第一〇章 イスラエル国家の建国と第一次中東戦争                                                                                                                                                                                                                                        

(一)イスラエル国家の建国

一九四八年五月一四日の午後四時、テルアビブ美術館においてユダヤ国民評議会が開催された。議長デビッド・ベングリオン(一八八六~一九七三)は、明朝一五日午前零時をもって「ユダヤ人国家をイスラエルの地に樹立する」と建国の宣言をした。国名を「イスラエル」とし、テルアビブを首都とする「イスラエル国」の樹立が宣言された瞬間であった。国名の「イスラエル」はヘブライ語で「神の戦士」を意味し、旧約聖書にいうユダヤ人の先祖ヤコブが天使と格闘した後、イスラエルと呼ばれることになったことにことや古代イスラエル王国が存在したことに由来するという。評議会議員全員が起立してこれを承認した。

独立宣言がされるとイギリス高等弁務官カニンガム中将はエルサレムを離れ、一九一七年、アレンビー将軍のエルサレム入城以来三〇年に及ぶイギリスのパレスチナ委任統治はここに終わりを告げた。

アメリカのトルーマン大統領はイスラエル建国宣言がなされると、すぐにこれを承認する旨の声明を発表した。

 

(二)第一次中東戦争

アラブ五カ国、イスラエルに宣戦布告し開戦

新しい国の誕生は、また新しい対立と戦争を引き起こすことになった。イスラエルの建国が宣言されると、アラブ側は正式なイスラエル建国を待たず、「イスラエルの建国は一方的であり、これを認めることはできない」とするイスラエル周辺のアラブ五カ国(エジプト、トランスヨルダン、イラク王国、シリア、レバノン)は直ちに宣戦を布告し、イギリス軍がパレスチナから撤退すると同時に「ユダヤ国家殲滅」の軍事行動を開始した。アラブ側連合軍の兵力は約一五万人、イスラエル側の兵力は約三万人で圧倒的にアラブ側が有利であった。兵力数に勝る連合軍は「ユダヤ人を地中海に追い落とし、アラブ世界を統一する」と意気込み、新興イスラエルを攻撃した。トランスヨルダンのアブドラ国王は、ヨルダン川のトランスヨルダン側からエルサレム攻略に向け軍の進撃を命じた。連合軍は当初エルサレム旧市街を確保するなど優勢であった。

一方、アラブ側からの攻撃をある程度予想していたイスラエル側は、兵力数には劣るものの事前に武器などを密かに準備していた。開戦当初は各前線で連合軍に押されていたが「負ければ祖国が亡くなる。絶対に後に引けない」と危機感を持ち、戦争体験もある有能なリーダーと高いモラル、それに新興イスラエル国民としての固い団結で対決した。イスラエル軍はハガナーを中心にイルグン、シュテルンの軍事組織を統合して「イスラエル国防軍」に再編成し正式な国の軍隊を設立し果敢に対抗した。

 

国連安保理の休戦協定を境にイスラエル側が攻勢強める

戦争の途中、国連安保理の六月一一日から七月八日までの四週間の休戦協定など二回の休戦があり、これがイスラエル側に幸いした。当初劣勢であったイスラエル軍はこの間にチェコスロバキアなどからの武器強化に成功し、一段と士気を高め勢力を結集し反撃を開始した。一方アラブ側は、兵力の数では勝るものの近代的兵器に乏しく、かつ軍の統率連携も悪く士気は上がってこなかった。

 

イスラエル側の実質的な勝利のうちに戦闘終結

反撃に転じたイスラエル軍は一気に各地で連合軍を圧倒して優勢に転じ、最終的に勝利を確実にしていった。

一九四九年一月、イスラエルパレスチナでの広い地域を占領し勝利のうちに九カ月続いた戦闘は終結した。

アラブとイスラエルの間の戦争をわが国では「中東戦争」と呼んでいが、この戦争の後、第二次、第三次、第四次と大きな戦争だけでも四回も起きたので、後にこの最初の戦争を「第一次中東戦争」と呼んでいる。また、この最初の戦争をアラブ側はパレスチナ戦争、イスラエル側は独立戦争あるいは解放戦争と呼んでいる。

一月一二日、まずエジプトとの停戦交渉が地中海のロードス島で始まった。一月一二日、まずエジプトとの停戦交渉が地中海のロードス島で始まった。休戦協定が二月にエジプト、三月にレバノン、四月にトランスヨルダン、七月にシリアと個別に順次行われた。イラク王国イスラエルとの交渉を拒否し、停戦協定のないまま兵力を撤収した。

なお、トランスヨルダンであるが、六月一日、アブドラ国王は、ヨルダン川西岸と東エルサレムを併合した上で、新しい国名を「ヨルダン・ハシミテ王国」(通称」ヨルダン)とすることを宣言した。

 

第一次中東戦争後の停戦ライン、パレスチナの地の分轄、難民などの問題

一九四八年五月にユダヤ人のイスラエル国家が樹立され、一九四九年一月に九カ月続いた第一次中東戦争イスラエル側の実質的勝利で終わった。これを境に現在までも続くパレスチナ問題の解決されない難問が発生していく。

 

停戦ライン(グリーンライン

停戦の際イスラエルと周辺アラブ諸国との「国境」は確定されずに終わった。そのため停戦した際の「軍事境界線」が事実上の「停戦ライン」とされ、イスラエル」という国の事実上の境界が定まった。この停戦時のラインは停戦協定の地図上で緑色の線で引かれたため「グリーンライン」と呼ばれる。

 

パレスチナの地はイスラエル、ヨルダン、エジプトで三分轄、イスラエルパレスチナ全土の約七七%

停戦によりパレスチナの地はイスラエル、ヨルダン、それにエジプトの支配する三つ地域に分割された。イスラエルは国連の分割案の区域よりもはるかに広い東地中海の沿岸平野部、北部のガリラヤ地方、南部のネゲブなどを含むパレスチナ全土の約七七%(約三万二〇〇〇平方キロメートル)を支配下に置いた。東から攻め込んだヨルダンは、もともと自国の領土であると主張していたエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区支配下に置いた。南から攻めたエジプトはイスラエルとの緩衝地帯を設けるとしてガザ地区支配下に置いた。

 

エルサレムは東西に分断、東はヨルダン、西はイスラエルが支配

国際管理とされていたエルサレムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地がある旧市街を含む東地域はヨルダンが支配下に置き、新市街の西地域はイスラエル支配下に置いた。分断された東西エルサレムの境は停戦ラインとなった。

ヨルダンは東エルサレム支配下に置いて、イスラエル支配下とした西エルサレムとの境に壁と有刺鉄線のフェンスを設け、旧市街からユダヤ人を駆逐した。ユダヤ人は「神殿の丘」に近づくことは叶わなくなった。

  

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パレスチナから逃れた難民とパレスチナへの帰還問題

イスラエル建国と戦争によって七十万人とも百万人ともいわれるパレスチナの人々が故郷を追われ難民となっていった。。主に東の方いた者はヨルダンが占領した地区やヨルダンへ、西の方の者はガザへ、南の方の者はエジプトへ、北の方の者はレバノンやシリアなどに次々と逃れ難民キャンプの生活を始めた。遠く海を渡った者もいた。パレスチナの地から逃れてきた人々は「パレスチナ難民」と呼ばれるようになる。パレスチナ難民と呼ばれているうちに「自分たちの故郷はパレスチナである」という自覚が生まれて行き(パレスチナ人という民族がいたのではなくアラブ人なのだが)「パレスチナ人」という言葉が生まれていった。

パレスチナの人々はディル・ヤシーン事件やイスラエル建国と戦争などによって故郷を喪失し、難民となったこの惨状を「ナクバ(大破局)」と呼んでいる。人々はナクバを嘆き悲しみ、故郷を奪ったイスラエルへの憤りを忘れない。

一九四八年一二月、国連総会は、パレスチナから逃れた難民が故郷に帰る権利(帰還権)を認め、帰還を望まない難民には、土地など彼らが失った財産に対する金銭的な補償が行われるべきだと決議した(国連決議一九四号)。

一九四九年六月、イスラエルは国連の決議を拒否し、閣議で難民について「パレスチナへの帰還を認めない」とした。「戦争を仕掛けたのはアラブ側であり、戦争の原因はアラブ側にある。その結果難民が生じたとしてもその原因はアラブ側にある」として国連決議を受け入れない。パレスチナの難民たちは「自分たちこそ長い間このパレスチナに住んでいた先住民でありパレスチナは自分たちの故郷だ」と主張し反発した。

イスラエルの建国は、パレスチナの人々にとっては故郷から追われ、そして故郷に帰れない「故郷喪失」を生じさせたといえる。なお、様々な経緯からイスラエル領内に残留したアラブの人々(約一六万人)も居り、「イスラエル・アラブ人」としてユダヤ人国家の中で二級市民として生きていかざるを得なくなっていく。

一九四九年一二月、国連決議三〇二号により国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)設立された。

 

イスラエル一回総選挙、ベングリオンが初代首相に

イスラエルは戦闘の終盤の一九四八年一一月に全国の人口調査を実施し、全人口七八万二〇〇〇人、うち一八歳以上の有権者は五〇万六〇〇〇人余りと把握していた。

一九四九年一月二五日、イスラルは第一回総選挙を実施。八〇%近い投票率で一二〇名の国会議員を選んだ。

二月、独立後の初国会が開催された。ベングリオンが正式に首相に選出され、大統領にシオニスト代表のヴァイツマンを選んだ。イスラエルは着々と独立国としての体制を確立していく。

五月一一日、イスラエル国際連合に加盟し、「国」とし国際社会の仲間入りを果たした。

一二月、イスラエル政府は首都をエルサレム新市街に置くことを加速し、政府の諸機関も充実しエルサレムに移転し始めた。

 

(五)ヨルダン、ヨルダン川西岸を正式に併合、パレスチナ側反発

一九五〇年四月、ヨルダンのアブドラ国王は、東エルサレムを含むヨルダン川西岸を正式に併合した。ヨルダン川西岸をヨルダン領とした国王の行為は、愛国的なパレスチナの人々には裏切りと映った。パレスチナの人々にしてみれば自らの故郷がヨルダン領となり併合されてしまうということに他ならない。周辺アラブ諸国からも猛反発を受ける。この反発はこの後間もなく起きたアブドラ国王の「暗殺」の形でも表されることになる。

 

(六)ヨルダンのアブドラ国王「暗殺」される

一九五一年七月、ヨルダンのアブドラ国王は自国ヨルダン領としたエルサレム旧市街の聖地アル・アクサ・モスクを詣でようとした時、モスクの入り口で国王の政策を非難する愛国的なパレスチナの一青年に撃たれ死亡した。ヨルダン川西岸をヨルダン領としたことが許せなかった。対イスラエルの事件でなく、同じアラブ側内部での事件であり、以後ヨルダン政府とパレスチナのアラブ人勢力の関係は悪化していく。

 

(七)エジプト革命、ナセル中心のクーデター、ファルーク国王を追放

第一次中東戦争での敗北は、アラブの先頭に立っていたエジプトの体制を揺るがすことになる。戦前、エジプトは兵力数からもアラブ側最大勢力であり、戦争に簡単に勝利できると軽く考えていた。しかし、実戦での経験が浅く、兵力はまとまらず、敗戦によりエジプトの国そのものの体制に大きな変化をもたらすような結果になった。ファルーク国王への風当たりは一段と強くなった。

第二次世界大戦末期頃にエジプトに結成された「自由将校団」は「イスラエルに敗れた原因は現政権の無能、無力にある」と批判し軍勢力の強化拡大を図っていった。

ここでエジプトの若きリーダーとして台頭してきたのがガマル・アブデル・ナセル(一九一八~七〇)中佐であった。ナセルは反英、エジプト愛国、エジプト解放を目指す民族運動に入る。軍の内部に「自由将校団」という秘密組織を結成し、実質的指導者になっていく。イギリスの傀儡状態のファルーク国王に国民の怒りは最高潮になる。

一九五二年七月二三日、ナセルを中心に無血クーデターを成功させる。七月二六日、第一次中東戦争で活躍したナギーブ将軍が革命総司令官としてファルーク国王を追放した。「エジプト革命」の始まりである。ナセルはエジプトの実質的なトップ指導者としての活躍をするようになる。

 

)エジプト、王制を廃止し「エジプト共和国」に移行

一九五三年六月、エジプトは王制を廃止し、「エジプト共和国」に移行する。ナギーブ首相が臨時大統領を兼ね、ナセル自身も副首相兼内相として政界の表舞台に出てきた。

 

アメリカ大統領にアイゼンハワー、ソ連大統領にフルシチョフ

一九五三年一月、アメリカ大統領は、トルーマンからアイゼンハワーになる。

三月、ソ連大統領はスターリンが死亡しフルシチョフとなる。米、ソ冷戦は続いていく。

 

一〇イスラエル首相、ベングリオンからシャレットへ、またベングリオン

一九五四年一月、ベングリオンは首相を辞任、後任にハト派外相のモシェ・シャレット(一八九四~一九六五)が就く。対アラブ政策でベングリオンタカ派的積極武装路線、シャレットはハト派的国際協調路線であった。

一九五五年一一月、シャレット首相は辞任、再びタカ派ベングリオンが首相に就く(就任期間一九五五~六三)。

 

(一一)中東条約機構(バグダード条約機構)の結成

一九五五年、対共産圏包囲網の一環として軍事同盟組織「中東条約機構(METO)」がイギリス、トルコ、イラク王国パキスタン、イランの五カ国で結成された。本部をバグダードに置いた。アメリカはオブザーバーとして参加するが実質的に機構をリードしていった。アメリカはエジプトのソ連寄りも警戒していく。