスポラ)」である。これから一八〇〇年余後の一九四八年「イスラエル建国」まで、ユダヤ人たちの多くはヨーロッパを始め世界中に散っていくことになる。前六世紀のバビロンの捕囚に次ぐ第二の離散(ディアスポラ)とも呼ばれる。

離散していったユダヤ人らは、迫害を受けながらも住みついた地において彼らの神を崇め、多神教ギリシャ人やローマ人などとは交わらず、ユダヤ人同士でまとまって生活するようになる。「ユダヤ教」がこうして固まっていった。

 

(九)ローマ支配下の「パレスチナ」、「エルサレム

「パル・コクバの乱」など大きな反乱を経て、ユダヤ人の統治に苦慮してきたローマ皇帝ハドリアヌスはこの地方から徹底的にユダヤ色を一掃する動きにでる。

まず、支配しているローマ属州を廃しローマ帝国のシリア州の一部に編入し、「シリア・パレスチナ」に改名するとともに、この地方の呼び名もユダヤの仇敵で忌み嫌った「ペリシテ民族」の名にちなんで「ペリシテ人の地」の意から「パレスチナ」と呼ぶことに変更した。この地がパレスチナと呼ばれるようになったのはこれ以降である

また、ハドリアヌス皇帝は、エルサレムの町もローマ植民市「アエリア・カピトリーナ」に変更し、ローマ風の建築物を建て、ユダヤ人の立ち入りを禁止するなど徹底的にローマ化した。ローマのユダヤ人への圧迫は続き、このようなローマ帝国の方策に、ユダヤ人の心の中でのローマへの反目は消え難いものとなっていった。

(以上、士師時代以降は師旧約聖書にある「士師記」、「ルツ記」、「サムエル記」を経て「列王記」に至る歴史書の概要の一部である)

ここまでエルサレムユダヤ人について語り継がれていることの概略であり、ユダヤ民族史の一端を見てきた。

 

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第二章  イエス・キリストとキリスト教

)イエスの誕生とキリスト教

新約聖書からイエス・キリストキリスト教について少し触れてみる。

ヘロデ王の晩年、前四年頃、ガリラヤ地方のナザレの町である。ダビデの血を引く大工のヨセフはマリアと婚約し結婚を控えていた。そんなある日、マリヤの元に大天使ガブリエルが現れ、「「あなたは神から恵みを受け身ごもり、男の子を生みます」と告げた。そしてこれは「精霊のなせる業」で、生まれてくる子は後の「神の子」と呼ばれると告げた。ヨセフとマリアは結婚し、ヨセフの故郷ベツレヘムへ向かう。だがあいにく宿屋は全て満員で、ようやく見つけた一軒の馬小屋でマリアは無事男の子を生んだ。名前を「イエス」という。「ユダヤの王となる子」だとの噂を聞いたヘロデ王は、自分の地位が脅かされることになると思い、ベツレヘムの二歳以下の男の子を全員殺せと命令を下す。イエスの両親は、天使のお告げを聞き、イエスを連れてエジプトへ避難する。彼らがナザレに戻ったのはヘロデ王の死後であった。「キリスト」はギリシャ語で救世主。「イエス・キリスト」は救世主イエスであり、「キリスト教」は救世主イエスの教えを信ずる宗教である。

エスは当初ユダヤ教徒であった。イエスユダヤ教を否定したのではなく、神の前では全ての人間は平等であり、、ユダヤ人だけが救われると考えるのは間違いだ。もっと神を信じ、もっと神の愛を信じるようにと説いた。ユダヤ教否定の上にキリスト教を起こしたのではなく、自分が正しいと信じている基本にかえった、より愛に満ちたユダヤ教を説いていった。ユダヤ教の改革運動であった。

 

(二)イエス磔刑ユダヤ教徒

エスの教えに反発するユダヤ教徒らは「イエスは偽のメシアだ」「神を冒涜した」としてイエスを逮捕、この地域の支配者であったローマ帝国の総督ピラトに引き渡した。ピラトはイエスへの対処に消極的であった。「あの人がどんな悪い事をしたというのか」。しかし、多数のユダヤ人群衆は「イエスを十字架にかけよ」と叫び続け大騒ぎをした。ピラトは手の下しようがなく、そうなれば彼らの子孫に影響が出ると言ったが群衆は承知しない。ユダヤ人群衆は「その血の責任は自分たちや子孫の上に降りかかってもいい」と答えた。イエスを殺した報いが我々の子孫に降りかかってもいいという。ピラトは遂にイエスをローマに対する反逆罪だとして法廷で死刑を言い渡し、イエスゴルゴタの丘で十字架への磔により処刑されて三〇数年の生涯を終えた。

こうしてキリスト教徒からすると「イエス磔刑に処し、死に至らしめた責任は、ユダヤ人にある」「イエスの死のもとはユダヤ人にある」とされたことから、キリスト教反ユダヤ主義が始まっていく。

 

(三)キリスト教の布教

その後、イエスの教えは「イエスは神からこの世に使わされた神の子である」と信ずる弟子たちにより、各地に広められていった。

特にその弟子の中の一人パウロは、ユダヤ人以外の異邦人に布教するのを使命と考え、トルコ、ギリシャ、ローマなどへ布教活動を続けた。

 

(四)コンスタンティヌス帝、「キリスト教」を公認

キリスト教は、当初ローマ帝国によって弾圧されていたが、布教活動が広まるにつれ次第にローマ帝国内に浸透していった。

三一三年、ローマのコンスタンティヌス皇帝はミラノ勅令によりキリスト教を公認し、コンスタンチノープル(現在のイスタンプール)を首都とした。パレスチナキリスト教化され、エルサレムの旧名が復活した。

 

(五)聖墳墓教会の建設

コンスタンティヌス皇帝はキリスト教を公認したほか、エルサレムのインフラ整備も進めた。

三二五年頃、皇帝はイエス・キリストが十字架に架けられ絶命したとされるゴルゴタの丘に「聖墳墓教会」の建設を命じた。皇帝の母ヘレナ后がエルサレムに巡礼した際キリストの足跡をたどり、ゴルゴタの丘磔刑に使われた十字架と聖釘などを発見し、ここをキリストの墓と断定したと伝えられ、そこに教会を建設することとしたといわれている。キリスト教徒にとっては聖なる場所となっている。

 

(六)キリスト教、「ローマの国教」に

三九二年、キリスト教はさらに広まりテオドシウス帝のとき、「ローマの国教」となった。

 

ローマ帝国分裂、パレスチナ東ローマ帝国ビザンツ帝国)の支配下

三九五年、ローマ帝国は、東西に分裂し、コンスタンチノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がパレスチナを含む地域も支配していく。東ローマ帝国の時代は一四五三年、オスマン帝国に滅ぼされるまで続いていく。

第三章 ムハンマドとイスラム教、その後継者たち

(一)ムハンマド

五七〇年、ムハンマド(五七〇~六三二)はアラビア半島のメッカ(現在のサウジアラビアの都市)で、ヒジャーズ地方のクライシュ族の名門ハーシム家に生まれた。生まれた時にすでに父は亡くなっており、母も彼が六歳の時死亡した。最初祖父のもとに引き取られたが、祖父の死後叔父のアブー・ターリブに育てられた。

当時アラビアの北地域は東ローマ帝国ササン朝ペルシャが対立していたこともあり、交易ルートは中部のメッカ経由が多く、メッカは恵まれた交易中継地として繁栄していた。このメッカには「カーバ神殿」があり、偶像崇拝の中心地でもあった。

ムハンマドは二五歳の時、メッカの有力商人の未亡人であつたハディージャと結婚し商人として成功、安定した生活を送っていた。

 

(二)ムハンマド、神の啓示を受ける

ムハンマドは四〇歳の頃になると、しばしばメッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけることが多くなった。

六一〇年、ラマダン月のある夜、彼は不思議な体験をする。何者かに羽交い絞めされ「誦め(よめ)」と命じられた。「誦め」とは声に出して読めということであった。読み書きができなかったムハンマドは「読めない」と断ったが声の主はさらに二度、三度と同じように繰り返し命じた。結局、ムハンマドは言われた通りのことを声に出して唱えた。ムハンマドは恐れおののき家に逃げ帰り震えながら妻のハディージャに異常な恐ろしい体験を話した。ムハンマドはその後も同じような体験をする。ハディージャは彼を信じ、励まし支えた。「誦め」と命じ神の声を伝えたのは天使ジブリール(ガブリエル)であった。ムハンマドは神の声を聞きこれを預かる人間、即ち「預言者」だと自覚するようになっていった。唯一絶対の神は、アダムからアブラハムモーセ、イエスなど幾人かの預言者たちに啓示を授けたが世は乱れ、民の独善は直らなかった。そこで神は最後の預言者ムハンマドに啓示を伝えたという。

 

(三)ムハンマド、神の教えを広める

ムハンマド唯一神(アラー)の啓示を基にこの教え(即ち「イスラム教」)を広めようと布教活動を始める。唯一の神を信じ、神から下った啓示を信じるよう活動した。神のことばに沿って信じ正しく生活をしていけば来世は天国に行くことができると説いた。イスラム教の始まりであった。しかし当初はこれを信ずる者は少なくムハンマドは冷笑され疎外された。だが最も彼を信じたのは妻のハディージャであり最初の信者となった。また従弟のアリーもムハンマドの教えに強く引かれていった。

イスラム教は、唯一絶対の神アラーを信仰しこれに従う一神教であり、神が最後の預言者としてのムハンマドを通じて下した「コーラン」を信じこれに従う教えである。コーランは「神の言葉」をそのままアラビア語で記録した文書であり、「声に出して読む」ものとされる。

 

(四)ムハンマドとメッカ、メディナ

六一四年、彼はメッカで布教を始めたがその教えはなかなか受け入れられなかった。

六一九年にハディージャが亡くなり、擁護してくれていた伯父も死亡すると、後ろ盾を失ったムハンマドはさらに苦境に陥る。

六二一年、そうした中で彼はまたもや不思議な体験をする.ある夜、天使と共にメッカから天馬に乗ってエルサレムに行き、そこから天に昇り、アダム、アブラハムを始め何人かの預言者らに会い、神(アラー)の啓示を受けて再び地上に戻って来たという。「ムハンマドの昇天」と呼ばれる。

六二二年、メッカでの仕打ちにムハンマドと信者たちはメッカでの布教を諦め、信者の多くいるメッカの北四〇〇キロメートルほど離れたところにあるヤスリブに脱出し、そこを拠点に活動をするようになった。このヤスリブへの移住をヒジュラ(聖遷)いう。後にこの聖遷がイスラム暦の紀元とされ、イスラム時代の始まりとされた。

ヤスリブの人々は彼らを快く迎え入れ、町の名もマディーナ・アンニナビ(預言者の町)、通称「メディナ」に改めるなど布教の後ろ盾となった。メディナでの布教活動はイスラム共同体「ウンマ」を中心に大きな勢力になっていった。

彼らのアラーを崇め、団結した布教勢力は、メッカの偶像崇拝側に対抗できるほどの勢力になり、メッカと衝突を繰り返すようになっていった。この時ジハード(努力)に一つに神のために戦う「聖戦」が付け加えられたという。

六三〇年、ムハンマドはメッカを征服、カーバ神殿の偶像を破壊した。代わりに聖なる宝として黒石を据えイスラム教の聖堂とした。ムハンマドはメッカ征服後もメディナにとどまり信徒を増やしていった。イスラム教の礼拝の地もエルサレムからメッカに改めた。

六三二年、高齢になっていたムハンマドは最後のメッカ巡礼(ハッジ)を行った。現在の「メッカ巡礼」はムハンマドの行ったこの巡礼に則って行われている。巡礼の後ムハンマドは六二歳で死去した。

メッカはイスラム教の第一の聖地、メディナは第二の聖地とされ、イスラム教勢力は世界中に広まっていった。

 

(五)ムハンマドの後継者たち

ムハンマドは後継者を誰にするかを遺言しないまま死去したため後継者問題が生じる。ムハンマドハディージャとの間に三男四女をもうけたが、男児はすべて夭折し、ムハンマドが死去の頃は末娘のファーティマだけが健在であった。ファーティマはムハンマドを良く支えた従弟のアリーと結婚しており、ムハンマドの子孫は続いていった。ムハンマドに下った啓示を信者たちは書物にまとめていった。これがイスラム教の聖典コーラン」である。

 

(六)正統カリフムハンマドの代理者)の時代

ムハンマドの死後、イスラム共同体は神の使徒ムハンマドの代理者・後継者としての「カリフ」と呼ばれる

指導者、最高権威者たちにより統括されていく。カリフたちイスラム勢力は勇敢で軍事的にも優れ、彼らの活躍によりイスラム教の布教範囲は拡大されていく。

 

初代カリフのアブー・バクルイスラム勢力を拡大

初代カリフにアブー・バクル(在位六三二~六三四)が就いた。バクルはムハンマドの無二の親友であり、ムハンマドより二歳年下で最初の信徒の一人でムハンマドの二番目の妻アーイシャの父でもあった。

六三三年、バクルたちは東ローマ領になっていたシリアに侵攻した。当時東ローマとササン朝ペルシャは互いに反目し戦争をしており共に疲弊していた。そこへやってきた彼らの勢力はシリアに歓迎された。

 

第二代カリフのウマル、エルサレムを攻略し入城、エルサレムイスラム勢力の支配下に戻す

二代目カリフは初代カリフのバクルが死ぬ前に後継として指名していたウマル(在位六三四~六四四)であった。勇敢で戦闘能力にすぐれておりイスラム領土の拡大に大いに貢献した。

六三六年、イスラム勢力はシリアの東ローマ勢力を撃破した。

六三八年、エルサレムはローマ支配の大司教が治めていたが、ウマル勢力がこれを包囲し、大攻撃や破壊に至らずに降伏させエルサレムに入城、イスラム支配下に置くことに成功した。荒れ果てていたエルサレムはローマ支配下からイスラムの勢力下になった。エルサレムの名称も「聖なる土地」を意味する「アル・クドゥス」に変えた。またササン朝ペルシャ軍を撃破したりエジプト地域も勢力下に置くなどイスラム支配地域は西アジア一帯にに広がり広大なアラブ帝国を形成した。ウマルは六四四年にメディナのモスクで礼拝中に暗殺された。

 

第三代カリフのウスマン、「コーラン」を編纂

三代目カリフはウスマン(在位六四四~六五六)である。メッカの豪商ウマイヤ家の出身ウスマンは「コーラン」をムハンマドが神から与えられた「神の言葉」として数人の信者に命じて編纂させた。ウスマンは出身のウマイヤ家を重用したため六五六年敵対者によって暗殺された。

 

第四代カリフのアリー、アリーまでが「正統カリフ

四代目カリフにはハーシム家のアリー(在位六五六~六六一)が就任した。アリーのカリフ就任にムハンマドの秘書の立場にあったウマイヤ家のムアーウィアアーイシャは異を唱え反発した。アリーはムハンマドの従弟にあたり妻はムハンマドの末娘ファーティマである。アリーの父親はムハンマドを育てたアブー・ターリブである。四代のアリーまでが「正統カリフ」の時代(六三二~六六一)と呼ばれる。

 

(七)イスラム教は「シーア派」と「スンニ派」などに分裂

ウマイヤ家のムアーウィア

第三代カリフのウマイヤ家のウスマンが殺害された後、その家長の地位をムアーウィアが継いだ。アリーが第四代カリフに選出されたことにウマイヤ家は反発し、アリーとムアーウィアとの争いが起きた。

六六一年、アリーは争いの中でムアーウィア側により暗殺された。アリーには妻ファーティマとの間にハサンとフサインの二人の息子がいた。アリーが暗殺されるとその支持者たちはアリーの後継に長男ハサンに望みを託した。しかしハサンは無意味な争いが続くことを避け、その座をすぐに手放しウマイヤ家のムアーウィアに譲ってしまった。ムアーウィアは「ウマイヤ朝」を開き第五代カリフへ就任した。

 

「カルバラーの悲劇」、アリーの血を引く派がウマイヤ朝側に大敗

ムアーウィアの五代目カリフへの就任に反発する動きが起きてくる。ムアーウィアが没し息子がカリフを継承するとアリー側は反ウマイヤ家の行動にでた。

六八〇年一〇月一〇日、ウマイヤ朝側の流れに反対していたアリー派の一部は、アリーの次男フサインを立ててアリーの血統の再興を図り、ウマイヤ朝側と争いになった。しかし、少人数で劣勢であったアリー派はウマイヤ朝側に全く歯が立たず大敗した。この争いにフサインは惨殺され、一族は皆殺しにされた。土地の名から「カルバラーの悲劇」と呼ばれる。(なお、カルバラーはイラクの首都バグダッドの南方九〇キロほどのところにあり、現在ではフサイン殉教の地としてシーア派の最大の聖地となっている。シーア派の信徒にとってはこの一〇月一〇日はフサインの殉教の日(アシュラー)として追悼祭を行うなど特別な日となっている。)

 

シーア派の成立

シーア派の成立にあたり次のような説明がなされているという。フサインが存命中にイランの王女が戦争により捕虜になって来ており、フサインとの間に子供が生まれていたといわれ、アリーの血を引く派は亡びることなく続いていったという。こうしてアリーの血は繫がっていき、アリーの側にあったシーア・アリー(アリーの党、シーアは党の意)の人びとは血統を重視して、「我々はムハンマドの血を引き、しかもイラン王室の血も受けている正当な後継者だ」「アリーアリー血を引く者こそが正当なムハンマドの後継者だ」と主張した。そしてアリーを初代イマーム(最高指導者)とし、アリーの長男ハサンを二代目イマーム、次男フサインを三代目イマームとする血統を重視するイマーム制を敷き、ウマイヤ朝とは別の派が出来ていった。四代目以降一二代までのイマームフサインとイラン王女の子孫とされていく。この派がやがてシーア・アリーのアリーの部分が省略されて単に「シーア派」と呼ばれるようになる。(なお、第一二代イマームは若くして姿を消したため、信者たちは「お隠れになったのでありこの世の終末に再臨される。それまでは教えを極めた法学者が最高指導者となり導いていく」としている)

 

シーア派イスラム教信者の少数派

アリーとアリーの子孫のみをムハンマドの後継者と認めるシーア派は、現在ではイスラム教信者の一五%ほどで少数派である。イランの国民のほとんどはシーア派である。

 

スンニ派

シーア派に対してスンニ派と呼ばれる派が生まれてきた。

六六一年、ウマイヤ朝を開き五代目カリフとなったムアーウィアは、都をシリアのダマスカスに置きカリフの座を世襲制としていった。彼らはシーア派が重視する血筋とは関係なく、ムハンマドからの「慣習(スンニまたはスンナ)」に従っていくべきであるとし、基本的にはコーランに記されていることと、生前のムハンマドの生活や行動を記録し彼の言行を記した伝承「ハディース」を規準にし、代々伝えられてきた伝統や習慣を守るべきであり、正統派だと主張する。「スンニ派」と呼ばれる。現在ではスンニ派サウジアラビアを始め世界各地に広がり、イスラム教信者の八五%ほどを占める多数派となっている。

 

(八)ウマイヤ朝(六六一~七五〇)の時代、イスラム世界の拡大

ムアーウィアから続くウマイヤ朝正統カリフ時代に続いて領土の拡大を図っていった。カリフの部隊は、東はサマルカンドからインダス川流域あたり、西は北アフリカ、さらに七一一年にはジブラルタル海峡を渡りイベリア半島までも征服していった。イスラム世界は東西に大きく広がり、ウマイヤ朝は一四代カリフのマルワーン二世(七四四~七五〇)まで続いていった。

 

(九)「岩のドーム」と「アル・アクサ・モスク」の建設

ウマイヤ朝第五代カリフ納品アブドル・マリクの六九一年頃、イスラム教徒らはエルサレムムハンマドが昇天したとされる地に「岩のドーム」が建設された。岩のドームの下には岩(巨石)が収められている。この岩はアブラハムがその子イサクを生贄に捧げようとした時の祭壇だといわれ、またムハンマドが昇天する時に手をつき、その手の跡が残っている岩だという。

第六代カリフの七一五年頃、岩のドームの南側にアル・アクサ・モスクが建てられた。

 

(一〇)イスラム教の「ハラム・アッシャリーフ」とユダヤ教の「神殿の丘」

イスラム教徒らが岩のドームやアル・アクサ・モスクを建設した地は、ムハンマドが天に昇った聖なる場所を意味する「ハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖域)」と呼んでいる所であり、メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地とされている。またこの場所はユダヤ教徒にとっては祈りを捧げる「嘆きの壁」の東にあたる「神殿の丘」と呼ぶ聖域でもある。(両教徒にとって共に「神聖な祈りの場」であることから、ここが現在に続くパレスチナ問題の最大の争点地となっている)

 

(一一)ウマイヤ朝からアッバース朝(七五〇~一二五八)へ

八世紀に入った。時代は進み、ウマイヤ家の支配を否定し、ムハンマドハーシム家こそが指導者にならなければならないとする運動が激しさを増してくる。アリーの血を引くシーアだったがどの家系を正統とするかで争いが生じてくる。

七四七年、正統の派は預言者ムハンマドの伯父アッバースの血統を継ぐアッバース家にあると主張するグループがウマイヤ朝に対する武装蜂起を起こした。

七五〇年、ウマイヤ朝に対する殺戮は凄惨を極め、ウマイヤ朝第一四代カリフのマルワーンを始め支配者層を根絶やしした。ここにウマイヤ朝は大敗を喫し滅亡した。こうしてアッバース朝が興されていった。このとき、ウマイヤ朝の支配層の中で唯一人アブド・アッラーフマンだけが生き残りイベリア半島へ逃れ、コルドバを首都とする後期ウマイヤ朝を興しスペインで発展していく。

アッバース朝は樹立後、支配者層の強化を図るため大粛清を行うとともに、イスラムの国創りに血筋は関係ないとしてスンニ派に大転換した。アッバース朝第二代目のカリフマンスールは新首都をバグダードに定めた。その後バグダードは交易の中心地として大いに発展しアッバース朝は八世紀から九世紀にかけ最盛期を迎えていった。

普通、「イスラム帝国」と呼ぶ場合、このアッバース朝の時代を指すことが多い。

 

(一二)アッバース朝の滅亡、エジプトにマムルーク朝

九世紀末になるとアッバース朝は戦乱時代に入り一二五八年にモンゴル軍の攻撃ににバグダードが陥落しアッバース朝は滅亡した。なお、一二五〇年にはエジプトにマムルーク朝が成立している。

 

一三イスラム教に帰依する「ムスリム」たちの「五行・六信」

イスラム教に帰依する者「ムスリム」たちは神の言葉である「コーラン」を信じ、さらに理解を深めるためムハンマドの生前の発言や行動を記録した「ハディース」(伝承)を守り実行していった。

実行の基本は「五行(イバーダート)」、信仰の基本は「六信(イマーン)」といわれる。「五行」は信仰告白シャハーダ)、礼拝(サラート)、断食(サウム)、喜捨(ザカート)、巡礼(ハッジ)を実行することをいう。信仰告白は、「私はイスラム教の信者です。アラーは唯一の神であり、ムハンマドはその使徒です」ということを他人に宣言すること、礼拝は実際にメッカに向かって一日に五回礼拝すること、断食は太陰暦の九月に日中は断食をすること、喜捨は他人に施しをすること、巡礼はカーバ神殿のあるメッカに生涯のうち一度は参詣をすることという「五つの行」だとされる。「六信」は唯一神(アラー)、天使(マラク)、啓典(コーラン使徒預言者、ナビー)、来世(アーヒラ)、天命(カダル)を信じることをいう。六信はこの世の創造主である唯一神(アラー)がいることを信じ、神の使徒である天使がいることを信じ、神の言葉である啓典(コーラン)にあることを信じ、啓典(コーラン)を預かり伝える人預言者の言うことを信じ、預言者の言うことを守れば天国へ行けると信じ、この世界に起きることはすべて神の意志に沿ったものであると信じなさいという「六つの信」だとされる。

第四章 エルサレムをめぐる十字軍とイスラム教徒側の攻防

エルサレムは二代目カリフウスマンの時代、六三八年以降、ローマ帝国支配からイスラム勢力の支配下になっている。イスラム教徒の支配色が強いがエルサレムには聖墳墓教会があり、キリスト教徒にとっても大切な「聖地」となっている。キリスト教徒の巡礼や礼拝は許されており多くの巡礼者が行き来し、両教徒に大きな対立は無かった。だが時代が進むにつれ状況は変わってくる。一一世紀末からエルサレムを巡る動きが激しくなる。

 

(一)十字軍の結成

一〇九五年、東ローマの皇帝は、自分の支配地域がイスラム勢力に脅かされるのを恐れ大義名分として「キリスト教徒の巡礼が異教徒のイスラム教徒から迫害されている。聖地エルサレムを奪回しなければならない」としてローマ法王ウルバヌス二世に援軍を要請した。

一一月、ウルバヌス二世はこれを受け「エルサレムを異教徒の手から取り戻せ。エルサレム奪回運動に参加せよ」と呼びかけた。法王の声に応じて民衆と騎士からなる「聖地エルサレムイスラム教国から奪還するための遠征軍」が結成される。

 

(二)十字軍、エルサレムを奪還、「エルサレム王国」をつくる

一〇九六年に三軍団からなる騎士らの連合軍が結成され、翌年春第一回十字軍がコンスタンチノープルからエルサレムへ向け兵を進めた。

一〇九九年六月、エルサレムは十字軍によって包囲され、約四〇日の攻防の末、七月一五日、遂に陥落した。十字軍は市内のイスラム教徒やユダヤ教徒を見境なしに殺害、殺戮の様子は凄惨を極め虐殺者は四万人にも上ったという。エルサレムを含むシリアからパレスチナにかけた地域を支配下にした十字軍はキリスト教徒の「エルサレム王国」をつくった。

エルサレムを占領し王国を打ち立てた十字軍は、教会や修道院を建築するなど街の整備を進め、「岩のドーム」をキリスト教の教会に、アル・アクサ・モスクをエルサレム国王の王宮や十字軍騎士団の本部などに変更した。

 

(三)イスラムのサラディーン、エルサレム王国を攻撃、エルサレムを奪還

エルサレムを奪われたイスラム教徒側は、その奪還を狙っていた。

一一八七年七月、第三回十字軍が遠征されたがガリラヤ湖の西のヒッティーンの戦いでサラディーン(一一三八~九三)の攻撃に敗北しエルサレム王国の力は弱まった。アイユーブ朝を興したサラディーンはもともとクルド人であったがエルサレムの奪還に燃えていた。

九月、サラディーンはエルサレムを包囲し、翌一〇月二日、王国を攻撃し遂にエルサレムイスラム教徒の手に奪還した。この時サラディーンは、十字軍が八八年前にエルサレムを攻撃した時のような虐殺や破壊を全くしなかった。サラディーンはイスラム教の教えに従って「啓典の民」であるキリスト教徒やユダヤ人を排除しなかった。勇敢な武将であると同時にどの教徒も同じ神の啓示を信じ、共通の啓示の書を持つ「啓典の民」として擁護する宗教的寛容さも持ち合わせた知将であった。

 

(四)イスラム側にあったエルサレム、和平協議で十字軍の手に

一二二九年、第六回十字軍の遠征では和平協議もありエルサレムは再度キリスト教徒側に渡ったが、岩のドームやアル・アクサ・モスクなどはイスラム側に残った。

 

(五)イスラム勢力、エルサレムを最終的に確保

一二九一年、エルサレム王国はまたイスラム勢力(マムルーク)に攻撃され遂に滅亡した。十字軍遠征は終わり、キリスト教徒側の当初の遠征理想は達成されなかった。こうしてエルサレムは、ローマ側とイスラム側の対立の中で翻弄され、十字軍の手に落ちるものの最終はイスラム側に戻った。

(なお、イスラム教徒の手に戻ったエルサレム「アル・クドゥス」は、二〇世紀の一九一七年、イギリス軍のアレンビー将軍がエルサレムに入場するまでイスラム勢力が握ることとなった。)

第五章 オスマン帝国の建国とイスラム勢力の拡大

(一)オスマン帝国の建国

一二九一年に十字軍の手からエルサレムを取り戻したトルコのイスラム勢力は、更に勢力圏を拡大した。

一二九九年、オスマン一世(在位一二九九~一三二六)がアナトリア小アジア)地域を掌握し「オスマン帝国」を建国した。

 

(二)オスマン帝国東ローマ帝国を滅ぼす

ますます勢力拡大を続けたオスマン帝国東ローマ帝国ビザンツ帝国)などとの衝突を引き起こしていく。

一四五三年、オスマン帝国第七代スルタンのメフメト二世は力の弱まっていた東ローマ帝国を滅亡させ、コンスタンチノープル(現在のイスタンプール)を首都として発展していった。

一四六〇年、ギリシャ全土がオスマン帝国領土となりバルカン半島支配を確立した。

 

(三)イベリア半島の「レコンキスタ」(国土回復運動)完成

一五世紀になってくるとイベリア半島にも変化がでてくる。

イスラム勢力がスペインに入っていった八世紀頃には、イベリア半島には既に多くのユダヤ人が住んでおり、キリスト教徒やイスラム教徒らと大きな対立もなく比較的穏やかに生活していた。しかし、十字軍運動が盛んになるとこれに影響されてスペインのキリスト教徒も刺激を受け「異教徒追放」のレコンキスタ(国土回復運動)が起こってくる。

一四九二年、最後のイスラム王国(ナスル朝グラナダ王国)がカトリック王国(スペイン軍)に滅ぼされる。カトリック王国が成立すると、イスラム教徒やユダヤ教徒は改宗を迫られたり国外へ追放されたりしていく。改宗した者も疑いの目できつく扱われたり拷問を受けたりされた。ユダヤ教徒の多くは隣国のポルトガルに逃れたがそこも安泰でなく、さらにオランダ、イタリア、オスマントルコ領、北アフリカなどに避難した。一四九二年という年は民族的な惨劇の年となった。

一方カトリック側とすれば、ここに「レコンキスタを完成」させたということになる。(ちなみに一四九二年はコロンブスアメリカを発見した年でもあり、レコンキスタによるユダヤ人始め多くのヨーロッパのユダヤ教徒らがアメリカの地に移り住んでいくことになる。一五四九年にはフランシスコ・ザビエルが日本にもやってくる。)

 

(四)オスマン帝国の勢力の拡大、エルサレムを含むパレスチナの支配

オスマン帝国バルカン半島支配を確立した後もさらに支配地を広げていく。

一五一六年、オスマン帝国のセリム一世はエルサレムを含むパレスチナ地域をオスマン帝国支配下に入れ、一五一七年にはエジプト中心のマムルーク朝を滅ぼし、メッカ、メディナの保護権を掌握するなどサウジアラビアの西部やエジプト地域も支配し、支配地を拡大していった。

一五三七年、スレイマン一世(在位一五二〇年~六六年)の時代からはさらに勢力を拡大し、エルサレムの周囲に石積みの城壁と壮麗な門を構築し現在の「エルサレム旧市街」の原型を造っていった。

ここでの生活はイスラムの人々を中心に大きな争いもなく、キリスト教徒やユダヤ人も一部権利の制限が課されたものの居住も許されるなど、イスラム世界は比較的安定してイスラムの勢力は次第に拡大していく。こうして一六世紀のスレイマン一世時代イスラム勢力は大きく進展していった。

第六章 フランス革命、産業革命を経て

(一)フランス革命産業革命を経た世界

一八世紀から一九世紀にかけてフランス革命産業革命を経て世界の状勢は大きく変化していく。一八世紀になるとオスマン帝国の権勢ははっきり陰りを見せ始めた。一七八九年、フランス革命が勃発する。絶対王政が倒され自由主義の政府が誕生していく。「人権宣言」が採択され、ユダヤ人にも市民権が与えられるなど生活にも大きな変化をもたらす。ナポレオンの唱える国民国家の波は大きく広がっていった。一七九八年にナポレオンがエジプトを占領すると、オスマン帝国の衰退は更に明らかになっていった。

フランス革命以降、ヨーロッパの国々においてユダヤ解放令は信仰の自由とともに、ユダヤ人にも平等の市民権が認められ、職業の選択の自由は大銀行家ナタニエル・ロスチャイルド卿をはじめ金融、銀行業で大成功するなど者も出てくる。しかし、そうした中に、新たな形での反ユダヤ主義、「ユダヤ人」を差別・排斥しようとする考えも生まれていく。

 

(二)スエズ運河の開通

一八六九年、フランスの技師レセップスの指導のもとにスエズ運河が開通し、一八七五年にイギリスがスエズ運河会社の支配権を握っていく。スエズ運河の開通は世界貿易に劇的な効果をもたらし、その後の世界情勢の変革に大きく影響を与えていく。