第一五章 一九八〇年代の中東情勢

一九八〇年代に入ってさらに中東情勢は不安定で激変していく。その中東情勢の概略を年代順に見ていく。

 

一九八〇年

)エジプトとイスラエル国交樹立

一月、エジプトとイスラエルは前年の和平条約の正式調印を受けて国交を樹立した。

 

イスラエル入植地に係る安保理決議(四六五号)、イスラエルこれを無視

三月、国連安保理は「イスラエルエルサレムを含むアラブ側の領土を占領し、または入植地を建設した行動を全て無効とし速やかな撤退をすること」を内容とした「アラブ占領地におけるイスラエル入植地に関する決議」をした(安保理決議四六五号)。

しかし、イスラエルはこれを無視し、占領地を返還する意思もなく入植を続けていく。

 

イスラエルエルサレム基本法制定、「エルサレムは永遠の首都」と宣言

イスラエルは「エルサレムは我が国の首都だ」と明確にしていく。

七月、イスラエル議会(クネセト)は「エルサレム基本法」を制定し、「東西統一されたエルサレムイスラエルの永遠の首都」であると改めて決議した。以後、イスラエルは「首都はエルサレム」だと主張している。しかし、この首都宣言はイスラエルが一方的にしたものであり、現在でも国際的にはエルサレムイスラエルの首都だと承認されておらず、今も首都論争が続いている原点がここにある。

 

)イラン・イラク戦争始まる

イラクもイランと同じようにスンニ派よりシーア派のほうが多い。フセイン大統領は少数派のスンニ派である。フセインはイランのシーア派による革命が成功したことに大きな衝撃を受けた。自国内のシーア派がイランのような動きをしないか心配の上に国境問題があった。一九七五年に締結された「アルジェ協定」では両国間の国境地帯を流れるシャトル・アラブ川の中央部が国境線となっていたがフセインは川全体がイラクの領土だと主張している。フセインは一方的に協定の破棄を宣言した。イラン革命でまだ安定していない今がイランを攻める絶好のチャンスだと判断したフセインはイランに攻撃を加える。

九月二二日、イラクはイランの空軍基地を空爆、イランはこれに応戦した。「イラン・イラク戦争」の始まりだった。イランと国交を断絶しているアメリカは、反共とイスラム革命の防波堤としてイラクの支援に回った。

 

一九八

サウジアラビアのファハド皇太子、「中東和平案」発表

イスラエルは一九七九年にエジプトと和平条約を締結すると一九八〇年には「エルサレムイスラエルの永遠の首都」であると宣言した。イスラエルのこれらの動きをアラブ連盟諸国は許すことはできない。こうした中でサウジアラビアのファハド皇太子(後の第五代国王)はイスラエルパレスチナ人の独立国家の樹立などを認めるよう求める「ファハド和平案」と呼ばれる中東和平案を発表した。。「パレスチナ人の独立国家の樹立」を前向きに出している和平提案にPLOや他のアラブ連盟加盟国もこれを支持した。サウジアラビアからこの提案が出されたのはイスラムのメッカ、メディナの二聖都を擁する国家として岩のドームなどがある聖都エルサレムを異教徒のイスラエル支配下から解放したい想いがあったのが第一の理由であった。

 

アメリカ大統領、カーターからレーガン

アメリカのカーター大統領の人気は、イランでのアメリカ大使館員の人質救出作戦の失敗後急速に下向になり、再度大統領を狙った選挙でロナルド・レーガン(一九一一~二〇〇四)に敗れた。

一月二〇日からレーガンアメリカ大統領に就く。

 

イスラエルイラクの原子炉爆撃

イスラエルはエジプトと和平条約を結び、エルサレム基本法を制定し、安保理決議四六五号を無視し入植を続け、独立国として国力を一段と強くしている。このような状況下でアラブ側にかなり挑発的行為を続発させてくる。イラクの動きにも神経をとがらせていた。危険なものは早く除きたかった。

六月、イスラエルイラクの首都バグダード近郊に建設中であったオシラク原子炉を空爆し破壊した。

 

)エジプトのサダト大統領暗殺される

一九八一年はエジプトのサダト大統領の就任から一一年、第四次中東戦争終結して八年を経た年であった。

サダト大統領はイスラエル訪問と和平条約の締結を成し遂げ、欧米諸国から高い評価を受けていた一方、国内情勢の不安定に加え、エジプト周辺アラブ諸国との関係は悪化してきていた。こうした中で事件は起こった。

一〇月六日、エジプトではカイロ郊外で第四次中東戦争を記念する式典が行われた。サダト大統領が軍事パレードの閲兵中であったその時、一台のトラックが突然車列を離れて観閲台に近づき、手榴弾と銃弾を浴びせた.凶弾は大統領の命を奪い去った。大統領を狙ったのはイスラエルとの和平に反対していたイスラム過激派ジハード団に属する軍人ハリド・イスランプリ中尉ら四人であった。犯人たちは直ちに逮捕され裁判にかけられた。彼らは「パレスチナイスラムの敵であるイスラエルとの単独和平に走り、その一方で経済開発に狂奔し物質主義におぼれたサダトは殺されるべき」、「我らはサダトを殺したが有罪ではない。全ては、我が宗教と祖国のための行為である」と主張した。そして、その背後には原理主義の大物の指令があったともいわれる。一一年にわたるサダトの統治時代は終わり和平への夢は叶わなかった。

 

)暗殺されたサダト大統領の後任に副大統領のムバラク

一〇月一四日、暗殺されたサダト大統領の後任に副大統領のホスニー・ムバラク(一九二八~)が就く。以後ムバラクは、長期政権を維持していくこととなる。

 

(六)イスラエルゴラン高原併合法案を可決

一一月、イスラエルは占領中のシリアのゴラン高原を併合する法案を成立させた。

 

一九八

イスラエル軍シナイ半島撤退完了、シナイ半島エジプトへ返還

四月、イスラエル軍シナイ半島から撤退を完了。シナイ半島はエジプトへ返還され、イスラエルの領土は現状に近いものに画定していった。

 

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イスラエルレバノンへ侵攻(レバノン戦争)、PLOを攻める

イスラエルレバノン対策

レバノンでは一九七五年からの内戦で不安定状況が続いている。PLOはベイルートに拠点を置き、レバノン南部の「ファタハランド」からイスラエルへの攻撃を断続的に続けていた。

イスラエルは南のエジプトとのシナイ半島問題が一段落し、エジプトとの関係が安定したところで北のレバノン国境での問題に力を注ぐことになる。「ガリラヤ地方の安全を守る」として内戦で消耗したレバノン南部のPLOゲリラの拠点攻撃にでる。イスラエルの戦略はこれだけではなかった。同時にレバノンに対するシリアの影響力を弱めるためにレバノンにいるシリア軍も追い払いたい、さらにレバノンに親イスラエル的な勢力を強めレバノンイスラエル寄りにさせたかった。イスラエルレバノン南部を攻撃する。

 

イスラエルレバノン侵攻、イスラエルはこれを「ガリラヤ平和作戦」という

六月四日と五日、シャロン防相の指揮のもとイスラエル軍レバノン南部を中心に猛烈な空爆を行った。

六月六日、約八万もの機甲部隊がレバノン国境を越え、ファタハランドのPLOの拠点を攻めた。「レバノン戦争」の始まりである。南レバノンから家を失った難民がベイルート流入していった。六月八日には国連の停戦案をPLOとレバノンが受諾したがイスラエルは拒否した。イスラエル側はこの戦争をレバノンに攻め入ったのではなく「ガリラヤ地方をテロリストの攻撃から守り、平和をもたらすための作戦だ」との言い分で「ガリラヤ平和作戦」と呼んでいる。しかし、シャロンの攻撃は「守りの平和をもたらすもの」でなかった。当初はこの侵攻はレバノン南部の防衛的な攻撃作戦だとしていたが、シャロンの強引な攻撃は防衛的な目的を逸脱して北上しベイルートの占領にまで拡大し、ベイルート市民にも多くの死傷者が出る惨事となった。

六月二〇日、事態を憂慮したレバノンのサルキス大統領は救国委員会を開催しPLOの降伏とシリアの撤退を呼びかけた。しかし、イスラエルは攻撃を止めず、シャロンの強引なレバノン国内への侵攻にレバノン南部やベイルートは大混乱となっていった。

六月下旬からベイルートを中心に大爆撃が繰り返され多くの犠牲者が出た。ベイルート市街地は徹底的に破壊が繰り返され廃墟寸前となった。PLO拠点のある地域も廃墟同然となった。PLOが受けたダメージは計り知れない。

 

)PLO拠点、レバノンからチュニジアチュニスへ移る

レバノンの混乱は収まらない。レバノンの住民らは「PLOがこの国に留まっている限り自分たちに身の危険は去らない」と劣勢となったパレスチナ武装組織に国外退去を迫っていった。他のアラブ諸国もあまりこの問題に介入するのを躊躇した。PLOの追い出しは必然となった。

七月、アラファトは苦慮するが国際的な反応やアラブ諸国の現状から遂にレバノンを離れる決断をする。

八月一二日、五万人以上の死傷者を出した戦争はようやく終わった。

八月一九日、アメリカ仲介のレバノン退去案が合意された。

八月二一日、米、仏、伊の部隊による援護の中、軍事的に敗北したパレスチナ武装組織の退去が開始され、バラバラになってがチュニジアやシリア、イラク、イエメンなどに離散していった。

PLOの一団は仲間と共にアラブ連盟本部のあるチュニジアへ向かい、PLOの拠点はベイルートからチュニスに移った。

八月三〇日、アラファトは最後のPLO幹部のメンバーとしてレバノンを離れた。PLOの最終退去は翌年までかかったが一二年にわたるレバノンにおけるPLOの歴史はここに幕を下ろした。

PLOの拠点がレバノンから離れたということは、イスラエルからすれば「PLOをベイルートから追放した」ということであり、またこのことは、「イスラエルという国家主体とPLO(パレスチナ人組織)という非国家主体」との戦闘の結果であったという意味で、「武力による国家間闘争」である通常の「戦争」とは異なり、今も続く「イスラエルパレスチナの紛争」の始まりの戦争であったともいうことができ重要な意義を持つといわれる。

 

レバノン、次期大統領にジェマイエル選出

八月、レバノンは、PLOの拠点が国外へ抜ければ新しいレバノンが生まれることも期待し、新大統領を選出した。マロン派キリスト教ファランジスト党のバシール・ジェマイエルである。イスラエルのベギン首相はジェマイエルがレバノン国内から反イスラエル勢力を一掃してくれることを期待していた。しかし、その期待は一カ月も経たないうちに消え失せる。

 

)ジェマイエル暗殺、マロン派民兵パレスチナ難民キャンプ大量虐殺事件

九月一四日、レバノン次期大統領のジェマイエルが東ベイルートにあるファランジスト党の支部での大爆発により暗殺される事件が起きた。

九月一六日、マロン派民兵は、ジェマイエル暗殺はパレスチナ側によるものだと主張し、その報復の攻撃にでた。イスラエル軍が包囲した二つの難民キャンプ(サブラとシャティーラ)にPLOの残したゲリラが隠れているとしてマロン派民兵が乱入し、一八日までに老若男女を問わず二〇〇〇人とも三〇〇〇人ともいわれる難民を虐殺するという大惨事を起こした。レバノンの混乱はまだまだ続いていく。

 

アメリカのレーガン大統領、中東和平の新提案発表、イスラエル側拒否

九月一日、PLOの拠点とともにアラファト議長らがベイルートから撤退した翌日である。アメリカのレーガン大統領は「新たな出発」と題した中東和平についての新堤案を発表した。「レーガン・プラン」と呼ばれる提案は基本的にはサダト、ベギン両首脳が一九七八年にキャンプ・デービッドで合意した条件を下敷きにしたものであったが新しい点も含んでいた。

などの考えが主軸になっている。

この提案をイスラエルのベギン首相は即座に「そのような提案は受け入れられない」との声明を発表して拒否した。

 

レーガン提案に対し、アラブ首脳会議が示した和平提案「フェズ憲章」

アラブ側の「フェズ憲章」

レーガンの提案に対してアラブ側は概ね好意的に受け止めた。しかし、PLO内部の強硬派やシリアなどは「パレスチナ人の独膣国家を認めたものではないとして反発する姿勢を見せた。

九月九日、アラブ諸国レーガン提案を基にモロッコのフェズで開催されたアラブ首脳会議で協議し、次のような和平提案を採択した。「フェズ憲章」といわれる。イスラエル側はレーガン提案を拒否したが、アラブ側はこれをアラブ統一の中東和平提案として逆提案した形であった。

一、東エルサレムを含む第三次中東戦争イスラエルが占領した地域からの完全撤退

一、PLO指導下でのパレスチナ人による自治権の完全な行使

一、東エルサレムを首都とするパレスチナ人の独立国家の樹立

一、パレスチナ独立国家を含む周辺諸国の安全の保障

など八項目がが謳われた。その基本的内容は前年のサウジアラビアのファハド皇太子案とほとんど同じであった。

 

和平への提案、進展せず

レーガン提案により、中東和平の進展によせる国際的期待は大いに高まったが、シリアやPFLPは依然厳しい姿勢を崩さず、PLO主流派も賛成とも反対とも声明を発しないままであった。またイスラエル側がどのように対応するかに関心が注がれたが、フェズ憲章の発表の一週間後にパレスチナ難民キャンプ場での大虐殺事件が起き、周辺アラブ諸国の態度も一変し、結果的にレーガン提案やフェズ憲章は目に見えた動きを見せないまま自然消滅的な結果で終わってしまった。

 

一九八

イスラエルシャロン防相解任

イスラエル軍レバノン侵攻と難民キャンプ虐殺事件は、イスラエル建国以来最大規模の政府に対する国民の抗議行動に発展していく。この襲撃の裏にイスラエル軍の関わりがあったとされ、シャロンの責任問題が出てくる。「パレスチナの難民キャンプをレバノン側に襲撃させたのだ」「シャロンはそれを黙認、見て見ぬふりをして対応しなかった」とシャロンに向けての批判が高まり、また国際的にも激しい非難が起きた。イスラエル政府はこの事態を重大視し、調査委員会を設置し調査を始めた。

二月、イスラエルレバノン侵攻について調査委員会は報告書を提出、「ジェマイエル暗殺直後の報復の危険を無視した」「難民虐殺はシャロンの責任」と激しく指摘した。ベギン首相は間もなくシャロンの国防相を解任したが、この事件がベギン政権に与えた後遺症は大きかった。

 

イスラエル、ベギン首相辞任、後任に同じくリクードの外相シャミル

九月、シャロンの解任から約半年後、首相のベギンも辞任し、政界を引退した。

一〇月、外相のイツハク・シャミル(一九一五~二〇一二)が後任の首相になる。シャミルはベギンの創設したリクードで一九八〇年には外務大臣に就いており、対パレスチナ政策の強硬派、中東和平には消極的である。

 

一九八

イスラエル総選挙、リクード労働党の挙国一致内閣誕生、首相にペレス

一九八四年、イスラエル総選挙が実施された。過半数を得た政党はなく、その結果リクード労働党の挙国一致内閣が誕生した。首相は任期の前半は労働党から、後半はリクードから選出するとの合意があり、前半八六年までの首相に労働党党首のシモン・ペレス(一九二三~二〇一六)が就いた。

 

一九八

(一)ヨルダンとPLO、共同和平方式の合意(アンマン合意)

レバノンを追われチュニジアにPLOの拠点を移していたアラファトは、それまでの武力闘争から次第に外交的攻勢へと解放闘争姿勢に変化を見せるようになる。ヨルダン、エジプト、サウジアラビアなどとの関係を改善強化していった。

二月、アメリカの仲介もあり、アラファトはヨルダンのフセイン国王とアンマンで和解をする。

アラファトが一九七〇年にヨルダンを追われて以来一五年、ここにきて両者の関係悪化は修復されることになった。

「ヨルダンとパレスチナ人との国家連合の樹立」、「ヨルダン・パレスチナ合同代表のメンバーはヨルダン政府とPLOとする」ものであり、共同和平方式の「アンマン合意」と呼ばれる。

アラファトは今まで一貫して「パレスチナ全土を解放する」との目標を掲げていたが、次第に現実的な解放となる「ミニ・パレスチナ国家案」に路線を変換していった。

 

一九八

一〇月、イスラエル首相は労働党のペレスからリクードのシャミルになる。一九八四年の挙国一致内閣の発足の時の合意によりリクードからの選出であり、シャミルは一九八三年に次ぐ二回目の就任である。一九九二年まで政権を担った。

 

一九八

パレスチナ、「インティファーダ」(自主的民衆一斉蜂起)発生

和平交渉が進まず、イスラエルパレスチナ対応が厳しくなればなるほど、占領下のパレスチナ人のイスラエルに対するフラストレーションは高まっていく。特にガザ地区での閉塞状態、経済不安は限界にきており、もはや暴発寸前の状態にあった。

一二月六日、ガザの市場でユダヤ人入植者がパレスチナ過激派により刺殺されるという事件が起きた。

一二月八日、イスラエル領内で働いてガザに帰ってきたパレスチナ人労働者の二台のバンに、イスラエル軍の大型トレーラーが突っ込んでパレスチナ人四人が即死、七人が重軽傷を負う事故が起きた。頑丈な軍トレーラーを運転していたイスラエル兵は無事だった。これは二日前の事件の入植者の親族による報復だとの噂が広まり、パレスチナ側でイスラエル軍に対する怒りの声が沸き上がった。

翌九日、ジャバリア難民キャンプ場近くで住民と見回りに来たイスラエル軍の予備役兵の間でもめ事が起きた衝突が起きた。イスラエル兵が投石するパレスチナ人の若者を拘束したため、その身柄を取り戻そうとする民衆と衝突が起きた。「ジハード」を叫び投石する子供を含むパレスチナ民衆にイスラエル軍が発砲、パレスチナ人の一七歳の少年が死亡した。少年の遺体が安置された病院の周りには三万人ともいわれるパレスチナ人が集まり、強引に少年の遺体を奪い取り葬儀の行進を始めた。弔いの行進は自然発生的にイスラエルの占領に対する抗議集会の波となり、民衆は手に手に石やガラス瓶、熊手などで警備に当たっていたイスラエル兵に襲いかかっていった。

一〇日以降、この事件をきっかけに鬱積していた怒りを爆発させたパレスチナ民衆が、ガザのみでなく、ヨルダン川西岸でも、イスラエル軍に投石し、占領に対する抗議運動といえる「自主的民衆一斉蜂起」となり大暴動に発展した。「インティファーダ」(アラビア語で「振り落とす」「払いのける」の意)と呼ばれる。「石の蜂起」とも。今までのパレスチナ人のイスラエルに対する積もり積もった不満が一気に噴出した行動であった。

 

アラファトチュニジアからインティファーダ支援

当初インティファーダは一般民衆の自主的な行動で、いわば自然発生的に起こり組織化されたものではなかった。しかし、パレスチナ民衆の投石抵抗は止まず、大きく頻繁に起きてくるようになるとパレスチナイスラエルに対しての大きな圧力行動となっていく。当時、PLO本部はチュニジアにあり、アラファトは直接インティファーダには関与していなかったが、インティファーダが対イスラエルへの大きな動きになってくると、アラファトはこれを好機ととらえ組織化し、うまくPLOの活動に取り入れようとした。アラファトチュニジアからパレスチナのフサイニーらインティファーダ指導者と連絡をとりながらこれを支援していった。

 

)ヤシーン師ら、イスラム抵抗運動「ハマス」を結成

アラファト主導のPLOも一枚岩ではない。その上アラファトの活動拠点はチュニジアにある。チュニジアから離れたガザではPLO主流とは別の動きが起きてきた。

一二月九日、インティファーダの勃発をうけて、ガザのアフマド・ヤシーン師の自宅に師の派幹部七人が集まりイスラム抵抗運動の一翼を担う組織として、PLOの影響力を排除した民衆レベルの組織を結成することを決めた。

一二月一四日、ヤシーン師によりムスリム同胞団パレスチナ支部を母体として「ハマス」が結成された。「ハマス」という名称は「イスラム抵抗運動」のアラビア語での頭文字から名付けたられたもので、イスラエルとの共存ではなくパレスチナ人による「パレスチナ地域全土」の奪回を目標に掲げていった。「ハマス」はPLO主流傘下に入らず、以後パレスチナの運命を左右するような動きをするようになる。

 

一九八

イスラエル特殊部隊、PLO最高幹部アブ・ジハードを暗殺

四月、イスラエルのシャミル政権はインティファーダを指導しているPLOの最高幹部アブ・ジハード排除を決定し、特殊部隊がチュニジアの自宅を襲撃し百発以上の銃弾を浴びせ暗殺した。ジハードはアラファトと共にファタハを創設した一人で、PLOのインティファーダを組織化したPLOのナンバー・ツーの指導者であった。

 

)緊急アラブ首脳会議開催、インティファーダ支援を決める

インティファーダがアラブ世界に与えた衝撃は大きかった。

六月、緊急アラブ首脳会議がアルジェで開催され、インティファーダへの全面的な支援の約束を決議した。アラファトインティファーダの組織化に力を入れていく。

 

)ヨルダン、ヨルダン川西岸の領有権放棄を表明

インティファーダの長期化は、パレスチナ人口を多く抱えたヨルダンの統治に変化をもたらす。

七月三一日、インティファーダが始まって約八カ月、インティファーダの長期化を受けて影響が自国へ波及することを懸念したヨルダンのフセイン国王は、一九五〇年以来ヨルダンが併合していたヨルダン西岸について「法的、行政的な関係を切る」との「領有権放棄」を表明した。西岸に対する主権を正式に放棄し、パレスチナ側に委ねるとした。ヨルダンが領有権放棄を決めたのは、第一次中東戦争で西岸地区を自国領として併合したが、インティファーダの混乱がパレスチナ人口を多く抱えた自国に波及することを恐れたためともされる。

アンマン合意以後PLOとの仲も良好となり、独立したパレスチナ国家を創りたいというパレスチナ人の意向を考慮したものであり、PLOにとって画期的な「パレスチナ国家」固めへの重要な足がかりとなった。

 

アラファト、従来からの強硬な国家構想方針を転換へ

アラファトの動きはインティファーダの発生とアブ・ジハードの暗殺を機に大きく「平和攻勢」に変わっていく。

更にアラファトはヨルダンの「ヨルダン川西岸の領有権放棄宣言」が出されたことを好機ととらえ、今まで「イスラエル殲滅」「パレスチナ全土解放」を目標にしてきた方針を「イスラエル生存権」を認める方向に変え、国家の範囲をパレスチナ全土の約二二%に当たる「ヨルダン川西岸とガザ地域に縮小したパレスチナ国家」の樹立構想に転換していった。

 

ハマス、「イスラム抵抗運動憲章」(ハマス憲章)を発表

アラファトの動きにハマスを始め反対派はさらに強硬姿勢を強めていった。

八月一八日、ハマスは「イスラム抵抗運動憲章」(ハマス憲章)を発表した。ハマスイスラエルに対抗する組織としての「ハマスの行動指針」としてこれを示した。「パレスチナの地はイスラムの土地であり、神からイスラム教徒に委託された土地だ」としている。歴史的パレスチナの地全体を所有権の移転を禁じる「ワクフ」(イスラムにおける寄進財産)としてとらえ、アラファトの進める動きに合わせず、全土解放を図るとすることなどを基本に独自の対抗勢力となっていく。

 

)イラン・イラク戦争終結

レーガン大統領は、イラン・イラク戦争にはソ連、イランの動きを見ながらフセインの武器要求などに柔軟に応じていった。それだけアメリカはイランの反米の動きを気にしていた。欧米から武器の供与を受けたイラクは、一九八八年八月まで約八年続くこの戦争を通して、中東第一の軍事大国になっていく。

八月二〇日、兵器強化を図り強国化したイラクの勝利の形で終結した。一九八〇年から八年間という大変長く激しい流血を伴った戦いは、双方とも無駄な戦費を費やし惨状を残して安保理決議を受け入れて終わった。

 

アラファト、「パレスチナ国家独立」を宣言(パレスチナ民族評議会)

一一月一五日、第一九回パレスチナ民族評議会(PNC)がアルジェリアの首都アルジェで開催され、(まだ実体はないが)パレスチナの「独立宣言」が採択された。アラファト議長が「パレスチナ国家」の独立宣言を読み上げた。従来からの「シオニスト国家打倒によるパレスチナの解放」政策から「ヨルダン川西岸とガザ地域で、東エルサレムを首都とするパレスチナ独立国家を建設する」と根幹方針の転換となる宣言を採択した。

宣言は「イスラエル国家承認」を明確に表現していないが、イスラエルが占領しているヨルダン川西岸(東エルサレムを含む)とガザに「パレスチナ国家」を樹立することを条件に、第三次中東戦争後の一九六七年の国連決議二四二号及び一九四七年の国連パレスチナ分割決議一八一号を認める形で「イスラエル国家の存在を受け入れた」といえる歴史的な宣言であった。

だがアラファト主導のこの「パレスチナ全土解放政策の断念」と「二国家共存」を認めようとすることを意味する宣言にPFLPのハバシュやDFLPのハワトメら強硬派は賛成できないと反発しており、その後のアラファトの統率力が注目されていく。

 

アラファト、国連総会で「パレスチナ国家」宣言へアピールと和平へ決意

アラファト、国連総会で和平への基本姿勢表明

一二月四日、国連総会はパレスチナ問題に関する国連特別総会を開き、アラファトを総会に招くことを決議した。決議に反対したのはイスラエルと「アラファトはテロに関与している」としたアメリカであり、一五四カ国が賛成した。

一二月一三日、アラファトはスイスのジュネーブで開かれた国連総会で演説し、パレスチナ民族評議会(PNC)でのパレスチナ国家宣言を基に和平への基本姿勢を表明し和平案を提案した。アラファトが初めてイスラエルの存在を認めた瞬間であった。

 

アラファトの和平への基本姿勢

一二月一四日、アラファトは記者会見で前日の演説内容をより具体的に述べた。

  • 中東紛争に関わる当事者、即ち、パレスチナ国家、イスラエルおよび他の近隣諸国が、平和と安全の中で生きる権利を承認する。
  • また、PLOはあらゆる種類のテロ行為を、完全に絶対的に放棄する。
  • そして、国連安保理決議第二四二号(第三次中東戦争後の決議)と第三三八号(第四次中東戦争後の決議)を受諾する

と述べ、和平への基本姿勢をより詳細に表明した。イスラエルとの共存をうたう和平への基本姿勢を明確にした。

 

)国際社会は「パレスチナ国家」構想に期待、アメリカはPLOと対話開始

アラファトの「イスラエル国の存在」を認めたこと、「テロ放棄をする」としたこと、「国連決議を受諾した」ことへのアピールは、欧米始め広く国際社会から和平への期待を抱かせた。

欧州共同体(EC)は「PNC決議はアラブ・イスラエル紛争の平和的解決に向けての積極的な一歩」だと好意的な生命を発表した。

アメリカはアラファトの発言を受け、PLOを交渉相手として正式に認めていくようになる。そしてこの歴史的なパレスチナ国家独立宣言からアメリカとPLOの対話が始まった。パレスチナ国家の独立宣言は約一〇〇カ国が承認した。

 

一〇イスラエル、「パレスチナ国家」構想に反発

パレスチナ国家構想」に期待が高まる中、イスラエルは反発する。イスラエルのシャミル政権はアラファトの「パレスチナ国家」構想に積極的に応えようとはしなかった。「この構想はPLO全体を代表したものではない」「PLOは今まで長い間テロを続けてきた。テロを放棄するというが信用できない」とアラファトの基本姿勢と構想を無視した。

 

一九八

アメリカ大統領、レーガンからジョージ・H・ブッシュに

一月、アメリカ大統領は、レーガンからジョージ・H・ブッシュ(一九二四~)になる。

 

ソ連軍、アフガニスタンから撤退完了

二月、ソ連軍は介入から一〇年の泥沼を出て、アフガニスタンから撤退を完了した。ソ連は多くの軍将兵を失ったばかりではなく、ソ連自体も疲弊しソ連崩壊へと続いていく。

 

イスラエルハマスのヤシーン師を逮捕、ハマス一段と先鋭化

五月、ハマス指導者ヤシーン師は、ハマスによるイスラエル兵の誘拐殺人事件や武器購入画策疑惑などの理由でイスラエル側に逮捕され、終身刑判決で刑務所に入れられた。

六月、イスラエルハマスをテロ組織と認定し非合法化した。ハマスは対イスラエル姿勢を硬化し、一段と先鋭化していく。

 

)エジプト、アラブ連盟に復帰

アラブ連盟から除外されていたエジプトは、一〇年ぶりに連盟に復帰、連盟本部もチュニスからカイロに戻った。

 

)イラン、ホメイニ師死去、後継はハメネイ

六月、イラン革命の父ホメイニ師が死去し八月にハメネイ師が後を継いだ。大統領にラフサンジャニ師が就いた。

 

レバノン内戦、「タイフ合意」で一応の終結

一九七五年から続いていたレバノンの混乱は、一〇年以上経ってシリアがレバノンを事実上支配する形で終わりが見えてきた。

一〇月、レバノン内戦の終結サウジアラビアの仲介により、サウジアラビアのタイフで各派代表による会合が行われ、シリア軍の撤退の件などを決めた「タイフ合意(レバノン国民和解憲章)」が採択され、一九七五年から続いた内戦は一応の決着を見た。(しかし、その後もシリア軍は駐留を続け完全撤退はなかった。レバノン南部ではシーア派ヒズボラが対イスラエル抵抗運動を継続し、レバノンの混乱は止むことはなかった。)

 

ベルリンの壁崩壊と米・ソ冷戦終結

一一月、ベルリンの壁が崩壊した。

一二月、アメリカのブッシュ大統領ソ連ゴルバチョフ書記長によるマルタ会談で米・ソ冷戦が終結した。