第七章 シオニズム(ユダヤ人の祖国回帰)への動き

(一)シオニズムの胎動

フランス革命産業革命、特に産業革命は資本主義を発達させ社会主義共産主義の思想を生んでいく。その中で産業革命に成功した国家は先を争い第三世界の国々にその手を伸ばし、列強間の対立抗争を引き起こし、国家、人種の考えにも変化もたらし、次第に世界は大きな危機を孕んでいくことになる。

人々の生活環境の変革は留まることなく、世界中に散っていたユダヤ人たちにおいても例外では無い。大きく変わる世界情勢の中で彼らユダヤ人はこれまで辛抱強く生活してきた。フランス革命を経て市民権を得つつ、ユダヤ人たちは互いの結びつきを再確認する考えが芽生えていく。フランスばかりでなくオランダ、ベルギー、イタリアなどヨーロッパの国々でも市民権を得てその社会に溶け込んでいく。

だが彼らは「自分たちはユダヤ人だ」という意識を消すことなく「ユダヤ人はユダヤ人だ」の思想が広がっていった。少数民族は差別され迫害を受けている。ナポレオンが唱える「国民国家」の考えをそのまま受け入れられないという動きはフランス革命産業革命の後も深く刻まれ続いていく。

忍耐強く勤勉であったユダヤ人たちは、散って行った先々のあらゆる分野で大活躍する。しかし、もろ手を挙げて歓迎されるものではなかった。これを妬み、排除する動きも次第に激しくなる。「反ユダヤ主義」(アンティ・セミティズム)である。ユダヤ人たちは大きく変わる世界状勢の中で「反ユダヤ」の波に揉まれていくことになる。

 

(二)パレスチナへのユダヤ人の移住「アリヤー」始まる

一九世紀後半になるとユダヤ人たちの中で「こんな差別や迫害から抜け出したい。自分たちの安らぐ所を見つけたい」との思いが次第に高まって行く。

一八八〇年代に入り、ロシアや東欧でのユダヤ人迫害運動(ボグロム)が激しくなると、故郷であったエルサレム地方に逃れ移り住む者が増え始める。「アリヤー」が始まった。「アリヤー」はヘブライ語の「上昇する」の意味から転じて、パレスチナへ「昇り来る」との意味が込められていた。ディアスポラによって世界各地に離散していたユダヤ人たちが、安心して暮らせる神との約束の地「エルサレムへ帰ろう」、エルサレムにある「シオンの丘」へ帰ろうという行動である。この動きは「シオニズム」と呼ばれる。つまりシオニズムは「シオンの丘」に帰ろうというもので、神との約束の地エルサレムへの回帰行動であった。

 

ドレフュス事件反ユダヤ主義

一八九四年、フランスで「ドレフュス事件」が起きた。フランス軍の砲兵大尉アルフレッド・ドレフュス(一八五九~一九三五)が軍事機密漏えい疑惑で逮捕され有利な証拠の存在にもかかわらず終身刑となり、南米フランス領ギアナ本島の沖にある政治犯流刑地「悪魔島」へ島流しになった事件である。最後にはえん罪と認められたが、彼がユダヤ人であったことにより反ユダヤ主義をめぐりフランスの世論を二分する大事件となった。作家エミール・ゾラの「私は弾劾する」で世界的に注目された事件である。

ユダヤ人は軍人になって命をかけて国を守っても、その国民として認められ差別を受けずに平和に暮らすのは無理だと悟った。ユダヤ人社会はこの事件を許すことのできない「ユダヤ人迫害事件」として追及し、これを機に一層シオニズム機運が高まっていった。

 

(四)テオドール・ヘルツルの活躍

ユダヤ人であるテオドール・ヘルツル(一八六〇~一九〇四)はオーストリアの代表的新聞「新自由新聞」のパリ特派員であった。ヘルツルはドレフュス事件を取材し、未だに根強いユダヤ人に対する偏見に強い衝撃を受ける。

一八九六年、ヘルツルは「ユダヤ人国家」という一〇〇ページほどの小冊子を著わし、差別され、抑圧されたユダヤ人も他の民族と同じように「自分たちユダヤ人の国、自分たちの安らぎの郷土」の創設を強く訴えた。ヘルツルは「ヨーロッパ各国にいかにユダヤ人が同化しても、ドレフュス事件で経験したように結局は反ユダヤ主義に差別され迫害される少数派だ。ユダヤ人をこのような迫害から解放するには地球上のどこかにユダ人のための国をつくり、そこで多数派となる以外に解決の道はない」「ユダヤ人の国が再建されない限り、ユダヤ人問題の真の解決はあり得ない」と主張した。だが当初はヘルツルの呼びかけにもユダヤ人同胞の反応は極めて冷たかった。しかしヘルツルは先頭に立ってシオニズムを推進した。

 

(五)シオニズム運動の発展、第一回世界シオニスト会議、バーゼル綱領採択

一八九七年八月二九日、ヘルツルの提唱によりスイスのバーゼルで「第一回のシオニスト会議」が開催された。世界中から二〇〇人近いシオニズム運動代表者らが集まった。彼らはシオニスト機構(後に世界シオニスト機構」と改称)の設立を決定し、シオニズム運動の到達目標を「パレスチナの地に、ユダヤ人のための、公的な法によって保証された郷土(ホームランド)を創設することを目的とする」と謳いあげた「バーゼル綱領」を採択した。ヘルツルはシオニズム運動の中心になって綱領実現に東奔西走する。シオニズム運動は次第に大きな広がりになっていった。

一九〇一年、パレスチナ土地購入機関「ユダヤ民族基金」が設立され、またロスチャイルド家などのユダヤ人大富豪から支援なども受け土地取得は進み、ここに移り住むユダヤ人が急速に増加していく。

新しい国の候補地はシオニスト会議で議論された。キプロスやエジプト国境などの案もあった。アルゼンチンや当時イギリスの植民地であったアフリカのウガンダなども検討された。しかし次第に「神との約束の地パレスチナの地にユダヤ人の国を創ろう」との結論で「シオニズム運動」はさらに活発になっていった。

 

(六パレスチナを「新しい国の候補地」と正式に決める、移住者さらに増加

一九〇四年、ヘルツル積極的にシオニズム推進に尽くすが、は四四歳の若さで他界した。

一九〇五年、第七回シオニスト会議で「パレスチナの地こそ安住の地」と移住地をパレスチナに正式に決定した。スローガンは「土地なき民に、民なき土地を(土地を持っていない民ユダヤ人に、人の住んでいないパレスチナの土地を与えよ)」であり、パレスチナへの建国の波は大きく高くなっていった。

当時のエルサレムは、人口七万人程度のオスマン帝国の小さな地方都市に過ぎなかったがユダヤ人移民の増加で次第に中核都市となっていく。第二次のアリヤーとも呼ばれる。ヨーロッパからの移住はパレスチナのほかアメリカへも多く向かった。

 

パレスチナへのユダヤ人移住と先住アラブ人の対立

ユダヤ人たちが住もうとするパレスチナの地は無人ではなかった。「民なき土地」ではなかった。先住のアラブ人たちは反抗を強めた。「ここは我々先住のアラブの民のいる土地だ、ネゲブ砂漠にはベドウィンもいる、民なき土地ではない」「ユダヤ人は我々の生活を脅かす侵略者だ」と反抗意識は高まり、各地でユダヤ人との対立や抗争が起きていく。ユダヤ人とアラブ人の対立抗争は大きな問題として続いていく。