第一一章 エジプトの動きと第二次中東戦争

)ナセル、初代エジプト大統領に

エジプト、ナセル大統領に就任、ソ連に接近

一九五六年六月、エジプトのリーダーナセルは三八歳で大統領に就任した。ナセルは、主要政策として、スエズ運河地帯へのエジプトの主権回復とナイル川のダム建設による農工業振興を掲げ、積極的に動いた。前々からイスラエル寄りのアメリカに不信を抱いていたナセルはソ連に接近し、チェコスロバキアからの大量の近代兵器を購入し兵力強化を図ろうとした。

 

アメリカがエジプトへのアスワン・ハイダム建設費融資を取り消す

ソ連と冷戦中のアメリカは、中東でのソ連を封じ込めようとしており、イスラエルへの配慮からエジプトへの武器供与に消極的であった。ソ連に接近するエジプトに反発したアメリカは、イギリスと協議し、エジプトと約束していたナイル川のアスワン・ハイダム建設への融資を取り消した。

 

)ナセル、スエズ運河の国有化を宣言

ナセルは大統領に就任すると直ちにアメリカのアスワン・ハイダム建設費融資の取消しに反発する。

一九五六年七月二六日、ナセルはアレキサンドリアで開催された革命四周年の記念式典での演説で、イギリス、フランスの支配していたスエズ運河を国有化し、その利益をダム建設費に充てると「スエズ運河の国有化」を宣言した。大群衆は歓喜し、周辺アラブ諸国はこぞって拍手を送った。

しかし、この状況にイギリス、フランスは猛反発、この対立が次の第二次中東戦争を引き起こす主因となっていく。

 

(三)イギリス、フランス、イスラエルはエジプトのスエズ運河の国有化に反対

ナセルのスエズ運河国有化宣言に憤慨したイギリスのイーデン首相は、フランスと協力してエジプトへの軍事行動にでる策を講じる。また、イスラエルではチラン海峡がナセルにより一九五五年九月から閉鎖されており、重要なインド洋へ通じる紅海への出口を確保しようとしていたところでもあり、イスラエルの国防長官ペレス(後に首相)は英、仏のエジプトへの軍事作戦に加わる。利害がうまく合致した三者は対エジプト作戦で秘密の三国同盟協議を始めた。

一九五六年一〇月二五日、エジプト、シリア、ヨルダンは三カ国による軍事同盟に調印した。直接イギリス、フランスがスエズ運河に手出しすると国際的にも大きな批判が来ると考えた彼らは作戦を練る。そこで手順として、まずイスラエルシナイ半島に侵攻する。侵攻したところでイギリスとフランスがイスラエルとエジプトの引き離しを口実に軍を介入しエジプト軍をスエズ運河以西にまで追い払う。この間にイスラエルシナイ半島を占領しチラン海峡を開く。このような「スエズ運河作戦」の計画を立てた。

 

(四)第二次中東戦争

イスラエル軍、エジプトシナイ半島に侵攻し戦争始まる

一九五六年一〇月二九日、ナセルがスエズ運河の国有化を宣言した三カ月後である。作戦計画の通りイスラエル軍はエジプトシナイ半島に侵攻、スエズ運河地帯への進撃を開始し戦争が始まった。指揮するは独眼の猛将モシェ・ダヤンであった。この戦争が「第二次中東戦争(アラブ側はスエズ戦争あるいはスエズ動乱イスラエル側はシナイ戦争あるいはシナイ作戦と呼ぶ)」である。

一〇月三〇日、イギリス、フランスは共同でイスラエルとエジプトに停戦を要求する。エジプトは拒否。

一〇月三一日、イギリス、フランスはエジプトを爆撃した。これにアメリカとソ連は強く反発し、国連に即時停戦とイギリス軍らのエジプトからの撤退を求める決議案を提出した。

一一月二日、国連は緊急総会を開催し、これを賛成六四、反対五で可決した。

一一月五日、国連総会の即時停戦決議を無視してイギリスのパラシュート部隊がポートサイドに降り立ち、スエズ運河を守るとの名目でエジプトに圧力をかけた。しかし、運河の支配独占を狙うナセルはこれに対抗。イギリス、フランス空軍はエジプト各地を空爆するがナセルはスエズ運河に船を沈めるなどして抵抗、運河を閉鎖してしまう。

 

国連の停戦決議を受け入れ停戦

一一月六日、イギリス、フランスは停戦決議を受け入れスエズ運河への侵攻作戦を中止した。シナイ半島の大部分を支配下に置いていたイスラエル軍も一一月八日には停戦に合意した。

 

三カ国軍撤退、ナセルは英雄視される

一二月、イギリス、フランス両軍はポートサイドから撤退、撤退を渋っていたイスラエル軍も翌年三月、チラン海峡の入り口のシャルム・エル・シェイクを含む占領地全域から軍を撤収した。

この第二次中東戦争でエジプト軍は三〇〇〇人以上の死者を出すほど大打撃を受けた。軍事的に見れば完敗だったこの戦争もイギリス、フランスの軍事介入を排除してスエズ運河を守り抜き、国有化に成功した上に国際世論を味方につけた政治的大勝利であった。これを境にエジプトは一層強固になり、ナセルはアラブ諸国から英雄視されるようになる。

一九五七年四月にはスエズ運河に沈められた船舶の残骸なども取り除かれ通行が可能になった。

 

(五)世界勢力図はイギリス、フランスから、アメリカ、ソ連

イギリス、フランスにとって第二次中東戦争で失ったものはあまりにも大きかった。イギリスのイーデン首相は辞任した。これまで中東の舞台で主役を演じてきた両国は完全に脇役になった。。今までのアラブ諸国に対する両国の影響力は大きく下落した。

一九五六年にはハンガリー動乱からソ連軍のハンガリー介入、アメリカの反発など世界勢力図はイギリス、フランスからアメリカ、ソ連へ大きく転換していくことになる。