第九章 ユダヤ側とアラブ側との対立激化

(一)ドイツナチス政権の反ユダヤ政策

第一次世界大戦で敗したドイツは、ベルサイユ条約で全植民地の放棄、軍備の制限、賠償金の支払いなどにより、国力、国民の生活は大きな試練を強いられることとなった。

一九三三年一月、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働党ナチス)が政権を握った。ナチスが政権を握るとベルサイユ条約を破棄し、ユダヤ人を迫害する政策を執るようになった。

一九三八年九月には「水晶の夜(クリスタル・ナハト)」と呼ばれるドイツ各地でナチスによるユダヤ人襲撃事件も発生していった。

 

(二)パレスチナへ大量のユダヤ人移住、先住のアラブ人と対立多発

ヒトラー政権によるユダヤ人への迫害や殺害を恐れた多くのユダヤ人たちは、ドイツから世界中に脱出した。アメリカでの移民制限もありパレスチナの人口も委任統治前の四~五倍にもなった。パレスチナへのユダヤ移民はヨーロッパのユダヤ系富豪らの後押しを受けながら、土地を次々と買い上げていった。耕地をなくしたアラブ人も多く、「祖国」を乗っ取られるとの危機感も高まり、各地でユダヤ人によるゼネストや暴行、殺人も起こるようになってきた。

 

(三)パレスチナで「反シオニズム」激化、「アラブの大蜂起」が起こる

一九三六年五月、パレスチナへのユダヤ移民活動がさらに高まると、パレスチナの反シオニズム運動「アラブの大蜂起」(パレスチナのアラブ反乱)と呼ばれる大規模な反乱が起きる。ハッジ・アミーンを委員長とするアラブ高等委員会が発足しユダヤ移民の即時停止などを求め、大規模なデモが繰り返された。委任統治しているイギリスはこの事態を憂慮する。委任統治の難しさが明らかになり始めた。

 

)イギリス、ピール調査団による提言を基に「パレスチナ分割案」を発表

ピール調査団の提言

ますます激しくなるパレスチナの事態を重くみたイギリス政府は、中東での諸情勢をも勘案しパレスチナ委任統治のあり方について再検討をする必要に迫られた。そこで、イギリスはピール卿を団長とする調査団をパレスチナに派遣し現状把握と対応を報告させることにした。

一九三七年七月、イギリスは調査団による調査結果を発表した。調査報告はアラブ人とユダヤ人の対立が激化して「委任統治はすでに機能していない」、「エルサレムなどは国際管理が妥当」などとした「パレスチナ分割案」を提言した。

 

イギリス、「パレスチナ分割案」を発表

イギリスはピール調査団の提言を基に「パレスチナ分割案」を発表した。分割統治案はパレスチナを「ユダヤ国家」「アラブ国家」「委任統治下」の三つに分け、パレスチナ北部のガリラヤ地方と地中海沿岸平野部をユダヤ人国家に、ヨルダン川西岸とガザ、ネゲブ砂漠など比較的広い地域はアラブ国家に、エルサレムベツレヘム、ラマラなどを含む中央部とナザレ周辺は委任統治下にするというものであった。

 

イギリスの案にユダヤ側、パレスチナ側双方とも不満

イギリスのパレスチナ分割案に対し、ユダヤパレスチナ側双方とも不満を示す。

ユダヤ側は「ユダヤ人国家独立構想は歓迎するが、エルサレムとその周辺をユダヤ側に入れること」と条件をつける。

パレスチナ側は分割案に消極的な上にパレスチナの一番肥沃な地域がユダヤ側に入っているなど不満でアラブ高等委員会が拒否した。

結局双方から反対されたイギリスは再度検討し直すことになった。

 

(五)イギリス、分割案を再検しアラブ寄りの「パレスチナ白書」発表

イギリスは、ユダヤ側、パレスチナ側双方に受け入れられなかったパレスチナ分割案を再検討した。再検討の過程でアラブ側を自分の方へ引き止めることが必要だと判断したイギリスは、前案よりも方向を一八〇度転換するとも言えるアラブ側に譲歩する案を模索せざるを得なくなってきた。イギリスのアラブ側への態度軟化の背景には目前に迫ってきたナチスドイツとの戦いの遂行に中東地域の重要性を再認識し、中東産油国を味方にし、反英感情の払拭が欠かせないとの判断が大きく働いた。

 

イギリス、パレスチナ政策で協議(ロンドン円卓会議)

一九三九年二月七日、イギリスはパレスチナ政策についてシオニスト代表、アラブ側代表、そのほかエジプトはじめアラブ諸国代表も入れて協議を始めた。ロンドン円卓会議といわれる。会議は三月一七日まで続いたが満足する結論に至らなかった。

 

イギリス、「パレスチナ白書(マクドナルド白書)」を発表

五月、円卓会議で案がまとまらなかったイギリスは、アラブ側を敵に回したくないためにも円卓会議案を基礎に「パレスチナ白書(マクドナルド白書)」を発表した。

白書に示す主要方針の柱は概ね次のようであった。

一、パレスチナ分割案は撤回する

二、一〇年以内にアラブ人主導のパレスチナ国家を創設する

三、ユダヤ人移民を厳しく制限し、今後五年間の暫定期間中は七万五千人に制限する

四、ユダヤ人のパレスチナでの土地購入(ユダヤ人への土地売却)は制限する

五、ユダヤ人のイギリスへの移民は制限する

 

(六)ユダヤ側はアラブ寄りのパレスチナ白書に反発、反イギリス姿勢加速

ユダヤ側はパレスチナ白書に強く反発した。「今までにないアラブ寄り案であり、イスラエル建国を阻害する案で受け入れられない。これは事実上パレスチナ国家の独立を容認したような内容でバルフォア宣言の撤回であり、ナチスドイツの手を逃れようとしているユダヤ人の大部分を見殺しにすることを意味している」と受け入れない。結局、ロンドン円卓会議は決裂となった。

シオニズム運動指導者デビッド・ベングリオン(後の初代イスラエル首相)やバルフォア宣言の陰の立役者は、在米ユダヤ人組織と連携しながらアメリカの理解と支援強化に奔走する。

イギリスの「パレスチナ政策の一八〇度転換」ともとれる大きな政策転換にパレスチナにいるユダヤ人たちの反発は激しく、自衛武力闘争に追い込んでいった。ユダヤ人社会自衛組織「ハガナー」は次第に自衛から「防衛軍事組織化」し、また独自に反イギリス武力組織となった「イルグン」や「シュテルン」なども組織化されイギリスへの厳しい反抗が続けられるようになった。このような反イギリスの行動にイギリスのパレスチナ統治政策は益々難しくなっていった。

 

(七)シオニスト緊急シオニスト会議、「ユダヤ人国家」設立に向け決意示す

アラブ寄りになったパレスチナ白書に反発するシオニストらは、ユダヤアメリカ人の協力と支援を期待する。

一九四二年五月、在米ユダヤ人組織を中心にベングリオン主導によりニューヨークのビルトモアホテルで「緊急シオニスト会議(ビルトモア会議)」が開催され、パレスチナ全域にユダヤ共同体を確立するという「ユダヤ人国家」の設立を決議した。「ビルトモア綱領」と呼ぶ。今までのナショナルホーム(民族的郷土)より一歩進めた「国家」の設立に向けて決意を明らかにしたものである。

 

(八)第二次世界大戦(一九三九年九月~一九四五年八月)

開戦

一九三九年九月、ドイツ軍がポーランドに侵攻。ポーランドと同盟を結んでいたイギリス、フランスはこれに応戦し第二次世界大戦が始まった。ソ連バルト三国を併合した。四〇年、イギリス首相にチャーチルが就任、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ。四一年、太平洋戦争に突入した。一二月八日、日本はアメリカと戦争状態に入った。第二次世界大戦は世界を大きく変え、勢力地図は塗り替えられていく。

 

ヤルタ会談

大戦の大詰めの一九四五年二月、クリミア半島のヤルタでルーズベルトチャーチルレーニンの米、英、ソ三国の首脳が会談する。ヤルタ会談である。ポーランド問題、ドイツ問題、ソ連対日参戦、国際連合の設立などについて話し合われ戦後世界の体制に大きな影響を与えていく。戦後の米、ソ冷戦の端緒となる会談になったともいわれる。

 

アメリカ大統領にトルーマン

一九四五年四月一二日、アメリカ大統領にルーズベルトの急死により副大統領のトルーマンが就任した。トルーマンルーズベルト以上にシオニストに対して好意的であった。

 

終戦国際連合結成

一九四五年五月、ドイツが降伏した。八月、日本が降伏し第二次世界大戦終結する。一〇月二四日、国際連合が結成された。

 

(九)エジプト主導、アラブ連盟の結成

パレスチナ白書に反発したユダヤ勢力が強固になってくると、アラブ側ではこれに対抗するためアラブ人同士の分裂状態の危機を解消し団結の必要性を痛感し、アラブ諸国家間の地域協力機構の設立の必要性が叫ばれるようになる。イギリスは第二次世界大戦が始まると、アラブ諸国が枢軸国側に着くのを避けるためにもこの構想を支持するようになる。

一九四五年三月、第二次世界大戦の終盤近くであった。エジプトの主導によりエジプト、トランスヨルダン、レバノン、シリア、サウジアラビアイラク王国、イエメンの七カ国による「アラブ連盟」が結成された。主な目標にアラブ諸国の独立支援、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設阻止を掲げ、本部をカイロに設けた。

 

一〇レバノン、トランスヨルダン、シリアの独立

第二次世界大戦は中東地域の国々にも大きな変化をもたらす。

一九四三年一一月、第二次世界大戦の最中にレバノンがフランスから独立した。

一九四六年三月、トランスヨルダンがイギリスから独立し、四月にはシリアがフランスから独立した。

 

一一ユダヤ側、第二次世界大戦を経て反イギリス運動さらに強まる

イギリス、ユダヤ人のパレスチナへの移民を認めないなどアラブ寄りの政策を維持

一九四五年に第二次世界大戦終結ホロコーストユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺)が明るみになると、国際社会はユダヤ人の受けた悲惨な状況に驚愕し同情すると同時に国際世論を動かし始める。アウシュビッツなどの強制収容所で六百万人ものユダヤ人が殺害されたという。しかしイギリスは以前からのアラブ側との関係もあり新たなユダヤ人のパレスチナへの移民を認めず、パレスチナへ入ろうとする難民を阻止しようとするなどユダヤ側に冷たくアラブ寄りの立場を崩さない。一九三九年のパレスチナ白書に基づきユダヤ難民の受け入れを拒否している。

イギリスの対応にイスラエルは対抗姿勢を強め、両者の衝突が各所で起きていく。

 

ユダヤ人過激派組織、イギリスの司令部があるキング・デービッド・ホテルを爆破

イギリスのユダヤ人移民政策に反対するユダヤ人過激派活動もさらに激しくなった。ユダヤ武装組織のハガナー、イルグン、レヒの三者は連合して「ユダヤ人抵抗組織」を結成し、イギリスの行政や軍に対する武装蜂起を開始した。ユダヤ側の反イギリス姿勢はいよいよ激しくなった。

一九四六年七月二二日正午過ぎ、エルサレムに大音響が響いた。当時、イギリスが接収し委任統治政府が行政指令部として使用していたキング・デービッド・ホテルが爆破され、一〇〇人近い死者が出た。ホテルの地下部に爆弾を仕掛けた「イルグン」の指導者は後にイスラエル首相になるメナヘム・ベギンであった。

 

(一二)イギリス、パレスチナ委任を放棄、問題の解決を国際連合に一任

イギリスは第二次世界大戦戦勝国に名を連ねたとはいえ、国内外での諸情勢は厳しいものになっていた。

パレスチナでキング・デービッド・ホテル事件のような過激な反イギリスの事件が連続して起きてくるとパレスチナ統治継続に限界を感じ始めた。なすすべを失ったイギリスは「委任統治政策」の遂行の困難さを改めて痛感し、委任統治政策に嫌気さえ持つようになった。

一九四七年二月、イギリスはパレスチナからの撤退を発表、困難なパレスチナ問題の解決を国際連合に一任すると宣言した。

 

一三)国連総会、「パレスチナ分割決議」(国連決議第一八一号)

国連調査委員会、パレスチナを「ユダヤ領」と「アラブ領」に分け、エルサレムを国際管理とする案を示す

一九四七年五月、国連はイギリスからのパレスチナ問題解決の一任を受け、パレスチナ問題特別調査委員会(UNSCOP)を設置し案を作成する。

八月、調査委員会は報告書を提出した。パレスチナの分割とエルサレムの国際管理を提唱する多数案と、エルサレムを首都としてユダヤ・アラブの連邦国家の樹立を主張する少数案である。多数を占める分割案はパレスチナを「ユダヤ領」と「アラブ領」に分け、エルサレムはどちらにも属さない「国際管理都市」にするという。基本的には前のピール報告のように三分割案となっているがより具体化された案となっていた。当時のパレスチナの総面積は約二万六千平方キロで、そのうちユダヤ人所有地は全体の一〇%足らずに過ぎなかった。またパレスチナの人口は約二〇〇万人で、このうちユダヤ人は三分の一の六〇万人ほどであった。面積も人口も圧倒的にアラブ側が多数である。ユダヤ側に東地中海沿岸の肥沃な農地を含んで半分以上の五六%の面積を割り当て、一方パレスチナ側には荒地の多いヨルダン川西岸とガザ地区で四三%の面積を割り当てた。そして国際管理のベツレヘムあたりを含むエルサレムは一%ほどとなっている。

 

国連総会、パレスチナ分割案を協議し採択(国連決議第一八一号)

一一月二九日、国連総会はこのパレスチナ分割案を協議し、賛成三三、反対一三、棄権一〇で採択した(国連決議第一八一号)。賛成がアメリカ、ソ連、フランスなど三三カ国、反対がエジプト、サウジアラビアなどアラブ六カ国とトルコ、パキスタンなどイスラム圏四カ国、それにインド、ギリシャキューバの一三カ国、棄権がイギリス、中国など一〇カ国であった。

この決議の裏には翌年に控えたアメリカ大統領選での国内ユダヤロビーの支持を獲得したいというトルーマン大統領の強烈な圧力があったといわれる。

 

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(一四)国連の分割案にアラブ側は猛反発、ユダヤ側とも衝突へ

アラブ側は分割案に正面から反対、ユダヤ側と衝突

国連の分割案に対しアラブ側は猛反発した。アラブ側が分割案を拒否するのは当然であった。極めてユダヤ側に有利な分割案になっていたからである。

アラブ側は、「当事者であるパレスチナのアラブ人に相談もなく一方的に決められた。しかも人口的に少ないユダヤ人に広い領土を割り当て、その上肥沃な農耕地を多く含みさらにテルアビブなど都市部も含むユダヤ人側に有利な分割案だ。先住のしかも多数派の我々アラブ人の意を無視した一方的な案であり全く受け入れられない」「パレスチナは我々のものだ」と猛反発した。エルサレム国際管理案も崩れた。これを境にエジプトのムスリム同胞団などのアラブ義勇軍パレスチナ・アラブ勢に加わり、アラブ側は闘争組織を強化していった。

 

ユダヤ側は大枠賛成、アラブ側の反発に対抗し、アラブ側を攻める

一方ユダヤ側は、分割案にはエルサレムユダヤ側の領土に含まれていないが今後の対応に含みを持たせ、分割案が国連で採択されたことに満足した。そこでさらにユダヤ人国家予定領域をより広く制圧しようと画策し、聖地エルサレムの軍事的支配を握り、中心都市テルアビブとエルサレムを結ぶ街道を支配し実質的に優位に立ちたいと積極的に動きアラブ側を攻撃し始めた。

 

アラブ側・イスラエル側双方に多数の死傷者

国連の分割案が発表された翌日から、アラブ側・ユダヤ側の衝突事件が続発、双方に多くの死傷者が出る。

双方はどちらも引けないところに来ていた。

 

 

一五)イギリスの「パレスチナ委任統治」終了へ、軍の撤退早める

分割決議は大きな反発を招き、パレスチナ情勢はますます激化した。イギリスへの風当たりはさらに強くな

ってきた。分割案を支持したアメリカだったがもはや同案を支持すべきではないとの方針になってきた。イギリスは早くこの問題から手を引きたくなった。イギリス軍のパレスチナからの撤退期限は先の国連決議で一九四八年八月一日となっていたが、状況が悪くなってきたイギリスは一日も早くここから撤退しようと軍の撤退期限を繰り上げることとした。

一九四七年一二月一一日、イギリスのアトリー首相はパレスチナからの撤退を二カ月半も繰り上げ一九四八年五月一五日とすると発表した。これによりイギリスの委任統治は一九二二年から二六年間で終了することとなった。

 

一六アラブ連盟加盟国、「ユダヤ人国家建国阻止」を決議

アラブ・ユダヤ両陣営の闘争はますますエスカレートし、パレスチナをめぐる争いは事実上の「内戦状態」となった。

一九四七年一二月一七日、アラブ連盟は「アラブ諸国民は、国連による分割案の施行は断じて許さない。武力で阻止する」と声明を発表し、「聖戦(ジハード)」の遂行をアラブ人民に訴えた。これにより対話による問題解決の望みは無くなっていった。

九四八年二月、ユダヤ側の対アラブ強硬姿勢の動きを「ユダヤ人国家建国」への動きと懸念するアラブ連盟加盟国はエジプトのカイロで協議し、「ユダヤ人国家建国阻止」決議した。

 

(一七)ユダヤ側「ユダヤ国民評議会」を設置、アラブ一掃作戦にでる

ユダヤ国民評議会の設置、軍を強化、アラブ一掃作戦にでる

ユダヤ側も対アラブ作戦を強固にしていく。

一九四八年三月、ユダヤ側はパレスチナユダヤ人居住区を統治する臨時政府「ユダヤ国民評議会」をテル

アビブに誕生させ、その正規軍「ハガナー」が各地で軍事行動を始める。ユダヤ陣営はアラブ側の動きを牽制しつつ「ハガナー」を中心に「イルグン」や「シュテルン」などもますます動きを激しくし、武器も次第に強化して力をつけていった。

 

ダレット作戦」

ユダヤ陣営は、「ダレット作戦(アラブ一掃作戦)」といわれる強硬作戦にでる。

パレスチナ領内のアラブ人社会を完全に破壊し、アラブ系住民を強引に領域外へ追放してパレスチナ全土を制圧し、ユダヤ人国家創設の既成事実を作り上げてしまう」というパレスチナ占領計画である。

四月、この作戦の第一段階として「ナハション作戦」を開始した。テルアビブからエルサレムに通じる回廊を開き、アラブ領土を分断すると同時にエルサレムの長期支配体制を確立することを目指した。ハガナーが実行した初めての大規模であった。

 

一八)多くの住人がパレスチナから脱出する「難民の発生」

アラブ人村襲撃作戦

国連のパレスチナ分割決議案に続き、アラブ一掃作戦の初めに起こったアラブ人村襲撃虐殺事件が国際的にも大きな反響をもたらすことになる。この頃エルサレムユダヤ人がアラブ組織に包囲されており、これを助けるためテルアビブからエルサレムに通じる最も重要な回廊を切り開き、エルサレムへの補給路を確保する必要があった。その際、重要拠点の一つがエルサレムの西の郊外あったアラブ人の村「ディル・ヤシーン」であった。

 

「ディル・ヤシーン」事件などから難民の発生へ

一九四八年四月九日、エルサレムの包囲打開と、輸送車両に対するアラブ側の襲撃を阻止するとの名目で、

人口約六〇〇人の村ディル・ヤシーンをユダヤ武装組織「イルグン」と「シュテルン」の合同部隊                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      が襲撃、村人二五四人を殺害した。「ディル・ヤシーン事件」と呼ばれる。この事件を指揮したのは、イルグンは一九四六年のホテル爆破事件でのベギンであり、シュテルンはイツハク・シャミルであった。シャミルも後にイスラエルの首相になる血気盛んなリーダーだった。

また、アラブ側への追放作戦は、リッダという町などでも起きていく。これら事件は国際的に大きな非難を

浴びたが、ユダヤ側にとっては、目指す「パレスチナのアラブ人社会の破壊とアラブ人の排除」という計画達成においては計り知れないほどの大きな役目を果たしたということになる。

一方、アラブ系の住民にとっては大変な脅威であり、恐怖と迫害におののき身の危険を感じ、パレスチナ

土からトランスヨルダンやシリアなど周辺諸国への脱出者が続出、概算で一〇万人もの難民が発生したという。