第四章 エルサレムをめぐる十字軍とイスラム教徒側の攻防

エルサレムは二代目カリフウスマンの時代、六三八年以降、ローマ帝国支配からイスラム勢力の支配下になっている。イスラム教徒の支配色が強いがエルサレムには聖墳墓教会があり、キリスト教徒にとっても大切な「聖地」となっている。キリスト教徒の巡礼や礼拝は許されており多くの巡礼者が行き来し、両教徒に大きな対立は無かった。だが時代が進むにつれ状況は変わってくる。一一世紀末からエルサレムを巡る動きが激しくなる。

 

(一)十字軍の結成

一〇九五年、東ローマの皇帝は、自分の支配地域がイスラム勢力に脅かされるのを恐れ大義名分として「キリスト教徒の巡礼が異教徒のイスラム教徒から迫害されている。聖地エルサレムを奪回しなければならない」としてローマ法王ウルバヌス二世に援軍を要請した。

一一月、ウルバヌス二世はこれを受け「エルサレムを異教徒の手から取り戻せ。エルサレム奪回運動に参加せよ」と呼びかけた。法王の声に応じて民衆と騎士からなる「聖地エルサレムイスラム教国から奪還するための遠征軍」が結成される。

 

(二)十字軍、エルサレムを奪還、「エルサレム王国」をつくる

一〇九六年に三軍団からなる騎士らの連合軍が結成され、翌年春第一回十字軍がコンスタンチノープルからエルサレムへ向け兵を進めた。

一〇九九年六月、エルサレムは十字軍によって包囲され、約四〇日の攻防の末、七月一五日、遂に陥落した。十字軍は市内のイスラム教徒やユダヤ教徒を見境なしに殺害、殺戮の様子は凄惨を極め虐殺者は四万人にも上ったという。エルサレムを含むシリアからパレスチナにかけた地域を支配下にした十字軍はキリスト教徒の「エルサレム王国」をつくった。

エルサレムを占領し王国を打ち立てた十字軍は、教会や修道院を建築するなど街の整備を進め、「岩のドーム」をキリスト教の教会に、アル・アクサ・モスクをエルサレム国王の王宮や十字軍騎士団の本部などに変更した。

 

(三)イスラムのサラディーン、エルサレム王国を攻撃、エルサレムを奪還

エルサレムを奪われたイスラム教徒側は、その奪還を狙っていた。

一一八七年七月、第三回十字軍が遠征されたがガリラヤ湖の西のヒッティーンの戦いでサラディーン(一一三八~九三)の攻撃に敗北しエルサレム王国の力は弱まった。アイユーブ朝を興したサラディーンはもともとクルド人であったがエルサレムの奪還に燃えていた。

九月、サラディーンはエルサレムを包囲し、翌一〇月二日、王国を攻撃し遂にエルサレムイスラム教徒の手に奪還した。この時サラディーンは、十字軍が八八年前にエルサレムを攻撃した時のような虐殺や破壊を全くしなかった。サラディーンはイスラム教の教えに従って「啓典の民」であるキリスト教徒やユダヤ人を排除しなかった。勇敢な武将であると同時にどの教徒も同じ神の啓示を信じ、共通の啓示の書を持つ「啓典の民」として擁護する宗教的寛容さも持ち合わせた知将であった。

 

(四)イスラム側にあったエルサレム、和平協議で十字軍の手に

一二二九年、第六回十字軍の遠征では和平協議もありエルサレムは再度キリスト教徒側に渡ったが、岩のドームやアル・アクサ・モスクなどはイスラム側に残った。

 

(五)イスラム勢力、エルサレムを最終的に確保

一二九一年、エルサレム王国はまたイスラム勢力(マムルーク)に攻撃され遂に滅亡した。十字軍遠征は終わり、キリスト教徒側の当初の遠征理想は達成されなかった。こうしてエルサレムは、ローマ側とイスラム側の対立の中で翻弄され、十字軍の手に落ちるものの最終はイスラム側に戻った。

(なお、イスラム教徒の手に戻ったエルサレム「アル・クドゥス」は、二〇世紀の一九一七年、イギリス軍のアレンビー将軍がエルサレムに入場するまでイスラム勢力が握ることとなった。)