第一二章 第三次中東戦争への足音

(一)第二次中東戦争後のイスラエル、国力を強化へ

一九五六年一一月、第二次中東戦争は終わった。イスラエルはエジプトから軍を引き上げ安全保障強化などの当初の目的達成はならなかった。だが二次にわたる中東戦争での反省から結果的に大規模な軍の機構改革と組織の近代化でより進んだ「国力強化」を図っていった。。伝統的な歩兵重視から近代戦車隊などの機甲部隊重視へ、優秀航空機の配備など空軍の強化、通信機の充実など通信網の拡充、そして英、仏との共同作戦よりも単独作戦方策の確立などに力を入れ、さらに強固なイスラエルの進む方向を画策していった。

 

アラファトの登場、パレスチナ解放組織「ファタハ」設立 

二次にわたる中東での戦争により、アラブ諸国の混迷はさらに深まっていく。特にパレスチナを離れた若者の中には独自の方法で祖国パレスチナを奪回しようとの運動が次第に大きくなっていく。そうした中にヤーセル・アラファト(一九二九~二〇〇四)が登場してくる。

 

アラファトの登場、「ファタハ」を設立

アラファトは一九二九年の生まれ。出生地や出生日には二説あるという。アラファト自身の説明によれば一九二九年八月四日、母親の実家のあったエルサレム旧市街の「嘆きの壁」に隣接する一三軒の石造りの集落のうちの一軒で生まれたという。一方、エジプトにあるアラファトの出生記録ではエルサレムではなく、当時父親のいたエジプトのカイロでの出生で同年八月二四日に誕生したとなっている。四歳の時母と死別、少年時代をエルサレムの母方の叔父の家で腕白で元気に育ったという。

その後、アラファトはエジプトへ帰り、カイロ大学の学生となり学生組織のリーダーとなる。第一次中東戦争では義勇兵部隊に志願し、第二次中東戦争ではエジプト工兵大尉として従軍もした。戦後クエートへ移り間もなく建設会社を設立し実業家として成功する。だが祖国パレスチナの状況の悪化に苛立ちを募らせ祖国解放に動いていく。

一九五七年、アラファトは蓄えた資金を基にパレスチナ人学生らを中心とした戦闘的パレスチナ解放組織を結成した。この組織のアラビア語の頭文字を綴ると「ハトフ」となり、「死」を意味する。そこでこれを逆に読んで「勝利する」「征服する」の意味となる「ファタハ」を組織の名前としたという。

 

ファタハゲリラ活動始まる

一九五九年、ファタハパレスチナ人の政治活動への厳しい取り締まりが続く中、雑誌「フィラスティーンナー(我々のパレスチナ)」を発刊するなど次第に地下組織活動を露わにしていく。

 

イラク革命、王国から「イラク共和国イラク)」へ

一九五八年七月一四日、カセム将軍ら軍人グループはバグダードでクーデター実行、国王らを殺害し「イラク共和国(通称イラク)」の樹立を宣言した。「七月一四日革命」と呼ばれる。イラク王国は三代で滅亡した。

一九五九年、イラクは中東条約機構を脱退する。これを受けて中東条約機構は本部をトルコのアンカラに移し、「中央条約機構」と改称した。

 

)ナセル、アラブ結束への動き活発

二次にわたる戦争でのアラブ諸国の敗退は、結果的にアラブの結束を促進させることとなった。敗退の原因はアラブ諸国のいわば寄せ集めの力によるものだとの反省からも、アラブ民族主義はさらに強固になり「自分たちの手で祖国を取り戻そう」という動きが広がっていった。またイスラエルにより故郷を追われた難民たちも、イスラエルによる故郷帰還拒否政策にもめげず、祖国奪還の熱望は高まっていた。アラブの首脳たちは、まず自分たちが同じ考えを共有することが大切だと痛感するようになる。

 

ナセル主導、「アラブ連合共和国」を結成

スエズ運河国有化と第二次中東戦争で政治的勝利を手中にしたエジプトは、ガザ地区を含むシナイ半島に停戦監視のため国連緊急軍(UNEF)の駐留を認め、スエズ運河の通行も再開してエジプトの安定を図っていった。アラブ諸国はナセルの発揮した政治手腕を改めて評価し、よりナセルとの協調関係を深めようとしていった。イスラエルと南で接するシリアもそんな国の一つであった。アラブ世界の英雄であるナセルとの協調姿勢はシリア国民に支持された。そのような情勢下でナセルは次第にアラブのリーダーを自覚し汎アラブ民族国家樹立を目指すようになる。

一九五八年二月一日、エジプトとシリアは統合国家の樹立を表明、首都をカイロに置き「アラブ連合共和国」を結成し、初代大統領にナセルが就任した。三月にはイエメンが加わった。

 

シリア、アラブ連合から離脱し連合関係解消

しかし、アラブ連合共和国の将来は明るいと見られていたが順調ではなかった。

一九六一年九月、シリアはアラブ連合から離脱した。エジプトの高級官僚や軍人たちがシリアにエジプト統治方式を適用、属国のようにしようとしたこともあり.1、シリアが事実上「エジプトに併合された」と考えた軍人やナセル政策の批判者たちが反エジプトクーデターを起こした。新政権の首相に就任したクズバリは連合から脱退を宣言し「シリア・アラブ共和国」として再独立した。

この結果、同盟関係はわずか二年半で事実上解消となったがジプトはその後も引き続いて「アラブ連合共和国」の名称を国号に掲げ、アラブの統一への努力を重ねた。

 

ヨルダン川の取水問題、イスラエルとアラブ側対立は顕著に

一九六三年六月からイスラエル首相にベングリオンの後任としてレヴィ・エシュコル(一八九五~一九六九)が就いた。イスラエルにとってヨルダン川は重要な川である。周辺国にとっても生活上重要な「水」の供給源である。そのヨルダン川の水位が年々低下してきており、イスラエルと周辺の国々はこれを問題化し対立が目立つようになってきていた。

イスラエルは一九五四年頃より、南部のネゲブ砂漠での灌漑用にヨルダン川の水を汲み上げて送水する計画を進めていた。これに反発したアラブ側は一九六四年一一月、ヨルダン川上流の支流で川を分岐させヨルダンに送水する工事に着手した。ヨルダンへの取水が進むとイスラエルにとっては水不足を招く恐れがあり、イスラエルはアラブ側による重大な挑戦だと受け止めた。ヨルダン川の水を巡っての対立は、次のイスラエル側とアラブ側との戦争の主要な原因にもなっていく。

 

)第一回アラブ首脳会議開催、パレスチナ解放組織の結成を決める

一九六四年一月、ナセルの主導によりカイロでアラブ連盟による「第一回アラブ首脳会議」が開催された。

イスラエル闘争の総合組織の設立の必要性を確認し、「アラブ諸国の統一がパレスチナ解放への道である」として、「イスラエル支配下にあるパレスチナを解放することを目的とする組織」「イスラエルにより奪われた土地を奪い返すための組織」を結成することを決めた。考えの異なるパレスチナゲリラ組織や労働組合などをまとめ、統一してパレスチナ解放を達成しようとする組織の結成である。

 

(七)第一回パレスチナ民族評議会開催、パレスチナ解放機構(PLO)結成

一九六四年五月、ヨルダン統治下であった東エルサレムで「第一回パレスチナ民族評議会(PNC)」が開催され、世界中から四〇〇人以上の代議員が集まり「パレスチナ民族憲章」を採択した。本部をヨルダンのアンマンに置き、アラブ統一を目指す「パレスチナ解放機構(PLO)」が正式に結成された。最高議決機関はパレスチナ民族評議会とされ、正規軍としてパレスチナ解放軍が設立された。PNCで議長を選出、初代PLO議長に外交官しても活躍したアラブ連盟の幹部でパレスチナ生まれの弁護士シュカイリーが就任した。当初のパレスチナ解放軍はエジプト軍が中心で、政治路線は「ユダヤ人を地中海に突き落とせ」の反ユダヤ主義のスローガンのもと武装闘争によりイスラエルからパレスチナを解放することを掲げた。

 

アラファト主導のファタハ、独自活動を活発化

アラファトはシリアに軸足を置きながら結成されたPLOには直ちに加入せず、PLOとは距離を置いて独自の活動をしていった、

一九六四年一二月、ファタハの軍事部門はイスラエルに対する初めての軍事作戦を実行した。ファタハは「パレスチナ自身による武装闘争がパレスチナ解放への道である」とし、イスラエルと国際社会にパレスチナ人自身のアイデンティティを訴えた。

武器をソ連や東欧諸国などから購入して、戦闘訓練および兵站基地をシリアのダマスカスに設置。独自にイスラエルに対しゲリラ活動を続けていった。ファタハの動きに、協力的なシリア以外のアラブ諸国はあまりにもテロ的であると反発をみせるほどファタハの活動は積極的であった。シリアはファタハの闘争に刺激を受け、改めて反イスラエルへの姿勢を明確にし、占領されているゴラン高原イスラエル軍に攻撃を加えていく。

 

第三次中東戦争イスラエル、アラブ双方の動き急となる

一九六七年に入ってもアメリカ、ソ連の冷戦は続いている。ソ連は中東での優位を探っていた。ソ連のブレジネフ大統領は、ソ連が援助しているエジプトがイスラエルとの戦いに勝てば中東でアメリカより優位に立てると考えていた。

 

ソ連からの情報とナセルの行動

一九六七年五月、エジプト情報部は、ソ連から「イスラエルがシリア国境に大兵力を集結しシリアを先制攻撃する準備をしている」との情報を得、ナセルに報告した。しかし、ナセルはガザ地区のゲリラ情勢に目を向けており、情報部の報告には慎重で動きを見せなかった。アラブ諸国はシリアの状況を考慮し戦争の勃発を危惧した。ヨルダンは公然とナセルの弱腰を批判し始めた。「それでもナセルはアラブの盟主を自任するつもりか」などとアラブ諸国から批判されるとナセルのプライドが許さなかった。アラブのリーダーナセルは急に思い切った行動に出る。後で情報部の掴んだ情報は誤っていたとわかったが事態は動いていった。

 

ナセル、国連監視軍の撤退を要求、チラン海峡を封鎖

一九六七年五月一四日、エジプト軍はシナイ半島に大兵力を進駐させるとともに、半島に駐留する国連監視軍の撤退を要求した。国連監視軍は五月一八日までに半島から撤退した。

五月二二日、ナセルは紅海に通ずるチラン海峡はエジプトの領域だと主張し、イスラエル艦船の南への出口であるチラン海峡の封鎖を宣言した。そしてスエズ運河以西にエジプト軍を集結させてイスラエルへの対抗措置にでた。アラブ諸国もナセルの決断に合わせ結束体制をとる。

 

アラブ側は対イスラエル体制へ結束

五月三〇日、ヨルダンのフセイン国王は急遽ナセルと会い、エジプト、ヨルダン、シリア三国軍事同盟の結成を急いだ。イラク、クエート、スーダンアルジェリアも派兵を約束し、対イスラエル体制を固めた。

 

イスラエル側は対アラブに挙国一致体制、実力者が揃う

アラブ側がナセルを中心に対イスラエル体制を固めつつあるのに対し、イスラエルも対抗を考える。だがイスラエルは建国から二〇年近く経ち、二度の戦争も経験し政治的にも経済的にも過渡期にもあり、意見が分かれていた。エシュコル首相は慎重であった。近隣アラブ諸国の圧力、中でもエジプトのチラン海峡の閉鎖は経済的にも影響は大きく、第二次中東戦争のような英、仏との協力も望めない現在、単独で戦うのは無理だと考えていた。

しかし、首相らの慎重派に対して強硬意見の実力者らが前に出てきた。

六月一日、アラブ諸国の脅威に対する積極的な挙国一致内閣が成立した。独眼の猛将ダヤンが国防相として入閣する。闘士ベギンも入閣した。それに参謀総長にはラビンが就いている。ダヤンら強硬派の入閣はイスラエルの世論を一気に戦争に向けることになった。

六月二日、もはや開戦は不可避と判断したイスラエルは、「国防閣僚委員会と参謀本部の合同会議を開催し、来るべき戦争をいかに戦うかを討議した。

六月四日、イスラエル閣議は軍事行動に全権を首相と国防相に一任する。