第一三章 第三次中東戦争とその後

第三次中東戦争

イスラエルの先制攻撃で開戦

一九六七年六月五日午前八時過ぎ、「攻撃される前に攻撃すべきだ」とイスラエル空軍はエジプト、ヨルダン、シリア、イラクの空軍基地に先制の奇襲攻撃を行った、滑走路に並んだアラブ側の空軍はなす術もなく、飛び立てないまま壊滅的な被害を受けた。

翌六月六日、イスラエル軍は休む間もなく、エジプトが支配していたガザを占領した。

六月七日にはシナイ半島のエジプトの強力戦車部隊を壊滅させシナイ半島を占領、七日と八日にはヨルダン軍支配のヨルダン川西岸を攻撃、エルサレムとテルアビブ間の要衝ラトルンを急襲した。さらにエルサレム旧市街を占領し、エルサレム東地区を奪取。東西エルサレムを統一した。

イスラエル軍は、遂にヨルダン川西岸地域全体を支配下に置いた。ヨルダン軍はヨルダン川の東へ退却し、ヨルダン領はヨルダン川の東地域のみに縮小した。

六月八日、エジプトとヨルダンは国連安保理の停戦決議を受け入れを発表した。

六月九日、イスラエル軍はさらに北のシリアゴラン高原に侵攻、シリア軍を退却させ、ゴラン高原を占領した.

 

イスラエルの圧勝、国連の停戦決議を受諾し停戦

六月一〇日、シリアも停戦決議を受け入れ、六月五日に始まった戦争はわずか六日間でイスラエルの圧勝で終結した。「第三次中東戦争(アラブ側は六月戦争、イスラエル側は六日戦争と呼ぶ)」である。

 

イスラエル圧勝、占領地拡大、エルサレムを「統一された首都」と宣言

第三次中東戦争イスラエルの圧勝に終わった。一方の圧勝は他方の悲劇と苦悩を発生させる。この戦争の結果、ヨルダンはヨルダン川西岸地区を占領され、エジプトはガザ地区を失いシナイ半島を占領された。シリアもゴラン高原を占領された。これによりイスラエルは、ヨルダン川西岸地区ガザ地区を占領したことで国連のパレスチナ分割案の元となった「パレスチナ全域」を掌握した。

イスラエル国民は、この大勝利に歓喜、とりわけ聖地エルサレムや旧市街奪還という悲願の達成はこの上ない喜びであった。東エルサレムは二〇年ぶりに取り戻され、ヨルダンにより設けられていた東西境界線の壁は撤去されて東西エルサレムは併合された。ヨルダン川西岸とガザ地区には軍政が敷かれた。今は広場になっている「嘆きの壁」の前一帯(マグレブ地区)にあったイスラエル人の一三五戸の住人六五〇人は、突然立ち退きを命じられ家はブルドーザーで破壊された。

一九六七年六月二七日、イスラエルは東エルサレムを併合し、「東西エルサレムイスラエルの統一された首都」と宣言する。イスラエルパレスチナ全域を掌握したことで、占領地は一挙に今までの五倍近くに拡大した。一九四八年の独立宣言当時七〇万人程度であった人口は、二七〇万人にもなった。

この戦争によりイスラエルは強固な「国家」としての基盤を形成し、中東に新たな緊張関係を生み出していく。

 

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()パレスチナ難民(パレスチナの地から逃れたアラブ人)の大量発生

パレスチナ全域がイスラエルの占領地となり、第三次中東戦争はまたも多数の難民を発生させた。第一次中東戦争でも多くの難民を生じさせたが今回の戦争は最大の難民問題を引き起こした。多くのパレスチナの住民が故郷を離れ、特にヨルダン川東部のヨルダン領などへの難民の流入は後を絶たなかった。さらにアメリカをはじめ世界各地に移り住んだ者も多数いた。

パレスチナから逃れ移り住んだ者は「パレスチナ難民」と呼ばれ、一〇〇万人以上といわれる。パレスチナ難民は「これまでパレスチナに住んでいたアラブ人が、ここを占領しイスラエルという国を創ったユダヤ人によりこの地を追われ難民となった」のであり、パレスチナ人という固有の民族は存在せず、「パレスチナ人」という固有の民族が難民となったのではない。パレスチナ難民は、パレスチナに住んでいたアラブ人が、イスラエルパレスチナ占領によりその地から追われ「自分たちはパレスチナ難民」という共通意識が生まれてきて、そこから「パレスチナ人」という意識が出来上がっていったと理解するとされる。

一方、難民とならなかった者も多くいた。占領地に残りイスラエル軍の占領下で苦労して暮らしていった。

さらに一部にはイスラエル国民になる道を選ぶ者もいた。なお現在、イスラエル領内には「イスラエル・アラブ人」としてイスラエル人口の約二〇%(一八〇万人)を占めるという。(現在、子孫を含め四〇〇万人以上の人々が故郷へ帰る権利をパレスチナ側は主張しているが、イスラエルは難民の帰還を拒絶しており、「イスラエル・アラブ人」の問題と合わせ和平交渉の最大の難問の一つになっている。)

 

)アラブ首脳会議、イスラエルに屈しない結束の「三つのノー 」を決議

イスラエル第三次中東戦争の大勝利に沸き、占領した領地は絶対に離さない姿勢だ。イスラエルの国内では、もはやアラブ諸国パレスチナ問題を武力で解決する道を諦め、和平交渉のテーブルに着いてくると読んでいた。

しかし、敗北したアラブ諸国は屈辱に満ちながらもここで意思を結束する。壊滅的な大敗北を引きずって、ずるずるとイスラエルの意のまま交渉のテーブルに着くことは、アラブ側にとって耐え難い屈辱である。敗北したままで交渉に臨めばそれは降伏を意味し、アラブ諸国のプライドが許さなかった。

一九六七年八月末から、アラブ諸国スーダンの首都ハルツームで第四回アラブ首脳会議を開催し、九月一日、後に、「アラブの三つのノー」として知られる「イスラエルと交渉せず」「イスラエルと講和せず」「イスラエルを独立の国として承認せず」の原則を決議し、アラブ諸国としての統一意思を改めて確認した。

 

第三次中東戦争の戦後処理の原則を定めた「安保理決議二四二号」

第三次中東戦争が終わって各国の反応は注目される。アメリカはイスラエルの立場を支持し、国家の安全を保障するため、イスラエルは必ずしも全占領地から撤退しなくてもよい」と主張した。一方、ソ連はアラブ支持の立場をとり、戦争の原因はイスラエルの先制攻撃にある。全占領地からのイスラエル軍の撤退を呼び掛けた。イスラエル支持国もアラブ支持国も、国連総会や安保理の裏舞台でも動いた。そうした中で、安保理の決議が注目された。

一九六七年一一月二二日、国連安保理イスラエルに対してこの戦争で占領した領土から軍隊を引き揚げるように要求、戦争当事者に中東での公正かつ永続的な平和の確立のために円満な解決を呼びかけ和平のガイドラインとして原則を定めた〈中東紛争解決に関する安保理決議二四二号」を決議した。

  • 占領された領土からのイスラエル軍の撤退
  • 中東のすべての国家の主権、領土の保全、政治的独立の尊重と承認
  • アラブ諸国イスラエル国家を承認する
  • あらゆる交戦状態を終結し、あらかじめ承認された境界内で、安全を保障されて平和に生存しうるよう公正かつ永続的な権利の確認をする

しかし、イスラエルは軍の占領地からの撤退など論外であり全面的に無視した。大変な犠牲を払いようやく手に入れた聖地や領土の放棄につながる軍の撤退などは決して容認されるものではない。「占領地から絶対に撤退しない」とする立場で安保理決議を無視した。しかも、占領地にユダヤ人の住宅建設も始めていった。

アラブ諸国も、この決議を認めることは「イスラエルが占領したパレスチナ全土の支配を既成事実として承認し、イスラエルを独立の国と認めことになる」、「パレスチナ人の民族自決権について一切言及がない」として安保理決議を受け入れることはできないとした。

結局、安保理決議二四二号は決議されたものの、解釈の仕方の相違もあり双方から受け入れを拒否されたままとなった。この二四二号のはっきりした動きは二〇年後の一九八八年一二月のアラファトの「受諾」発言までかかることになる。

この第三次中東戦争はその後の中東情勢に大きな影響を与えた節目となる戦争であり、現在のイスラエルパレスチナの関係を理解するにあたり最も注目していく必要のある戦争であった。

 

(六)PLO、次第にパレスチナ奪取への「武力闘争組織」に変化

PLOの発足初期では、アラブ諸国の統一がパレスチナ解放への道だというアラブ・ナショナリズムイデオロギーが支配的で、多くのパレスチナ人はアラブ諸国が祖国パレスチナを「取り戻してくれる」であろうと期待していた。だがPLOは次第に「武力闘争によりパレスチナを奪い取ることこそ解放への道である」との考えが支配的になり「武力闘争組織」化していく。軍事活動が活発になり強力にイスラエルに対するゲリラ闘争を繰り広げることになる。

 

アラファトファタハ、PLOへ加入

第三次中東戦争が終わって、アラファトは行動姿勢を明確にしていく。「アラブは三度もイスラエルと戦ってきたが、いずれも敗北した。これではパレスチナの解放はほど遠い。エジプト、シリア、ヨルダンの力だけに頼っていては、永久にパレスチナの郷土は戻らない。我々パレスチナ人が主体となってイスラエルに対抗し、我々の手でパレスチナ国家を建設する以外に方法はない。今こそパレスチナ人として目覚め、パレスチナ人自身による武装闘争に訴える時だ」とアラファトの決意は高まっていった。

一九六七年、アラファトファタハのPLOへの加入を決断した。ヨルダンにはゲリラ組織の拠点が集まった。PLO傘下にはアラファトの主導のファタハジョルジュ・ハバシュを指導者とするパレスチナ解放人民戦線(PFLP)、ナイフ・ハワトメが率いるパレスチナ解放人民民主戦線(DFLP)などがそれぞれの考えを異にしながらイスラエルへの対抗活動が続けられていった。

 

アラファト、「カラメの戦い」に勝ち名声高まる

一九六八年三月一八日、遠足から帰る途中のユダヤ人の子供を乗せた車が砂漠を走行中、パレスチナ側が埋めた地雷に触れ二九人が死傷する事件が起きた。

三月二一日、イスラエル側はこれを機会にパレスチナ側の挑戦だとして報復にでた。イスラエルの大軍はヨルダン渓谷を越えてヨルダン領内のファタハの施設のあるカラメの町に大攻撃を仕掛けてきた。ここににはパレスチナ難民が多く住んでおり、難民に危機が迫ってきた。アラファト率いるファタハ勢は敢然とイスラエル軍に立ち向かった。少人数、かつ貧弱な兵器しか無い不利な状況にあったがヨルダン軍の支援を得ながら大激戦の末この攻撃を防ぎイスラエルの大軍を撃退させた。三〇〇人近い死傷者を出したイスラエルにとっては大誤算であった。一方アラブ側にとっては、イスラエルの建国以来初の「イスラエル軍撃退」の大勝利となった。この戦いを「カラメの戦い」と呼ぶ。

アラブ諸国はこの勝利でアラファトを一躍「PLOのアラファト」「アラブ世界のヒーロー」に押し上げた。

ゲリラ組織は人々の支持を獲得し、PLOの実権を握っていく。ファタハの威信は高まり、何千人もの若者が「フェダイーン」に志願していった。「フェダイーン」は「ゲリラ活動の闘士」「パレスチナ大義に自らを犠牲にする者」の意である。

七月、PLOはカラメの勝利によって高揚したパレスチナ人の民族意識を高らかに謳い上げた「パレスチナ民族憲章」と呼ばれる声明文を採択した。その第九条に「武装闘争は、パレスチナ解放の唯一の方法である。云々・・」とあるように、パレスチナの活動は対イスラエル闘争を先鋭化していく。

 

アラファト、PLO議長に就任

一九六九年二月、アラファトは第五回パレスチナ民族評議会(PNC)においてシュカイリーに代わりPLO議長に選出され、パレスチナ解放運動の最高リーダーとなった。

パレスチナ解放運動の最高リーダーの座に就いたということは、アラファトにとっては「ファタハ」のリーダーにとどまらず、ファタハ以外の解放勢力をも掌握する責任者となったことである。活動勢力には「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」、「パレスチナ解放民主戦線(DFLP)」、「サイカ(雷鳴)」などいくつもの組織ができていたが、カラメの戦い後にも次々に誕生した過激なグループも多くあり、アラファトは議長としてこれら組織をも統括していくことになる。

 

一〇第三次中東戦争後にエジプト軍とイスラエル軍が交戦、「消耗戦争」

第三次中東戦争で圧倒的勝利を勝ち取ったイスラエルでは、戦争が終了すると次第に軍事的危機感は薄れ、軍の縮小議論まで出るほどに緊張感はなくなってきていた。一方、シナイ半島を失ったエジプトでは、イスラエルに対する対抗意識を失わず、スエズ運河沿いに駐留するイスラエル軍に砲撃を加えるなどの散発的な攻撃を行っていた。

六八年九月、スエズ運河沿いのイスラエル軍に向けてエジプト軍が対岸から大規模な砲撃を加えた。イスラエル軍は対抗手段に欠け、衝突はスエズ運河を挟んで恒常的にそれから二年も続いた。

一九七〇年八月、アメリカの仲介で停戦となるが、この間双方に何千人もの死傷者を出した。この戦争衝突の結果はあまり効果のない戦闘で「消耗戦争」と呼ばれる。

 

一一)ヨルダンとPLO、軍事衝突からヨルダン内戦(通称「黒い九月」)へ

PLOのヨルダンでの行動、ヨルダン側から批判

ヨルダンでは、第三次中東戦争エルサレムを含めヨルダン川西岸をイスラエルに奪われ国土が縮小していた。ここへ大量にパレスチナ難民が流入してきており、さらにゲリラ組織の増加と横暴化などで国内秩序が混乱し始めてきた。このようなヨルダン国内の状況下で、PLOは首都アンマンを中心に勢力を拡大し、強力なテロ組織へと成長していった。PLOはヨルダン国内で「PLO国」的な存在となり、横暴な行為も目立つようになる。PLOが、イスラエルと戦う前に保守的なヨルダン国王を排除しなければと主張するようになるとヨルダン当局との対立は避けられない。また、イスラエルはヨルダンにあるPLOの拠点を攻撃するだけでなくヨルダン自体にも攻撃を加えるようになる。

このようなヨルダンの状況にフセイン国王は、国内にいるゲリラ的組織が自国ヨルダンにとって「危険な活動組織」だと考え、これら組織を国外に追い出そうと画策し始めた。アラファトはこれに対抗する動きを見せる。

 

ヨルダンとPLO、対立激化、軍事衝突からヨルダン内戦へ

一九七〇年九月、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)がスイス民間旅客機四機をハイジャックし、そのうち三機をヨルダンの砂漠で爆破するという事件が起きた。和平ムードを壊し、ヨルダンで革命を起こすことを目指していたという。ヨルダン側と解放組織との対立は決定的となった。フセイン国王はこの航空機ハイジャック事件を機にパレスチナゲリラの一斉排除攻撃に踏み切り、ゲリラ基地への攻撃を開始した。ヨルダンとPLOの関係は急速に悪化、遂に衝突事件に発展し、アンマンのパレスチナ難民キャンプが主戦場になり多くの一般市民が死傷した。ヨルダン国王軍とPLO軍事組織とが衝突する闘争に発展し「ヨルダン内戦」となった。

ここでシリア軍がPLO側を支援するために介入姿勢を見せ国境を越え始めた。内戦はシリアとヨルダン戦の様相にもなってきた。ここでアメリカの後ろ盾でイスラエルが介入しヨルダンを支援する行動を起こし始めた。シリア軍はイスラエルが相手となっては勝ち目がない。シリア軍はヨルダンから軍を引き帰国してしまった。シリア軍の支援のないPLO側の苦戦は免れない。ヨルダン軍はパレスチナゲリラ攻撃に集中しゲリラ側は大きな損害をうけて敗退し、エジプトのナセル大統領の仲介により多く月レバノンに逃れた。

九月に起きたこの事件をパレスチナ側は「黒い九月」と呼び彼等の脳裏に深く刻まれていく。

 

一二)PLOの拠点、ヨルダンからレバノンへ移る

一九六九年一一月、ヨルダン側と対立していたPLOはレバノン当局と密かな合意を図り、「カイロ協定」と呼ばれる約束を結んだ。「レバノンの主権と安全の範囲内で、内政に干渉せず、国内のパレスチナ人難民キャンプ内での事実上の自治を認め、パレスチナ人の武装闘争の権利、パレスチナ難民キャンプ内での武装組織の活動を容認」するとした。PLOはレバノン側と密接になっていく。

一九七一年七月、ヨルダンの攻勢に敗北したPLOは、ヨルダンに留まることができず、PLO拠点(アラファト議長)と共に活動拠点をレバノンベイルートへ移した。これを契機にレバノン南部にはヨルダンから追われたパレスチナゲリラが移り最大の拠点となっていく。難民キャンプではこの状況を熱烈に歓迎した。

このレバノンイスラエルの北に隣接し、以前からオスマン帝国の領土であったが、第一次世界大戦の戦後処理でシリアとともにフランスの支配下に入り、歴史的にも経済的にもシリアと一体感が強く一九四〇年代にそれぞれレバノン、シリアとして分離した形で独立していた。世界的に見ても特殊な「宗教体制」をとり、キリスト教諸派イスラム諸派などが入り乱れ、複雑かつ微妙な力の均衡により成り立っている「モザイク国家」であるといわれる。「大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラムスンニ派、国会議長はイスラム教シイーア派から選出する」ことを慣例として政治的にバランスを保っていた。そこに多数の難民やPLO関係者らが入ってくると人口比率が変わり、レバノン国内の政治的バランスが崩れてくる。

 

一三イスラエル首相エシュコル死去、後任に女性のメイア

一九六九年三月、外務大臣の経験を持つゴルダ・メイア(一八九八~一九七八)がイスラエル初の女性としてエシュコルの死去により第五代の首相に就く。

 

一四)エジプトのナセル大統領が急死、サダト副大統領が後を継ぐ

一九七〇年九月二八日、エジプトのナセル大統領が心臓発作で急死した。ヨルダン内戦の調停などで多忙を極めていたといわれる。心待ちにしていたアスワンダムの完成を見ることはなかった。

一〇月一五日、ナセル大統領の急死を受けて後任に副大統領のアンワール・サダト(一九一八~八一)が大統領に就いた。自由将校団の一員でありこれまでよくナセル政権を支えてきた。政治的力量は未知数であったがアラブの主導国のリーダーとしての手腕が期待された。

一九七一年、サダトはこれまで「アラブ連合共和国」としてきた国号を「エジプト・アラブ共和国」に変えた。

 

一五)シリア大統領にバース党のアサド就任

一九七一年二月、シリアでは前年無血クーデター(矯正運動)で実権を握ったバース党穏健派のハーフィズ・アル・アサド(一九三〇~二〇〇〇)が国民投票により大統領に就任した。

 

一六)PLO傘下組織、ロッド空港での航空機乗っ取り事件などテロ活動続く

一九七二年五月、PLO傘下のテロ組織「ブラック・セプテンバー」がロッド空港(現在のベングリオン国際空港)行きのサベナ機を乗っ取り、逮捕されている仲間三一七人の解放をイスラエル政府に要求し乗客を人質にする事件が起きた。イスラエル政府は要求を拒否し特殊部隊を突入させ乗客九三人を救出した。四人の犯人のうち二人を射殺、二人を逮捕した。ハイジャックは失敗した。この失敗の報復としてPFLPの支援を受けていた日本赤軍が、ロッド空港で銃を乱射し、二六人が死亡する事件を起こした。

九月、同じく「ブラック・セプテンバー」グループがドイツのミュンヘン・オリンピック村のイスラエル選手らを襲い、選手、コーチら一一人を殺害する事件も起こす。

その後もPLO傘下のゲリラは、各所で何回もゲリラ活動を起こしていく。