第一四章 第四次中東戦争とその後

(一)第四次中東戦争

エジプトのサダト大統領、第三次中東戦争で失ったシナイ半島の奪回を策す

エジプトのサダト大統領は一九七○年大統領就任当初、ナセルの敷いた汎アラブの対イスラエル強硬路線を継承していったが、次第にナセル時代のソ連寄りからアメリカ寄りに方向転換し、エジプトからソ連の軍事顧問団を追放するなど独自の「サダト色」を出していく。

アメリキッシンジャー国務長官は、まずは「エジプトとイスラエルの単独和平を」と、精力的な外交努力を続けた。サダト大統領はアメリカの意を入れながら「イスラエルが占領地から撤退して、パレスチナ自治権を認めれば和平協定を結んでもいい」との意向を示すが、メイア内閣のイスラルは「パレスチナ人なんていない。パレスチナの地はわれわれイスラエルの地だ」と全く聞く耳を持たない。サダト大統領はイスラエルとの大規模戦よりも、まずイスラエルに奪われているシナイ半島を奪回しようと考えていた。

 

エジプトとシリア両大統領の共同作戦

サダト大統領はシリアのアサド大統領がイスラエルに奪われているゴラン高原を奪回しようと考えているのを好機と見てシリアと共同して対イスラエル作戦を立てることとする。

一九七三年九月、サダト、アサド両大統領はカイロで秘密会議を開き第三次中東戦争での敗因を反省しながら共同作戦を練る。第三次中東戦争ではイスラエルの奇襲作戦で我々は負けた。有効な奇襲作戦を今度はこちらが使うことにすると密かに決めた。

 

第四次中東戦争、エジプト・シリア両軍のイスラエルへの先制攻撃で開戦

イスラエル諜報機関モサドは、シリア国内に潜伏する諜報員を通じエジプトとシリア両国のイスラエルに対する不穏な動きを把握し通報していたが、メイア首相らはこの情報を重く見ていなかった。

一九七三年一〇月六日、エジプト・シリア両軍がイスラエルに対し先制奇襲攻撃にでた。

一〇月はイスラム教徒にとっては「ラマダン月(断食月)」で一カ月の断食の期間にあった。一方、ユダヤ教では一〇月六日は「ヨム・キプール(贖罪の日)」と呼ばれる神聖で、二四時間の断食をして静かに過ごす休日であった。イスラエル側は「まさかこのような日には」と強い警戒をしていなかった。だがその日にエジプト、シリア両軍の攻撃が始まった。「第四次中東戦争(アラブ側は一〇月戦争あるいはラマダン戦争、イスラエル側はヨム・キプール戦争と呼ぶ)」である。

南からエジプト軍がスエズ運河を越え、シナイ半島イスラエル軍を攻撃、一方北からはシリア軍が停戦ラインを越え、ゴラン高原イスラエル軍陣地を攻撃した。南と北からイスラエルを挟み撃ちにする奇襲攻撃をする作戦を展開した。

イスラエル空軍の攻撃に対してアラブ側は地対空ミサイルを揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦に出る。エジプト軍は緒戦イスラエルに大打撃を与えた。不意を突かれたイスラエル軍は戦争の初期に歴史的な初の敗北を喫する。

初期に劣勢であったイスラエル軍は次第に反撃に転じ始める。イスラエル軍ゴラン高原を再占領した。イスラエル軍シナイ半島でも反攻に転じた。このシナイ半島の戦いで、スエズ運河を逆に渡河しエジプト軍を後退させ戦局を一気に逆転させ名を挙げた将軍が後に首相になるシャロンであった。

 

(二)停戦決議(安保理決議三三八号)、兵力引き離し決議(安保理決議三四〇号)

一九七三年一〇月二二日、国連安保理は米・ソ共同提案の停戦決議三三八号を採択した。決議は決議採択後、関係諸国に「一二時間以内に停戦」するように求め、さらに「停戦成立後直ちに第三次中東戦争後に採択され国連決議二四二号のすべての条項を履行する」とする。

一〇月二五日、国連は停戦決議に続いてイスラエル、エジプト両国の兵力引き離し決議をする(安保理決議三四〇号)。エジプト、イスラエルとも徹底的に最後まで戦おうとする意思はなく、国連停戦決議の受け入れを表明、両国は軍を引くことした。最終的にイスラエル有利で終わった戦争であったが、イスラエルにとって初めて経験する勝利のない戦いであった。サダト大統領は当初からイスラエルを徹底的に攻撃撃し撃破するというよりも、イスラエル軍不敗の神話を破れればイスラエルアメリカも和平に目を向ける。エジプトの力を示しアメリカを仲介役としてイスラエルと和平合意をしたいと思っていた。アメリカのキッシンジャー国務長官は積極的に仲介に動いた。サダトにとっては和平を手に入れるための戦争であり、緒戦でイスラエルを相当叩いたことで停戦にさほど不足は無く、むしろ初めての勝利感を持った。

 

)第中東戦争時におけるアラブ産油国側の「石油戦略」

この第四次中東戦争において中東の「石油」をめぐる施策が世界経済に大きな衝撃を与えることになった。

一九七三年一〇月八日戦争開始から三日目であった。エジプトを支持するアラブの産油国は、イスラエルを支援するアメリカなどの国々への石油の輸出を禁止しようとした。「親イスラエル国には石油を輸出しない」とする戦略である。石油輸出国機構(OPEC)と石油会社の代表者がオーストリアのウイーンで原油価格についての交渉を行った。しかし、交渉はまとまらずOPECは一方的に石油価格の引き上げを決めた。これに続いてアラブ石油輸出国機構(OAPEC)も原油生産の削減を決めた。産油国は、イスラエルを支持する非友好国に対し石油供給削減を行い、アラブを支援する国についてはこの対象にしないとするいわゆる石油操作を行った。エネルギー資源がアラブ側のいわば対イスラエル作戦への「武器」として作用し、目標達成のための「石油戦略」として作用した。その結果世界の石油価格は大幅に引き上げられ、世界経済に大きな影響を与えていった。石油ショックであった。

 

(四)戦後処理のジュネーブ中東和平会議、エジプトとイスラエル歩み寄りへ

第四次中東戦争末期におけるアラブ側の「石油戦略」によってアメリカとアラブ諸国との関係は一時的に悪化したが、アメリカのキッシンジャー国務長官は精力的に和平の実現に動いていった。中東全体を見ながらイスラエルとエジプトに焦点を当てていった。

一九七三年一二月、スイスのジュネーブで米ソ両国主導による第四次中東戦争の戦後処理に関する中東和平会議が開催された。スエズ運河周辺とゴラン高原における両軍の兵力引き離し協定のための合同委員会設置などを協議した。イスラエルの独立宣言以後初めてのアラブとイスラエル高官が公式に顔をあわせての会議であった。キッシンジャースエズ運河周辺とゴラン高原における両軍の兵力引き離し協定のための合同委員会の設置を提案し、戦後処理の第一歩が踏み出された。

翌七四年一月から具体的にエジプト・イスラエル兵力の引き離しの協議は続けられ、七五年九月にはイスラエルの前線はスエズ運河から三〇~六〇キロ東方にまで後退した。エジプトとイスラエルの両国は徐々に歩み寄りの姿勢を見せるようになっていく。

 

(五)イスラエル首相メイア辞任、後任にラビン

一九七四年四月、イスラエルのメイア首相は第四次中東戦争での責任もあり辞任した。

六月、後任首相にイツハク・ラビン(一九二二年~九五)が就いた。ラビンは一九四一年ハガナーのハルマッハに参加し、第一次中東戦争ではエルサレム防衛の指揮を取りエジプト軍と交戦もしている。一九六二年には参謀総長第三次中東戦争で勝利を経験している。国防軍を退役後、一九六八年には駐米特命全権大使に就任、一九七三年には労働党国会議員となり労働大臣となっていた。

 

)PLO、「ミニ・パレスチナ国家」構想に転換

四次にわたる中東戦争を経てアラブ各国に「イスラエルに対する軍事的勝利を得ることは困難だ」とする議論がでてきた。パレスチナ側にもPLO主流のファタハを中心に今までのイスラエル国家を追放解体しパレスチナ全土の開放を目指す闘争路線から、「ヨルダン川西岸とガザをエリアとするパレスチナの独立した民族的組織体を構築しよう」とする現実的な動きがでてきた。

一九七四年六月、PLOは第一二回パレスチナ民族評議会(PNC)で「ミニ・パレスチナ国家」構想を採択した。パレスチナ全土の二三%に相当するヨルダン川西岸とガザでのミニ国家つくりのへの路線に転換し、二国家共存を実現しようとする構想であった。だがPFLPを中心とする勢力は賛同せず拒否戦線を組織し主流と対立していった。

 

)アラブ首脳会議、PLOをパレスチナ人の「唯一正統な代表」と認める

一九七四年一〇月、モロッコのラバトで開催された第七回アラブ連盟首脳会議は、パレスチナ民族評議会のミニ・パレスチナ国家構想を受けてPLOをパレスチナ人の「唯一の正統な代表」と認め、速やかに「パレスチナ独立国家建設の権利」を承認し、PLOの主権を首脳会議として確認をした。いよいよPLOが表舞台に出てきた。

 

)国連、PLOに「国連オブザーバー組織」の資格を与える

一九七四年一一月、アラファトPLO議長は国連総会で初めて演説した。

一一月二二日、国連総会はパレスチナ人の自決権を確認する決議をするとともに、PLOに「国連オブザーバー組織」の資格を付与することを決議した(国連決議三二三六号)。結成から一〇年、ここにPLOはアラブの代表と認められ、パレスチナを公的に代表する機関として国際的な認知を得ることになった。

 

レバノン内戦勃発、キリスト教勢力とパレスチナ勢力衝突

レバノンに住むパレスチナ人の多くは、一九四八年の第一次中東戦争で難民としてここに来た人々である。その後も多くの難民が移り住み、難民は三五万人程になっていた。そこにPLOの拠点が移って来ていた。

拠点をレバノンに移したPLOは次第に勢力を活発化し、レバノン南部の難民キャンプを中心に「ファタハランド」とも呼ばれる地域支配を強化し、レバノンでの「国の中の国」的な状況をつくり出していった。このようなPLOの活動にレバノンイスラム教徒はいっそう勇気付けられてくる。そうなればなるほどマロン派キリスト教徒を中核としたファランジスト党のグループと対立が高まって来る。キリスト教徒はイスラム教徒の勢いに脅威を抱くようになりイスラム勢力を抑えようとする。イスラエルもこの状況を看過できず介入し始めるとレバノン南部で衝突が起こってくる。

一九七五年三月、パレスチナ人戦士の乗ったバスがファランジスト党の民兵に襲われ、二六人が死亡する事件が起きた。

四月一三日、レバノン国内でキリスト教勢力とイスラム教勢力の対立は頂点に達し、遂に国を二分するレバノン内戦の勃発となった。それまでもライバル関係にあったレバノンの各グループが互いに連携したり、分裂したり、外国勢力と手を結んだりして複雑なパワー勢力関係を展開した。パレスチナ勢力も同様に混乱していった。ベイルートも東西に分裂した。

一九七六年六月、レバノンと関係の深いシリアはレバノン政府の要請もあり、またレバノンに急進的政権が誕生することはレバノンとイスラルの戦争にもなり、その戦争は必然的にシリアの体制を危うくすると危惧し、シリア軍がキリスト教徒側に立ってレバノン内戦に介入し、内戦はさらに混迷していった。

一〇月、サウジアラビアクウェートの仲介によって不安定な対立を残しようやく戦いを止めた。

一一月、内戦は多数の死者を出して一応終結、シリア軍はアラブ平和維持軍の名のもとにレバノンに合法的に駐留し始める。シリア軍のレバノン駐留は続いていく。

 

一〇)PLO傘下のPFLP、ウガンダエンテベ空港で人質事件起こす

一九七六年六月二七日、ウガンダエンテベ空港人質事件が起きた。PLO傘下のPFLPに所属するアブ人ら四人のテロリストによりテルアビブ発パリ行きのエールフランス機が乗っ取られ、乗客乗員二六八人がエンテベ空港のビルに監禁された。テロリストは各国で現在服役中のテロリスト五三人の即時釈放を要求した。

七月三日、ラビン政権は特殊部隊による人質救出作戦を敢行、犯人を射殺し大部分の人質が解放された。

 

一一アメリカ大統領にカーター、中東政策に注目

一九七七年一月、第三九代アメリカ大統領に選挙戦で現職フォードに勝ったジミー・カーター(一九二四~ )が就いた。カーター大統領の中東への外交政策が注目された。

 

一二イスラエル、ラビン首相辞任し後任にタカ派リクードのベギン

一九七七年四月、イスラエルのラビン首相は自らその座を降りた。駐米大使時代からキッシンジャー国務長官と親密な関係を築いてきており、長官の調停でエジプト、シリアとの兵力引き離しなどに実績を積み重ねてきた。しかし、夫人がアメリカに残してきた銀行口座が違法との批判を受けるとあっさり首相を辞任してしまった。

 

イスラエル総選挙、労働党大敗、タカ派リクードのベギンが首相に就く

一九七七年五月、ラビンの辞任後ペレスが首相代理となり総選挙に臨んだが、建国以来三〇年近く政権を担ってきた労働党タカ派リクードに敗れ、労働党系以外の首相が誕生することになった。

六月、リクードメナヘム・ベギン(一九一三~九二)がラビンの後を継いで首相に就いた(在任一九七七~八三)。ダヤンを外務大臣に、ヴァィツマンを国防大臣に起用した。またシャロン農相を入植地委員会の委員長に任命するなど強力な右派リクード内閣となった。

ベギンは一九四二年から武装組織イルグンに参加、キング・ディビィッド・ホテル爆破事件やヤシーン村襲撃事件で悪名を馳せ、リクードの前身ヘルートを立ち上げ、一九七三年にリクードの初代党首になった根っからの過激派である。ベギンには占領地返還の意思は全く無い。ベギンは「ヨルダン川西岸もガザ地区も元々、神に約束された地だ。それを我々が解放したのであり、占領地ではない。これらの地はイスラエルの一部であり、入植推進は当たり前だ」「PLOは認めないし、パレスチナ国家は許さない」とする強硬主張が根底にあった。

一三)エジプトのサダト大統領、イスラエルを電撃訪問

第四次中東戦争を経て数年、中東が新たな政治状況を抱える中、エジプトはソ連との友好関係を破棄し、アメリカに接近していた。

一九七七年一一月一九日、サダト大統領は敵対していたイスラエルを「電撃的に」訪問した。強硬派のイスラエルのベギン政権発足からわずか半年、エジプトのサダト大統領の思い切った行動に世界は驚いた。サダト大統領の訪問は、ベギン政権から内々承諾を得ていたとはいえイスラエル国民にとっては突然の出来事であり、驚くと同時にこれを喜んで歓迎した。アラブのリーダーであるエジプトの首脳が自らイスラエルへ足を運ぶということは「イスラエルを国として認めている」ということに他ならない。

翌日、サダト大統領はイスラエル国会で演説。イスラエルと大きな対立を望まないサダト大統領はイスラエルが占領地から撤退し、パレスチナ人の自治権を認めるとする従来からの持論を述べ、和平を訴えた。

イスラエル国民はサダト大統領の主張に耳を傾けたが、ベギン首相はこれにすぐには応えることはなかった。しかし、次第に和平を考えさせられていく。

 

一四アメリカ仲介、エジプト、イスラエルの「キャンプ・デービッド合意」

サダト大統領がイスラエルを電撃的に訪問してから一年近く過ぎた。サダト大統領はイスラエルとの交渉解決の糸口をアメリカの仲介に求めた。国務長官キッシンジャーの助言もありカーター大統領は仲介に前向きになっていた。

一九七八年九月五日、カーター大統領は、ワシントン郊外のメリーランド州の大統領別荘キャンプ・デービッドにエジプトのサダトイスラエルのベギンの両首脳らを招き和平交渉を始めた。会議はアメリカの担当者も加わり、和平の条件などについて協議を進めた。

九月一七日、途中意見の相違もあり交渉中断もあったが一三日間の交渉の末,双方は和平について基本的に合意した。イスラエルアラブ諸国初の和平合意が達成された「キャンプ・デービッド合意」の意義は大きい。

 

一五)エジプトとイスラエル、和平条約締結、他のアラブ諸国は非難

一九七九年三月二六日、エジプトとイスラエルはキャンプ・デービッド合意を受け、和平条約をワシントンで正式に調印した。

エジプトはイスラエルの存在を認めて独立の国として承認し、イスラエルとの単独和平を実現した。これによって第一次中東戦争以来、エジプトとイスラエル間の戦争状態は正式に解除された。エジプトはイスラエルを正式に承認した最初のアラブ国家となり、占領されていたシナイ半島の「返還」を約束、両国間に大使が交換されることとなった。「領土と和平の交換」であった。

しかし、他のアラブの諸国には決して受け入れられるものでなかった。ヨルダン川西岸とガザの両地域においては、暫定的に五年間のパレスチナ住民の自治が認められた後、改めてイスラエル、エジプト、ヨルダンの三カ国の代表者による会議を開いて、最終的な地位を決定するとしていた。アラブ諸国パレスチナ人の土地の帰属問題をパレスチナ人の参加していない会議で決定するという合意は到底認められるものでないと非難した。

 

一六イスラエルと「和平条約」を締結したエジプト、アラブ連盟から除外

エジプトとイスラエルの和平合意に周辺アラブ諸国は反発、アラブ諸国団結の「イスラエル否認政策」崩れる

エジプトとイスラエルの和平合意に周辺アラブ諸国の怒りは収まらない。「エジプトはシナイ半島を取り戻すために、パレスチナイスラエルに売り渡した」「我々に相談もなく単独で、特にPLO抜きで進めた」「エジプトはアラブ諸国の結束を破った裏切り者だ」と非難した。イスラエルを承認することは、パレスチナ人の「治安帰還への道」を閉ざすことになる。サダト大統領のイスラエル訪問と和平条約締結は、欧米諸国から高い評価を受ける一方、アラブ諸国団結の「対イスラエル否認政策を崩壊させた」とアラブ諸国の怒りは収まらない。ますますエジプトと周辺アラブ諸国との関係は悪化していった。

 

エジプトはアラブ連盟から除外され、連盟本部はカイロからチュニスへ移る

周辺アラブ諸国の反発にアラブの盟主エジプトは一転して孤立しアラブの孤児となった。

一九七九年一一月、エジプトを除くアラブ二〇カ国はアラブ連盟首脳会議を開催し、「裏切り者」としての制裁措置として、アラブ連盟へのエジプトの加盟資格の停止、アラブ連盟本部のカイロからチュニジアチュニスへの移転などを決議した。エジプトはアラブ社会から村八分にされた。

 

一七サダト大統領とベギン首相にノーベル平和賞

サダト大統領のイスラエル訪問と和平条約の締結は欧米諸国から高い評価を受ける。この功績にサダト大統領とベギン首相はノーベル平和賞を受賞した。

 

(一八)「イラン革命」、ホメイニ師イスラム革命勢力が全権掌握

イランは一九三五年から国号を「ペルシャ」から「イラン」に改称している。一九四一年から続いていた親米的パーレビ王国は一九六三年の「白色革命」を経て急速な西欧化を進めていたが、石油外交の破綻などから国民の不満が高まり衰退が進んでいた。

アヤトラ・ホメイニ師(一九〇二~八九)は一九六四年から国外追放されてフランスに亡命していたが、そこにいながらイラン国内の反政府勢力を動かしていた。

一九七八年一月、イスラムシーア派の聖地コムで神学生による大規模な反政府デモが発生し、政府側の鎮圧部隊との衝突で約六〇人が死亡する惨事が発生した。これをきっかけに各地で反政府の動きが次々と起きていった。

一九七九年一月、ホメイニ師シーア派法学者を支柱とする国民の革命勢力が、国王の専制や経済不安などからイスラム原理主義を掲げ、大規模な国王追放運動を起こした。パーレビ国王らは国外へ亡命、パーレビ王朝は倒れた。

二月、ホメイニ師がパリから帰国。イラン・イスラム共和国(イラン)が樹立され、ホメイニ師が最高指導者として実権を握った。イラン革命(イラン・イスラム革命)である。

 

一九イラク大統領にサダム・フセイン

イランの革命は、周辺アラブ諸国に大きな衝撃を与えた。

一九七九年七月、イラクではバルク大統領の辞任を受け、サダム・フセイン(一九三七~二〇〇六)が大統領に就任した。フセインは革命評議委員会議長、バース党書記長、国軍の総司令官なども兼任し要職を一身に集め権力を掌握した。チグリス河のほとりのタクリート出身で、イラク国内では少数派のスンニ派である。

 

二〇テヘランアメリカ大使館人質事件

イランではホメイニ師の呼びかけに反アメリカの動きも でた。

一九七九年一一月四日、テヘランで「アメリカ大使館人質事件」が起きた。イランから亡命したパーレビ国王らの入国を、アメリカが受け入れたことに反発したイスラム法学校の学生らが元国王の引渡しを求めテヘランにあるアメリカ大使館を占拠した。外交官ら五二人を人質に四四四日間も占拠した事件である。この事件をきっかけにイランとアメリカは国交を断絶し敵対するようになっていった。

なお、翌年四月、カーター大統領は人質奪還のため特殊部隊をイランに派遣するが、輸送機とヘリコプターが砂嵐のため接触墜落、救出は失敗に終わっていく。

 

二一ソ連軍、アフガニスタンに侵攻

一九七九年一二月二七日、アフガニスタンのクーデターに乗じソ連軍はアフガニスタンに侵攻を開始した。

これに抗議するアメリカのカーター大統領は一九八〇年のモスクワ・オリンピックのボイコットを呼びかけ、日本もオリンピック出場を断念した。

ソ連軍の侵攻に対抗してイスラムの「ムジャヒディン」(イスラム聖戦士)が立ち上がる。その後アフガニスタンの泥沼戦争は一九八九年のソ連軍撤退まで約一〇年間続いていく。