第八章 第一次世界大戦前後の中東情勢

(一)第一次世界大戦への足音

一八世紀末に起こった産業革命により成功したヨーロッパ列強は、次第にアフリカ、インド、東南アジアなど第三世界の国々を侵略し、植民地化に先を争い、自国の勢力拡大合戦にしのぎを削るようになる。

一八七五年にイギリスはエジプトのスエズ運河の株を強制的に買い上げ支配下に置くなど中東への勢力を拡大し、そこを足場にさらに東へ勢力を伸ばしていく。

 

(二)オスマン帝国の衰退、列強はオスマン帝国に触手を伸ばす

オスマン帝国は一六世紀のスレイマン一世時代、最盛期を迎えバルカン半島からシリア、エジプト、北アフリカなどへも勢力を拡大していたが、一七世紀、一八世紀と年代が進むにつれ、その勢力は逆に衰退の一途となった。

一八世紀末ロシア帝国の南下を受け、クリミア戦争(一八五三~五六)、露土戦争(一八七七)でますます衰退していった。さらに一八八一年にはボスニアルーマニアギリシャあたりを失い、二〇世紀初めまでにはバルカン半島ブルガリアやエジプトまでも失い、相次ぐ戦争でオスマン帝国の支配地域はせいぜいトルコ、シリア、ヨルダン、イスラエル、そしてアラビア半島のメッカを含む紅海の岸寄り地域あたりまでに縮小してしまい、帝国の体力は限界に達していった。

一九〇八年、専制政治に反対する青年トルコ革命が起きた。

第三四代スルタンのアブデュルハミト二世の努力もむなしく、このようになったオスマン帝国を列強は「瀕死の病人」と呼び、ここにさらなる触手を広げようと狙っていった。中でもイギリスは産業革命後の発展のため、資源の確保地としてどうしてもここは確保しておきたい地域であった。

 

(三)第一次世界大戦(一九一四年七月~一一八年一一月)

一九一四年六月、バルカン半島の小国セルビアの首都サラエボオーストリア皇太子夫妻が暗殺される事件が発生した。

七月、この事件の背後にセルビア政府がいるとしてオーストリアセルビアに宣戦布告、第一次世界大戦が始まった。ドイツとオーストリアを中軸とする同盟国側とイギリスやフランス、ロシアを中心とする連合国側との対立が顕著になった。

 

(四)オスマン帝国、ドイツなどの同盟国側に立って大戦に参戦

一九一四年に第一次世界大戦が始まるまで、パレスチナの地あたりはオスマン帝国の支配地域になっていた。

一九一四年一〇月、この大戦にオスマン帝国はドイツ、オーストリアらの同盟国側に立ってイギリスやフランスと戦うことになる。この結果、オスマン帝国支配下にあったパレスチナを含むアラブ地方は、英仏両国軍とオスマン帝国軍との中東戦線での主要戦場となっていった。

 

(五)イギリスの狡猾な対アラブ政策への動き

ここで特に注目されるのがイギリスの「三枚舌外交」ともいわれる狡猾な行動である。「フセイン・マクマホン書簡」、「サイクス・ピコ協定」、「バルフォア宣言」の三つの「約束」がなされ、それぞれ関連と矛盾を含み現在のパレスチナ問題をこじらせ、中東における紛争の原因ともなっていく。今から一〇〇年少し前のことである。

 

(六)「フセイン・マクマホン書簡」(イギリスが「アラブ人の国」の独立を約束)

一つ目は、イギリスが「アラブ人の国」の約束をしたとされる「フセイン・マクマホン書簡」である。

イギリスは、第一次世界大戦が始まるとまず中東地域を支配していたオスマン帝国軍を駆逐する作戦を練った。この地域には多くのアラブ人住んでいる。そのアラブ人がオスマン帝国に反抗すればオスマン帝国軍の力を弱めることができると考えたイギリスは、アラブ人による「反オスマン帝国」の勢力を作り上げようとした。そこで当時イスラム教の聖地メッカの太守(首長)であったフセイン・イブン・アリーに目をつけた。フセイン預言者ムハンマドの血筋を引くハーシム家の当主であった。

一九一五年七月、イギリスはカイロ駐在高等弁務官マクマホンからフセインに書簡を送り、イギリスの対トルコ戦への協力を要請した。翌一六年三月にかけ双方一〇通もの往復書簡が交わされた。「フセイン・マクマホン書簡」と呼ばれる。フセイン側に、イギリス軍に協力して対トルコ参戦を条件に、戦後に「オスマン帝国の東方領土にアラブの独立国家建設を約束する」というものである。フセインは以前から「アラブ人の独立国」の建設を考えていたところでもあり、乗り気になっていく。

 

)「サイクス・ピコ協定」(オスマン帝国領分割の密約)

二つ目は「サイクス・ピコ協定」で、戦後オスマン帝国領をイギリス、フランス、ロシアで分割(山分け)しようとする密約である。

一九一六年五月、「フセイン・マクマホン協定」がなされた翌年である。イギリスの中東専門家マーク・サイクスは、フランスの駐ベイルート領事を務めたこともある中東通の外交官シャルル・ジョルジュ・ピコと数度にわたり会談し、これにロシアも加わりオスマン帝国が崩壊した後、中東地域をどのように分割し、管理下に置くかを協議していった。二人の名前から「サイクス・ピコ協定」と呼ばれる。「フランスは現在のイラク北部からシリア、レバノンの各地域およびその後背地アナトリア南部を支配圏に、そしてイギリスはバグダードを含むイラク中部から南部およびパレスチナやヨルダン地域を支配圏に、ロシアは黒海東南沿岸地域などをそれぞれ支配することとした。そして焦点のエルサレムを含むその周辺地域は国際共同管理地区とするというものである。

分割のための国境線を引く際、民族や宗教などは考慮せず不自然に直線的に分割した部分が多くこれが後の「イスラム国家」樹立宣言など諸事件の遠因になっていく。

(なお、この協定は調印時にはその内容の公表は一切されないことになっていたが、一九一七年一一月のロシア革命の直後、ボルシェビキ政権によって暴露されたものである)

 

(八)「アラブの反乱」、フセインは息子らとオスマン帝国への反乱を起こす

一九一六年六月、フセインは、(「サイクス・ピコ協定」の存在すら知らされないままに)フセイン・マクマホン協定に基づきアラブの独立(ヒジャーズ王国)を宣言し、次男アブドラ、三男ファイサルらとイギリス軍の行動を助けるオスマン帝国への反乱行動を起こした。「オスマン帝国から独立し、アラブ統一の大アラブ国家を創るのだ」とフセインは自ら先頭に立って反乱を起こしオスマン帝国軍を襲撃した。「アラブの反乱」と呼ばれる。

一〇月、イギリスから若き歴史・考古学者トーマス・エドワード・ロレンスがアラブ軍に加わり軍事顧問として反乱軍を指揮する。反乱軍ではフセインの三男ファイサルの活躍は目覚ましく、ロレンスを通じてイギリスの支援を受けつつアカバの要塞を陥落させ、オスマン帝国軍を追い詰めシリア領域のダマスカス辺りまで占領していった。(アラブの反乱についてイギリス映画「アラビアのロレンス」がある)

 

(九)「バルフォア宣言」(イギリスが「ユダヤ人の民族的郷土」設立を支持)

三つ目は「バルフォア宣言」で、イギリスがユダヤ人に対してパレスチナユダヤ人の「民族的郷土」の設立支持を約束したものである。後のイスラエル建国に大きく影響してくる。

大戦が始まってくるとイギリスは中東のパレスチナ地域の重要性を再認識し、パレスチナに親イギリスの組織が誕生すれば、中東における優位性が確保でき、重要なスエズ運河を守る防壁にもなると考えた。

一九一六年の末、イギリスでロイド・ジョージ新内閣が誕生するとシオニストリーダーハイム・ワイツマンらは、ロスチャイルドイギリスシオニスト連合会会長らユダヤ人有力者とともに「ユダヤ人国家」建設についてイギリス政府に対し懸命に工作を行っていった。イギリスでは次第にパレスチナに「ユダヤ人の民族的郷土」を創設することへの理解と意見が高まっていった。

一九一七年一一月、イギリスのバルフォア外務大臣が「パレスチナユダヤ人のナショナルホームを設立することを支持する」とロスチャイルド卿宛てに書簡で示した。「ホーム」との表現は、国なのか、土地なのか、故郷なのかはっきりしないが、ユダヤ人側は「独立国家」のことと受け止めた。イギリスの「シオニズム支持」の宣言ともいえる。これが後に「バルフォア宣言」と呼ばれるようになる。

イギリスは第一次世界大戦の最中植民地主義の全盛期、戦争資金をユダヤ財閥から調達した。それだけユダヤ財閥には力があり、イギリスはこれに頼り、彼らのしたたかな「ナショナルホームの設立希求」に協力するのがよいとの方向に向いたのである。また、大戦に米国を引き入れようとユダヤの米国ロビーイングを強めイギリスの大戦勝利を確実にしようとの思惑もあった。イギリスのシオニズム容認は、パレスチナの地にユダヤ民族のホームランドの建設を認めるということを意味し、シオニストにとり大きな成果であった。

 

(一〇)イギリス軍エルサレム占領、アレンビー将軍らエルサレム入城

アラブ地方での戦闘は続き、イギリス軍はオスマン帝国軍を追い詰めていった。フセインの三男ファイサルらの活躍は特に目覚ましかった。

一九一七年一二月、「バルフォア宣言」が出された翌月であった。アラブ人勢力の支援を得ながら各地でオスマン帝国軍を圧倒し北上したイギリス軍は、オスマンエルサレム守備隊を撃破しエルサレムを占領した。イギリス軍はアレンビー将軍を先頭にエルサレムに入城した。ここにエルサレムは四〇〇年余に及ぶオスマン帝国の支配は終わり、イギリスによるキリスト教徒側の支配下となった。

 

(一一)大戦終結フセインらの願った「アラブの国」の建設は実現せず大戦終結

反乱を起こしたファイサルらは一九一八年に入っても進撃を続け、ダマスカスに入城してここを拠点化した。

一九一八年一一月、第一世界大戦はフセインらが協力したイギリス側の勝利で終わった。

 

ファイサル、「王国」の樹立を宣言するも「アラブの国」の建設は実現せず、アラブ側の不満爆発

一九二〇年三月、ダマスカスに入城していたファイサルはアラブ民族主義者らと「シリア・アラブ王国」として王国の樹立を宣言した。しかしこの時すでにここはサイクス・ピコ協定によりフランスが支配することになっていた。侵攻してきたフランス軍との衝突で王国は瓦解、ファイサルは追放されイギリへ亡命し、アラブの独立はついえた。

「アラブの国の建設」を期待したフセインら望みは裏切られた。フセイン・マクマホン往復書簡の約束のもとに参戦し、イギリスの勝利に貢献したフセインらが「国家」を建設しようとした地域はフランスの支配地域とされていたのだ。イギリスとアラブ側との約束に関わっていなかったフランスはアラブ人の「国」の建設を認めなかった。アラブ側はイギリスやフランスの外交姿勢に大きな不満を示す。「フセイン・マクマホン往復書簡によりフセインらアラブ勢が独立国の創設を夢見つつ命をかけて戦っている時に、イギリス、フランスはサイクス・ピコ協定という秘密の裏協定をして、その地域をアラブ側に渡さず、自分らで分け合おうと取り決めをしていたのだ。そのような協定がなされていようとはフセインらは全く知らなかった。それにバルフォア宣言でアラブの地にユダヤ人の国を認めるとするなどとは決して許されない。我々は今ここに七〇万人ほど住んでいる。ユダヤ人は約六万人だ。大きな対立もなく平和に暮らしている。そこにユダヤ人のホームランドを約束するというがユダヤ人のホームランドは我々から見ればユダヤ人の国と同じだ。我々アラブ人にはアラブ人の国の創設を認め、ユダヤ人にはユダヤ人の国を認めるという矛盾の二枚舌を使い、その上、その地域をこっそり秘密の約束でイギリスとフランスで山分けしようとする。即ちアラブ人には独立国家建設を約束しておきながら、ユダヤ人には郷土建設を認めるという矛盾した約束をしたあげく、そこをフランスと山分け分割統治しようとするなどとは許されない三枚舌だ」とフセイン側の怒りは収まらない。さらにファイサルの追放もありフセイン側の望みは実現しなかった。

 

(一二)大戦の主要戦勝国による利権の分配、サン・レモ会議とセーブル条約

サン・レモ会議(イギリス、フランスによる委任統治の大枠決める)

一九二〇年四月一九日、イタリアのサン・レモで連合国側の会議「サン・レモ会議」が開催された。第一次世界大戦の主要戦勝国による利権の分配会議である。パレスチナとヨルダン、イラクの地域をイギリスが、そしてシリアとレバノン地域をフランスがそれぞれ国際連盟の委任を受けて分割統治するという「委任統治」の大枠が決められた。

 

セーブル条約(オスマン帝国領の分割会議)

八月一一日、サン・レモ会議に続いてフランスのパリ郊外のセーブルで会議が開かれた。連合国とオスマン帝国との間で「セーブル条約」を締結し、オスマン帝国領の分割が決定されていった。オスマン帝国は領土の大部分を失った。

オスマン帝国内ではこれに対抗しムスタファ・ケマル(一八八一~一九三八)を首班としてアンカラに抵抗政権が樹立されていった。

 

一三ユダヤ人とアラブ人、初の大規模衝突「神学校事件」

バルフォア宣言」を契機に、パレスチナではこれに反発するアラブ人とユダヤ人の間の対立関係がますます鮮明になってきた。この地には既に多くのアラブ人が暮らしている。ユダヤ人が次々と入ってくれば両者の間でのトラブル発生は避けられない。

一九二〇年四月、エルサレムユダヤ人とアラブ人の大規模衝突事件が起きた。この事件が現在にまで続く紛争の発端だともいわれる一大事件となった。アラブ人が旧市街地でユダヤ教の神学校に押し入るなどしてユダヤ人に暴行を加えたのに対して、ユダヤ人が自警団を組織してこれに対抗した。エルサレムの「神学校事件」と呼ばれる。

このユダヤ人の自警団が「ハガナー」の始まりだといわれる。「ハガナー」はその後ユダヤ人社会の防衛組織の中核となり重要な組織に拡充され、イスラエル独立とともにイスラエル国防軍の中心組織となっていく。このハガナーのメンバーの中から次第にユダヤ人社会の主要なリーダーたちが育っていく。

 

一四)イギリス、「トランスヨルダン王国」と「イラク王国」を設立

一九二一年、アラブの反乱は収まらない。フセインの次男アブドラは、弟ファイサルがシリアから追放されたと聞き激怒,失地回復を目指しアラビア半島からシリアへ向け軍を進めた。アンマンに入城したのに続きシリアのダマスカスへの攻撃に移る姿勢を見せた。イギリスは、アブドラのシリアへの進軍を思いとどまらせ、かつフセイン親子の処遇対策になると次の対策に踏み切ることになる。

 

カイロ会議の開催

一九二一年三月、イギリス植民地相チャーチルは「カイロ会議」を開き、一九一五年のフセイン・マクマホン書簡のこと、いわゆる三枚舌外交の矛盾解決にもなる妥協案として、委任統治を続けながらイギリス保護下で王国を設け、彼らの処遇を図る政治決断をした。

 

イギリス、「トランスヨルダン王国」と「イラク王国」を設立

一九二一年四月、イギリスは、ヨルダン川の東西にまたがる地域はヨルダン川を挟んで東と西に分け、西地域は残し、東地域をヨルダン川より向こう側という意味の「トランスヨルダン王国」とすることとした。また、ペルシャに隣接するメソポタミア地域を「イラク王国」として分離するとした。これによりヨルダン川の東部に二つの王国を設けることにし、そこにそれぞれ首長を置き、間接的に支配していくこととした。

 

「トランスヨルダン王国」の「首長」にアブドラを据え、「イラク王国」の「首長」にファイサルを据えた

イギリスはフセイン兄弟の処遇として、「トランスヨルダン王国」の首長には兄のアブドラ据え、「イラク王国」の首長にはイギリスに亡命していた弟のファイサルを据えた。

このようにカイロ会議を境に中東における「国家分割」の動きが急速に浮上、境界は過去の歴史とはほとんど無関係に人工的に線引きされた。この境界設定問題はその後の中東情勢に大きく影響を与え、紛争の原因ともなっていくことになる。

 

一五)エジプト王国の独立

一九世紀の末頃よりエジプトを実質支配していたイギリスは、第一次世界大戦後の諸情勢の変化から、エジプトの維持を継続するのが困難と判断し、エジプトを独立させることに踏み切った。

一九二二年三月二八日、エジプト王国がイギリス保護領から独立した。だがイギリスはその後も間接的にエジプト支配を継続していった。

 

一六)イギリスによる「パレスチナ委任統治」始まる

イギリスによるパレスチナの統治は、オスマン帝国に勝利した一九一八年から始まっており、一九二〇年、サン・レモ会議、セーブル条約を経て高等弁務官ハーバート・サミュエルによる実質的植民地統治となっていた。

一九二二年七月、国際連盟理事会でイギリスの「パレスチナ委任統治」が公式に承認された。この委任統治規約の起草に当たり、ワイツマンらシオニストは、委任統治を自分たちに出来るだけ有利になるようイギリス政府をはじめ各連合国政府に懸命に働きかけていた。

九月からパレスチナ委任統治が公式に始まった。イギリスはスエズ運河ペルシャ湾イラク北部のモスルをも国際連盟委任統治という形で手に入れることに成功した。また、中東でのイギリスの利権を守るためにも、親ユダヤ勢力を強くするためにもパレスチナの地に「無制限のユダヤ人移民」を認め、ユダヤ人のパレスチナ移民は怒涛のように押し寄せた。移民が増えるにつれ、パレスチナ民衆との反英、反シオニズム運動は激しさを増した。

 

一七)フランスによる「シリア、レバノン地域」の委任統治始まる

一九二二年、フランスもセーブル条約を経て正式にシリア、レバノン地域を委任統治していった。

 

一八オスマン帝国滅亡、トルコ共和国成立(ローザンヌ条約)

一二九九年から六〇〇年以上続いていたオスマン帝国は最後を迎えようとしていた。一九一一年にイタリアとの戦争が勃発し、現在のリビアをイタリアに領有されて急速に支配力を失っていた。

一九二二年一一月、ムスタファ・ケマルを指導者とした祖国回復運動が激しくなり、トルコのスルタン帝政は廃止に追い込まれメフメト六世は亡命した。ここにオスマン帝国は名実ともに滅亡した。

一九二三年七月二四日、祖国回復に成功したムスタファ・ケマルアンカラ政権と連合国はスイスのローザンヌで講和会議を行い、「ローザンヌ条約」を締結した。

一〇月二九日、トルコ共和制が宣言されムスタファ・ケマルが大統領に就任、アンカラ首都のトルコ共和国が誕生し、現在のトルコ共和国の基礎となる領土が復活していく。

一九二四年、ムスタファ・ケマルは長年続いてきたカリフ制度の廃止を決めていった。

なお、ローザンヌ条約により、北部イラクに居住しているクルド人の居住地域はトルコ、イラン、イラク王国、シリアなどの領域に分断されて、セーブル条約で約束されたクルド人の独立国家の夢は破棄され、現在に続く「イスラム国」(IS)紛争の原因に関わってくることになる。

 

一九)エジプトでイスラム原理主義者の政治結社ムスリム同胞団」創設

一九二八年、エジプトでハサン・アル・バンナーによってイスラム原理主義者の政治結社として「ムスリム同胞団」が結成された。当初はムスリム青年の啓発を目指す社会団体として始まったが、イスラム教の教えに立ち返って「イスラム国家」の樹立を目指す政治組織に成長していく。

 

二〇ユダヤ人とアラブ人、聖地をめぐる初の大規模衝突、「嘆きの壁事件」

イギリスによるパレスチナ委任統治も一〇年近く経過してきた。パレスチナへのユダヤ人移住はさらに増加し、シオニストによりアラブ人の土地は買い取られ、パレスチナでのユダヤ人の生活産業基盤は年の経過とともに拡大してきた。パレスチナのアラブ人生活は圧迫されアラブ側の反発はさらに顕在化していった。

一九二九年八月、ユダヤ人青年グループがシオニストの旗を掲げシオニズムの賛歌を歌うなどして「嘆きの壁」に向けて行進した。これに怒ったアラブの群衆がユダヤ人に襲いかかる事件が発生した。これをきっかけに約一週間、パレスチナ各地で両者の襲撃、虐殺が行われる事件に発展した。「嘆きの壁事件」といわれる。嘆きの壁事件はシオニストイスラム教徒の聖地をめぐる最初の大衝突事件で、二五〇人ほどの死亡者と六〇〇人近い負傷者が出たという。エルサレムではこれまで宗教を越え、大きな対立もなく共存してきたが、これを境に双方に拭い難い対立が続いていくことになる。

嘆きの壁」は二〇〇〇年近く前、ローマにより破壊された第二神殿(ヘロデ神殿)の西壁であり、ユダヤ人にとって聖なる場所「神殿の丘」の西壁となっている。一方、イスラム教徒にとっては岩のドームやアル・アクサ・モスクのある聖なる地区「ハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖域)」の西の壁でもある。

 

二一サウジアラビア王国の樹立

アラビア、フセインヒジャーズ王国

「アラブの反乱」のハーシム家フセインは、アラビアのメッカを首都に「ヒジャーズ王国」を治めていたが次第に反発する勢力も台頭し、王国は不安定になっていた。

一九二五年、前年から国王に就いていたフセインの長男アリーは、アラビア東部を支配していたサウド家のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウドの攻撃を受けて敗北、一九一六年から続いていたハーシム家ヒジャーズ王国は滅亡する。

 

アブドゥルアズィーズ、アラビア半島を制圧、サウジアラビア王国樹立

一九〇二年、アブドゥルアズィーズはアラビア半島のリヤドを平定し、さらに勢力を拡大していた。

一九二七年、ヒジャーズ王国を併合しアラビア半島を制圧した。

一九三二年九月、アブドゥルアズィーズは国名を「サウジアラビア王国」と定め国王となった。国名の「サウジアラビア王国」は「サウド家のアラビア王国」の意でありサウド家が統治する君主制国家となる。

 

二二イラク王国の独立

一九三二年一〇月、イラク王国はイギリスより独立が認められ、首長であったファイサルが独立後の最初の国王となった。なお、ファイサルは翌三三年に死去、長男のガージー(在位一九三三~三九)が後を継ぎ、さらにガージーが交通事故で死去した後はその子ファイサル二世(在位一九三九~五八)がわずか三歳で国王に即位した。