第一七章 二〇〇〇年から二〇〇九年までの中東情勢
二〇〇〇年(平成一二年)から二〇〇九年(平成二一年)までの主な中東情勢について年を追って見ていく。
二〇〇〇年
目まぐるしい国際情勢の変化の中、イスラエル、パレスチナを取り巻く諸情勢も刻々変転し、予断を許さない状況が続く。和平を目指す動きを進めるが道は遠い。
バラク首相は基本的に和平派である。シリアとの和平交渉にも意欲的だった。シリアとの平和条約の締結は、安全保障上、計り知れないほど重要であり、レバノン最南部の「安全保障地帯」からのイスラエル軍撤退は公約の一つでもあった。
五月、イスラエルはレバノン南部より軍を一方的に全面撤退させた。シャロンがレバノンに本格侵攻して以来一八年ぶりにイスラエル軍はレバノンを去った。
(二)シリアのアサド大統領死亡、後任は次男バッシャール・アル・アサド
七月、シリアのハーフィズ・アル・アサド大統領が死去した。三〇年近くの就任であった。長男のパッシールは一九九四年に交通事故で死亡しており、次男のバッシャール・アル・アサド(一九六五~ )が大統領に就任した。シリア国民の大半はスンニ派であるがアサド一族はシーア派でイランとの結びつきは強い。
(三)クリントン大統領仲介の和平交渉、キャンプ・デービッドで始まる
バラク首相は和平に積極的、クリントン大統領は最終的地位交渉の結果を出そうと和平仲介を急ぐ
イスラエルのバラク首相は来年二月の首長選を前に和平への動きを激しくする。イスラエル国内では、バラクの和平への動きにリクードのシャロンをはじめ右派勢力は対抗姿勢をさらに強め、宗教政党などが政権を離脱すると政権も揺らいでくる。首長選でシャロンに負けるわけにはいかないバラクは早くアメリカの仲介によりアラファトと合意し、政権も安定したかった。和平交渉で、合意を持ち帰れば、選挙に勝てると踏んでいた。
またクリントンの大統領任期は来年一月迄であり残り期間は余りない。任期切れを前に和平交渉が気になるクリントンは急ぎ仲介に動いた。バラクもクリントンも期間内に最終的地交渉の結果を出そうと焦りも出てくる。
キャンプ・デービッドで和平交渉始まる
和平交渉の進行を強く求めたのはバラクであった。アラファトは自治交渉でイスラエル軍が撤退するとした領域がすべてパレスチナ側に返還されるまで待ちたかった。交渉内容を詰めるためにももう少し時間が欲しかったのであまり乗り気でなかった。だがクリントンは仲介を急いだ。
七月一一日、クリントンの仲介によりバラク、アラファトによる集中和平交渉がキャンプ・デービッドで始まった。各国は今度こそ和平の実現につながる重要な合意に達するのではないかと期待した。「キャンプ・デービッド交渉」と呼ばれる。約二週間を予定した。一九七八年に「イスラエルとエジプト和平交渉」も同じキャンプ・デービッドで行われていたので今回の交渉を「キャンプ・デービッド・ツー」とも呼ばれる。
交渉の主要点は①イスラエル軍の撤退、②ユダヤ人入植者の削減、③エルサレムの帰属、④双方の境界線の画定、⑤パレスチナ難民の帰還など一九九三年のオスロ合意で先送りされていた難問ばかりであるが、先ずは境界線、エルサレムの帰属、難民問題を最重要テーマとして絞っていった。中でも最難関とされるのが聖地エルサレムの帰属問題であった。
(四)クリントン大統領、和平合意への「基本原則」を示す
クリントンは、バラク、アラファトとそれぞれ個別に相談した後、協議が始まった。協議中の妥協案が報道を通じて外部へ流れる恐れから完全な情報統制が敷かれ、クリントンは交渉の始めに合意への基本原則を示してこれをたたき台にバラクとあらあふぁとの協議を詰めるよう促した。
まず国境は第三次中東戦争直前の「グリーンライン」を原則とするが修正や補償措置も可能とする。次にエルサレムの帰属については旧市街の「主権を分割」するとした。パレスチナ側は「(ハラム・アッシャリーフを含む)イスラム教徒地区とキリスト教徒地区、それに城壁外のパレスチナ人居住区」を管理下に置くとし、イスラエルは「城壁内のユダヤ教徒地区とアルメニア教徒地区、そして東エルサレムのユダ人入植地、さらにエルサレム市行政区外にあるユダヤ人居住区を管理下に置くとした。
また難民問題での「帰還権」についてはパレスチナ側の「象徴的必要性」とイスラエル側の「ユダヤ人国家」を堅持したいという「現実的必要性」を調和させるというものである。
バラクはクリントン案に前向きに反応し、さらに大幅な譲歩を示す
バラクとアラファトの交渉はクリントンが示した基本原則を中心に進められたがなかなか進展しなかった。しかし、バラクは柔軟に対応した。基本的にクリントンの調停案を受け入れる姿勢を示しつつ、ガザ地区全域とヨルダン川西岸の九二パーセントをパレスチナに返還する案を提示するなどパレスチナ側に接近した。即ち、占領地域の一部返還と「エルサレムの分割」を受け入れていいというのである。イスラエルは今まで一貫して「エルサレムは永久の首都」であると歴代内閣は労働党、リクードを問わず主張してきていたが、バラクはこれを「撤回した」ともとれる「大胆かつ画期的」な反応を示したといえる。
バラクの思い切った譲歩にもアラファトは良い反応をしなかった。アラファト自身、ムスリムを代表して「聖地エルサレムの主権」問題をここで決定する権限を持っていなかったし、その考えもなかった。あくまで目指す「パレスチナの国」は旧ヨルダン領の「東エルサレムを首都」とするというアラファト自身の従来からの立場を崩すことはなかった。
交渉は続けられたが、エルサレムの帰属問題、難民の帰還問題を中心にバラクとアラファト双方の意見は噛み合わない。アラファトは難民問題が据え置かれ、特にエルサレムの帰属問題が進展しない中でイスラエルの提案を受け入れるわけにはいかなかった。最大の焦点は「難民」と「エルサレム」だった。
(六)キャンプ・デービッド交渉不調に終わる
交渉まとまらず不調に終わる
交渉は暗礁に乗り上げかけた。時間はもうなかった。丁度この時期、七月二一日から二三日まで沖縄で「サミット」が開催されるため、クリントンは七月一九日には沖縄へ出発する予定であった。だが、交渉の重大な局面に当たり出発を延ばし、一九日はアラファトと七回も会談し調整を図った。だがアラファトは譲る気配を見せなかった。交渉が気になるクリントンはサミット終了直後急ぎキャンプ・デービッドへ帰り、引き続き調整を続けた。しかし、バラクとアラファト双方の意見は噛み合わず、合意に至らなかった。
七月二四日、最後の交渉となった。バラクとアラファトは感情的に対立し、和平交渉は纏まらず不調に終わり決裂した。結局最終は物別れで交渉は閉じられた。
交渉結果にバラクは非難される
交渉結果にイスラエル側とパレスチナ側の反応は相反したものとなる。
イスラエル国内ではバラク政権に対する批判が噴出した。バラクは、シャロンをはじめ和平反対派から「今回の交渉は完全に失敗だった」「パレスチナ側にあれだけの譲歩した結果、イスラエルは何一つとして見返りを得ていない」と強く非難される。
アラファトは評価され、九月一三日のパレスチナの独立宣言を見送る
一方、アラファトは、パレスチナ人のみならず、周辺アラブ諸国からも「エルサレムの主権に関して妥協せず、圧力に負けず良く抵抗した」と高く評価された。そしてアラファトは、独立宣言は逆にイスラエルとの全面衝突を招くとの周辺アラブ諸国の声を入れ、九月一三日のパレスチナの独立宣言を見送った。
バラク、大きな賭けにでる
九月二八日、追い詰められたバラクは大きな賭けに出る決断をした。新聞記者との会見で、和平合意が達成されればエルサレムとアル・クドゥス(東エルサレム)という二つの首都が隣り合うことになろう」と述べ、事実上のエルサレム分割を容認する姿勢を示した。
(七)リクード党首シャロン、バラクの交渉を非難し政権獲得へ積極的に動く
シャロンは長く政界右派の重鎮としてリクード内で影響を持ちながらも傍流にあった。和平推進についてアメリカの仲介でバラクがアラファトとの交渉が進むとシャロンは政権の主導権を攻めあぐねていた。しかし、和平交渉がもたつき始めるとリクードの党首としてシャロンに攻めの絶好のチャンスがやってきた。「バラクは裏切りだ。今までエルサレムは永遠にして不可分の首都と約束してきたではないか。エルサレムを分割しようとするなど信じられない」とバラクのキャンプ・デービッド交渉での譲歩姿勢を強烈に非難した。
国会議員のなかにも、シャロンの意見に賛同する者も多くなり「統一された不可分のエルサレムと治安のための議員連盟」も結成され、次の政権を視野に、バラク政権の追い落とし攻勢を強めていた。またシャロンが次の政権を手にするためには、バラクだけが相手ではなかった。同じリクードの前党首ネタニヤフの政界復帰も大いに気になる。ネタニヤフがシャロン以上に強硬な反和平路線を打ち出している。シャロンは今ここで指導力を発揮し、党首としてネタニヤフに対抗する勢力統一の「秘策」が必要であった。シャロンは「行動を起こすチャンスは今だ」だと考えた。
(八)シャロン、「神殿の丘」へ入る、パレスチナ民衆激しく反発
九月二八日午前七時半、リクード党首のシャロンはリクードの主要国会議員六人を伴い、一〇〇〇人近い武装警官に守られて「岩のドーム」のあるエルサレムのイスラム教の聖地「ハラム・アッシャリーフ」に足を踏み入れた。ここハラム・アッシャリーフは、イスラエル側からすれば「神殿の丘」であり「イスラエルの領地、我々の聖地だ」と主張する地である。多くの反対の声もあったがこれを無視しての挑発的な行為であった。シャロンはバラクがアラファトとの交渉で東エルサレムにパレスチナ側の主権を認めてもいいという方針を打ち出したことへの反対行動を自らの行動で「ここはイスラエルの聖地だ」という主張を実行して見せたのであった。
ハラム・アッシャリーフにいたパレスチナ民衆は「イスラム教の聖地」に入り込んだシャロンの行動に激怒、罵声を浴びせた。一行が去った直後、怒りを爆発させた民衆はイスラエル治安警官隊と衝突し投石を繰りかえす。これに治安警官側はゴム弾で対抗、双方に四〇人もの負傷者が出る事件となった。
(九)「第二次インティファーダ」の勃発、衝突激化
翌日の九月二九日、さらに大きな衝突事件となる。この日は金曜日。モスクで礼拝を終わった民衆は警備のイスラエル部隊と衝突、「嘆きの壁」で祈るユダヤ教徒にパレスチナ人が投石、イスラエル警備隊は実弾で反撃し、双方に多数の死傷者がでた。先のオスロ合意などで約束されたイスラエル軍の撤退が進まず、日頃から不満がたまっているパレスチナ民衆は、目の前でイスラエル部隊が反撃してくる状況に忍耐の限界を越え、怒りが爆発したのである。
この聖地での惨劇に反イスラエル闘争はまたたく間にパレスチナ自治区の全地区に広がり、和平への機運は一気に冷めた。
今回の衝突事件は、一九八七年から九三年のオスロ合意まで続いたインティファーダを「第一次インティファーダ」と呼ぶのに対して「第二次インティファーダ」と呼ばれる。また事件の発端となった場所がアル・アクサ・モスクの近くであったことから「アル・アクサ・インティファーダ」とも呼ばれる。
インティファーダの流れは「イスラエル兵リンチ殺害事件」を起こす
インティファーダの勃発を境にさらに双方の対立は激しくなる。
一〇月一二日、自治区ラマラに迷い込んだ二人のイスラエル軍の予備役兵がパレスチナ群衆のリンチによって殺害される事件が起きた。アラファト傘下でインティファーダをリードしてきた武装組織「タンジーム」の主導によるものだという。イスラエルはこの事件に猛反発、パレスチナ自治政府の施設、警察署、放送局などを武装隊が本格的に攻撃、双方は「戦争」状態となる。
(一〇)バラク首相辞意を表明、次期首長選を前倒し二〇〇一年二月予定
バラクはシャロンの行動から起きたこの惨劇に大きなショックを受けた。東エルサレムをイスラエル領だと言わんばかりのシャロンの行動にによって、バラクの発表した「エルサレム分割案」は、どこかへ飛んでしまい、現実味もない空手形になってしまったからであった。
ここでバラクはまた新たな決断をした。イスラエルの次期首長選と国会議員選挙は二〇〇三年春の予定であったが、バラクはこのままでは事態の悪化が避けられず、シャロンらの圧力に抗しきれないと考え「あらためて首長選挙を実施し再選を果たし、国民の支持を得たとして一気に和平を実現したい」と決断した。この時点では前任者のネタニヤフは国会議員の資格を持っておらず、首長選でシャロンに勝つためには、パレスチナと恒久的地位交渉を進め、紛争終結の見通しを示したかった。
一二月一〇日、バラクは突如として辞意を表明し、首長公選だけを来年春に前倒し実施して国民の信を問うと述べた。選挙は来年二月となった。
(一一)クリントン大統領、「和平の基本指針(パラメーター)」提示
クリントン大統領、和平への調停に動く
一〇月一六日、インティファーダの発生など双方の対立に衝撃を受けたクリントン大統領は、バラク、アラファト両首脳と、エジプトのムバラク大統領、ヨルダンのアブドラ国王、アナン国連事務総長らをエジプトのリゾート地シャルム・エル・シェイフに招き緊急首脳会談を開き、和平交渉再開への意見調整を詰めていった。しかし、意見はまとまらなかった。
クリントン、「和平の基本指針」を示す、
一二月一九日、クリントンは大統領任期切れを目前にして和平合意に向けてイスラエルとパレスチナ双方の交渉団をワシントンに招き交渉を進めた。
一二月二三日、クリントンは「最終の和平案」として自分の考えを明らかにし、交渉の基礎として「パラメーター」と称する基本指針を提示した。指針提示にあたりクリントンは「時間は尽きようとしているが、この好機を失ってはならない」と語りかけ、政府の提案ではなく自分の案だとした上で「提示案を基に協議していくが、その方法に双方の賛同がなければこの案は大統領の任期切れ(二〇〇一年一月二〇日)で消滅する」として、五日以内に「イエスかノーか」で返答するよう迫り、双方に交渉の進展を促した。
基本指針の要点
クリントンが提示した案は明らかにキャンプ・デービッドで示していた案よりパレスチナ寄りになっていた。その主な点は、
一、境界については、ヨルダン川西岸の九四~九六%をパレスチナ国家の領域とした上で、イスラエル国家領域との領土交換で一~三%をパレスチナ領域に振り替える。また、ヨルダン川西岸とガザを結ぶ道路を恒久的に確保する。国境画定に際してはパレスチナの領域的な一体性を維持する。
二、安全保障については、イスラエル軍はパレスチナ領から三年以内に撤退し徐々に国際部隊に交替する。
三、エルサレムへの帰属問題については、エルサレム旧市街のアラブ人地区はパレスチナ側、ユダヤ人地区はイスラエル側を原則とし、聖域ハラム・アッシャリーフ(神殿の丘)の地上の主権はパレスチナが、西壁の主権はイスラエルが持つなど特別な取り決めをしていく。
四、難民問題については、イスラエル、パレスチナ二国家併存と矛盾しない解決を図る。
などであった。
クリントン案にバラクは「留保付きで受け入れる」とした。アラファトは明確な態度を示さず
一二月二七日、バラクは、留保付きでクリントンの和平提案を「受け入れる意向」を表明した。イスラエルの今までの姿勢から、大幅に譲歩した内容であるが、バラク政権として来年二月の首長選を目前にして弱みを見せられず最大の決断をした。
一方、アラファトは、クリントン案とイスラエルの示した条件ではまだ不十分だとして年内には明確な態度を示さず意見表明は年を越した。
二〇〇一年
(一)アラファト、和平へのイスラエル側の大幅譲歩姿勢にも応じず
アラファトはクリントン案に近づくが「条件」を付け受け入れない
クリントン大統領の示した和平調停案への対応は最後の山場に来ていた。クリントンの大統領の任期満了日は目前である。
一月二日、アラファトはクリントンと会合、前年末に態度を明確にしていなかった「クリントン案」について、「西壁のことは譲ってもよい」としたものの、その他事項については条件を付け、事実上の拒否に近い考えを示した。
一月二一日、アラファトの表明を受け、双方の交渉団は最後の詰めをシナイ半島のタバで始めた。イスラエル側は、何とか合意をと譲歩姿勢をとるが、パレスチナ側の「条件付き」をめぐり議論は蒸し返され、まとまらない状況になった。
イスラエル側はさらに大幅な譲歩案を示す
この状況にイスラエル側は、さらに大胆に「ヨルダン川西岸の九六%程の返還」、「難民の帰還への配慮」など大幅な譲歩を示した。
イスラエル側の譲歩は、従来からの主張からは考えられないほどの変化であった。ここまで譲歩してきたイスラエル側の姿勢にパレスチナ側がうまく乗っていけば交渉はさらに進むであろうとパレスチナ側の前向きな反応が大いに期待された。
アラファトはイスラエルの大幅譲歩案にも「受け入れられない」とし交渉不調
一月二七日まで交渉は続いた。ここまでイスラエルが譲歩してもアラファトは首を縦に振らなかった。「イスラエルのぎりぎりの案」をも受け入れなかった。
(二)和平交渉は合意のないまま終了、和平とパレスチナ独立の好機は逸した
一月、和平交渉は結局合意のないままに終了した。和平交渉で今までに双方がこれほど合意に近づいたことはなかった。仮にこの時、アラファトがこの案を受け入れアラブ関係者を納得させ、バラクがイスラエル国民の説得に成功していたならば、「パレスチナ」という国が成立していたのではないかとも言われた。和平とパレスチナ国家の独立という歴史的な最後の最大の「チャンス」は失われた。以後、このような結果を踏まえ中東の混乱はますます深く険悪になっていく。
(三)アメリカ大統領、クリントンからジョージ・W・ブッシュへ
一月二〇日、アメリカ共和党のジョージ・W・ブッシュ(一九四六~)が第四三代大統領に就任した。ブッシュは前年一一月七日のクリントンの後継を決める大統領選で民主党のアル・ゴア副大統領を僅差で退けていた。
中東和平に努力を重ねてきたクリントンは有終の美を飾れず、和平合意のないまま大統領の座を去った。
(四)イスラエル首長公選、リクード党首のシャロンが現職のバラクに大勝
イスラエル首長選が近づいてきた。バラクとシャロンの対立は顕著になった。現職バラクは和平交渉の成果を出せないでいる。このまま首長選に突入しシャロンと争うのは不利であるが、イスラエル国籍を持つパレスチナ人の支持も期待して和平交渉推進を前面に出し強気を示す。
シャロンは、「バラクは平和を約束して逆に戦争をもたらした」とバラクを攻める一方、市民の安全な暮らしを回復してみせると「治安と和平の両立」を訴えソフト面も強調してアピールした。
二月六日、首長公選制第三回目の結果、シャロンはバラクに大差で勝利した。勝利宣言のスピーチで「エルサレムは永遠にして不可分の首都だ」と対パレスチナ政策で妥協しないことを強調した。
(五)シャロン、イスラエル首相に就任、対パレスチナに強硬姿勢
三月七日、アリエル・シャロン(一九二八~二〇〇六)が首相に就任就任。労働党との大連立のシャロン政権が発足した。シャロンの首相就任で和平交渉は事実上棚上げになった。
アラブ諸国の中でイスラエルと平和条約を結んでいる国はエジプトとヨルダンの二国である。両国はシャロン政権の発足でイスラエルとパレスチナの現状を憂慮した。
四月、エジプトとヨルダンは共同で、①衝突回避措置とイスラエル軍撤退 ②ユダヤ人入植活動の全面凍結と治安維持措置の履行 ③中東和平交渉の再開などの仲介案を示した。しかし、イスラエル政府は仲介案に関心を示すが受け入れようとすることはなかった。
(六)強硬シャロン政権とアラブ側の反抗、テロの応酬続く
シャロン政権の発足にパレスチナ側は「テロ活動」などで対抗する姿勢
アラファトはイスラエル首長選でのバラクの敗退、シャロン政権の発足に「これで和平は進まなくなる」と大きく落胆した。しかしイスラエルへの対抗姿勢は崩せず、硬化していく。
PLOの中でもハマスやイスラム聖戦など「イスラム過激派」の動きは激しくなり、対イスラエル行動を強めていく。パレスチナ人民衆の間にも、イスラエルのシャロン政権の姿勢では和平は遠いものになったと感じる者がますます増えてくる。ようやく平和な暮しが取り戻せると期待していたのに将来に希望を失ったと悲観的な考えも広がり、特に若者を中心に過激派を支持し、過激派メンバーに加わる者も多く出てきた。イスラエルに対する憎しみが強まると「自爆テロ」の発生も増え、それに身を投じる若者も出てくる。パレスチナの状況は更に暗いものになっていった。
イスラエルの強硬姿勢にパレスチナは自爆テロで応酬、これにイスラエルの報復続く
イスラエルのパレスチナへの強硬姿勢にパレスチナ側の「自爆テロ」は続き,これに対するイスラエルの攻撃は止むことはなく、さらに激しく闘争が続いていった。イスラエル軍はパレスチナ自治区に侵攻を常態化していく。ハマスやイスラム戦線のパレスチナ過激派による「自爆テロ」がたびたび起きるようになるとシャロンは「断固たる報復を行う」と言明、ガザ地区やヨルダン川西岸のラマラに攻撃ヘリを投入するなど大攻撃をする。パレスチナ側は「イスラエルはテロの報復だとして、ジェット戦闘機やヘリコプターからミサイルを発射してパレスチナ人を殺害し、戦車で家も畑もぶっ壊し、我々の生活をメチャメチャにする。これには自爆テロを行いシャヒード(殉教者)になって対抗すべきだ」とガザを中心に希望を失った若者たちがパレスチナ過激派メンバーに刺激され、ますます過激思想に走り始め、「ハマス」などの過激派メンバーに入っていく。
イスラエル政府は、「自爆テロ」取締りの責任はパレスチナにある。アラファトはこれを取り締まろうとしない。アラファトや指導部は退陣せよと迫る。
イスラエル軍、PFLPのムスタファ議長を殺害
八月二七日、イスラエルはラマラのオフィスにいたパレスチナのムスタファPFLP議長をミサイル攻撃し殺害した。PFLPは直ちに「報復」を宣言した。
国際社会は「テロ」を批判し、シャロン政権の暴挙に非難を浴びせるが、シャロン側は「テロ抑止政策を打ち出せないアラファト議長への警告だ」、「テロ攻撃をしてくるから反撃するのだ」とイスラエル側の正当行為を主張する。
ブッシュ大統領は、パレスチナの「自爆テロ」を非難すると同時にイスラエルの激しい反抗攻撃と、シャロンの行動を批判するが、クリントンのように進んで仲介に入る姿勢は見せない。
ムスタファ議長を殺害されたPFLPは報復としてイスラエルのゼエビ観光相を殺害
一〇月一七日、PFLPは八月に議長のムスタファが殺害されたことへの報復だとしてイスラエルのレハバム・ゼエビ観光相をエルサレムのホテルで射殺した。ゼエビは極右政党「統一我が家イスラエル」の代表でありシャロン政権での強硬派のリーダーであった。シャロンはアラファトを非難、自治政府を「テロ組織」だと宣言した。シャロンの怒りはますます高まり、軍を西岸の自治区内へ侵攻させ六都市を占領した。「ゼエビ侵攻」と呼ばれる。
パレスチナの自爆テロはさらに多くなった。パレスチナ市民の中にはイスラエルに対する憎しみが強まると自爆テロを支持する気運が一段と高まりそれに志願する若者が次々に出てくるようになった。
イスラエルに対するテロの連続にシャロンは苛立ち、その怒りの矛先をアラファトに向ける。リクードのシャロン政権は更に強硬になる。徹底的に「アラファト降ろし」に焦点を絞ってきた。シャロンは一連の責任はアラファトにあるとしてアラファトをラマラに「軟禁状態」になるほど攻撃を加える。議長府の至近距離にヘリによりミサイルを撃ち込み、アラファトに脅威を与え、テロ活動の停止をせよと実力行使にでた。
シャロンは「テロを仕掛けてくるアラファトを攻撃するのは、ブッシュがテロのビン・ラディンへの攻撃することと同じだ。テロ壊滅への正当性はアメリカと変わるところはない」とブッシュのテロ攻撃に自分のアラファト攻撃をダブらせて正統化する。
アラファトはこのような状況打破のため、自治区向けのテレビ演説ですべての武力行使を停止するようにと呼びかける。ハマスらのテロ行為は一時小康状態となるが収まることはなかった。
一二月、エルサレムなどで四件の連続テロ事件が起きた。シャロンは徹底的にアラファトの排除を宣言した。シャロン政権は「今後一切アラファトを交渉相手としない」と決定した。オスロ・プロセスは、PLOとイスラエルが相互に交渉主体として認め合うことに支えられていたが、シャロン政権の動きは相互承認に終止符を打ち、オスロ・プロセスを崩壊させるものとなった。
九月一一日、アメリカで「同時多発テロ」事件(九・一一事件)が起きた。ニューヨーク世界貿易センタービルとワシントン郊外のペンタゴン(アメリカ国防省)が、イスラム過激派のハイジャックした旅客機を使い自爆攻撃をしたテロ事件が発生、三〇〇〇人以上の犠牲者がでる大事件となった。事件発生直後、オサマ・ビン・ラディンが声明を発表する。
(九)米英軍がアフガニスタン侵攻、カブール陥落、タリバン政権は事実上崩壊
九・一一事件はアメリカの外交、安全保障政策を根本から揺さぶった。ブッシュは、イスラム過激派「アルカイダ」とそれを擁護してきたアフガニスタンの「タリバン政権」の壊滅を目指し、「対テロ戦争」を宣言した。
一〇月七日、アメリカ軍らはアフガニスタンに空爆を開始し、拠点首都のカブール陥落を目指した。アフガニスタンを拠点にテロを指示しているオサマ・ビン・ラディンは、もともとはサウジアラビアの出身である。オサマはそのサウジアラビアが湾岸戦争時にアメリカのイラク攻撃基地を提供したことに反発しており、アメリカもサウジアラビアも敵であり、イスラエルも敵と見てシオニスト批判を展開している。
ブッシュはテロ攻撃に怒りを集中する。
一一月一三日、カブールが陥落、タリバン政権は事実上崩壊する。
二〇〇二年
(一)サウジアラビアのアブドラ皇太子、「アラブ和平案」発表
二〇〇二年二月末、サウジアラビアのアブドラ皇太子(後の第六代国王))は、同時多発テロによって悪化した同国に対する国際社会のイメージを改善したいと考え、新たな中東和平の提案を発表した。この提案はイスラエルがパレスチナ国家の樹立を認めるなら、アラブ諸国はイスラエルと正常な関係を樹立するとした「アラブイニシアチブ」を提案したものであった。「アブドラ和平案」と呼ばれる。
(二)アラブ首脳会議、「アラブ和平案」を基に和平案「ベイルート宣言」採択
アブドラ皇太子の案が発表されると「画期的な提案」として国際的にも注目され、イスラエルとパレスチナの停戦と和平交渉再開に向け明るい兆しが見えるかと期待された。
三月二八日、レバノンのベイルートで開催されたアラブ連盟首脳会議はアブドラ皇太子の中東和への提案を基に「ベイルート宣言」として「アラブ和平イニシアティブ」をまとめ、正式に全アラブの統一和平案として発表した。
宣言の要旨は、
- イスラエルは全占領地から一九六七年の第三次中東戦争前の停戦ラインまで即時撤退する
- 東エルサレムを首都とし、ヨルダン川西岸・ガザ両地区に主権を有するパレスチナ独立国家を樹立する
- 国連決議一九四号に基づくパレスチナ難民問題の公正な解決をする
- アラブ連盟加盟諸国はイスラエルを国家として承認し、安全を保障して正常な国交を結び、平和的共存を図る
という和平構想であった。即ち、イスラエルが国連決議二四二号を受け入れて、第三次中東戦争で占領した地域から撤退し、パレスチナ国家の樹立を受け入れるならば、アラブ連盟諸国はイスラエルを全面的に承認して外交・通商関係を結びイスラエルとの平和的共存を保障というものであった。
この宣言は現在でもアラブ連盟のパレスチナ問題に対する基本的な姿勢となっており、PLOや他のアラブ連盟加盟国もこれを支持している。
(三)シャロン、「テロリスト一掃」と「アラファト排除策」を加速
二〇〇二年に入ってからもパレスチナの「テロ」攻撃は止まない。一月にはエルサレムで初めての女性自爆テロも起きた。
二月、シャロン政権はアメリカブッシュ政権の「反テロ戦争」に便乗し、パレスチナ自治区へのイスラエル軍は新たな攻撃にでた。「アラファトがテロを止められないから我々が止めるのだ」とばかりに、ヨルダン川西岸のパラタ難民キャンプを「テロの拠点」だとしてして攻撃し制圧した。
シャロンの「守りの壁作戦(防衛の盾作戦)」、アラファトを軟禁、「ジェニンの虐殺」行為
三月二九日、イスラエルはアラファトを敵と宣言し、「守りの壁作戦」と称して「テロリスト一掃」名目でパレスチナ自治区に侵攻、自治政府のあるラマラを戦車で大攻撃し、前年からラマラの議長府に足止めをさせていたアラファトを「軟禁」状態にしてしまった。
これに対してパレスチナ側は反発し「自爆テロ」で対抗するが、イスラエル軍は、ラマラに続き、カルキリヤ、ナプルス、ジェニン、ベツレヘムなど主要都市を次々に制圧、ジェニン難民キャンプへも攻撃を加え市街は廃墟と化し多数の死傷者をだした。「ジェニンの虐殺」行為であった。安保理はイスラエル軍の撤退を求め、ジェニン調査団を結成し現地調査を決めたが、イスラエルはこの受け入れを拒否、結局詳細な惨状は解明できずに終わってしまった。
圧倒的な力を誇示するイスラエルの攻撃に「自爆テロ」で応戦する激しい対立に双方とも被害は大きく、結果的に「守りの壁作戦」はイスラエル、パレスチナとも被害と憎しみを生じさせる「憎しみの連鎖」は、双方国際社会から大きな非難を浴びる。オスロ合意は死文化していった。
五月一日、イスラエル軍に軟禁されていたアラファトはアメリカの仲介で軟禁が解除されるが、移動は自治区内のみに限定され、自由は奪われたままであった。
シャロンはますますアラファトを追い詰め、「アラファト排除」を主眼に動き、アラファト排除後の後継者と目される指導者たちに目を向けていく。オスロ合意を指揮したアッバスPLO事務局長、その交渉団長だったクレイパレスチナ評議会議長らがアラファトに代わり権力を持つようになった場合を考え、「アラファト後の自治政府」を念頭に置いた対策を模索するようになる。
シャロンの作戦は次第にアラファトを圧迫、パレスチナ自治政府の改革を迫ってくる。かねてからPLOへの援助資金の流れの不透明さが指摘されていたこともありパレスチナ自治政府改革の動きはアラファトを締め付けてきていた。パレスチナ内部からも「アラファトの自治政府」への不満も高まってくるとアラファト自身も「自治政府改革」を約束させられてくる。
二〇〇二年六月、シャロンはテロリストの侵入を防ぎ、自国をテロリストから守るためとしてヨルダン川西岸に「治安フェンス」としての「分離壁」の建設を命じた。分離壁の動きは以前よりあったがシャロンにより具体的になってきた。
「分離壁」はテロの侵入を防ぐ防護壁だとするが、どこへ、どのような規模で建設するかが問題である。前にもラビン首相やパレス首相の時に柵などを設けパレスチナとの境としたこともある。しかし、今回の分離壁建設計画は位置と規模から建設の意義が全く異なってきている。
建設位置は一九四八年の第一次中東戦争後の軍事休戦ラインである「グリーンライン」より東側、即ちパレスチナ側に大きく入り込んでいる。パレスチナ人の土地と水源を奪いパレスチナ人を追い出していった。これはユダヤ人入植地の拡大につながり、境界の合意がない現段階では占領地拡大をも意味し、「イスラエル領土拡張」にもつながる。また、分離壁の規模は頑丈なコンクリートで高さが四メートルから八メートルもあり監視カメラや鉄条網で守られ、何百キロにもわたり張りめぐらす計画だという。分離壁をめぐっては次第に大きな問題として後日に続いていくことになる。
(五)ブッシュ大統領、中東和平への基本姿勢を示す
ブッシュ大統領はこれまでパレスチナ問題にあまり真剣に取り組もうとしてこなかったが、イスラエルとパレスチナの争いが激化してくると重い腰を上げた。
六月、ブッシュ大統領は初めてパレスチナ問題を外交上の最重要課題に掲げ、中東和平への基本姿勢を示した。パレスチナには「今のパレスチナ指導部はテロを抑えるのではなく逆に促している。テロ組織は解体すべき」と切り捨て、「和平には新指導者が必要だ」とPLO指導部の交代などに関しアラファトの退陣にも連なる考えを示した。その上、新憲法を導入し、総選挙の実施などを求めた。そして暫定的な国境を定めた上での「パレスチナ国家の独立」を認めるものとした。一方、イスラエルに対しては、パレスチナ自治区を占領している軍の撤退と入植活動の停止を呼びかけた。その上で、三年以内に独立国家創設について最終的な合意の実現をめざすとした。パレスチナの暫定国家建設を支持、入植活動を停止し、パレスチナのテロ組織を解体するとの構想を示し、一歩進んだ姿勢であった。
これに対しイスラエルもパレスチナも大きな反応は示さなかった。イスラエルは引き続いてパレスチナ側に強硬な姿勢を続け、パレスチナ自治政府は、パレスチナ国家の独立を認めるとの提案に一定の評価を与えたがアファト議長の退陣については受け入れることができないとして無視した。
(六)シャロン、政権強化を策し「総選挙の繰り上げ実施」を決定
リクードのシャロン政権は労働党との大連立内閣である。シャロンはリクードの強化を第一に考えている。
一〇月、対パレスチナ政策をめぐる意見対立などを背景に、シャロンの政策に合わすことが出来なくなった和平推進派の労働党は連立を解消し、ペレス外相は辞任した。
シャロンは総選挙を繰り上げ、翌年の年明け早々に実施する決断をした。
(七)総選挙を前に党首を選出、リクードはシャロン、労働党はミツナ
一一月、イスラエルでは、リクードも労働党も党首を選出し総選挙に備えた。リクードはシャロンが「パレスチナ国家断固反対」の持論を曲げないネタニヤフに圧勝し引き続き党首となる。労働党は和平推進派のハイファ市長アムラム・ミツナを党首に選んだ。
二〇〇三年
一月末、イスラエル総選挙が行われた。労働党は党首ミツナを立てて選挙に望むがシャロンの与党リクードが圧勝する。リクードは議席を一九から三八へ大幅に躍進、労働党は二五から一九に減少させた。
二月、シャロンが首相に再選、オルメルトが副首相兼産業貿易労働大臣として入閣した。
(二)パレスチナ自治政府に「首相職」設置、初代首相にアッバス
イスラエルとアメリカは、以前より「アラファト排除」を画策し、アラファトの立場はそのままにして置き、実質的な交渉相手としてパレスチナ自治政府に「首相職」を設け、アラファトの影響力を排除したその首相と交渉するとの道筋を考えていた。またパレスチナの中にもその動きもあり、アラファトも首相職を設けることに正面から反対も出来ない状況になっていた。
三月、アラファトはこれに同意し、パレスチナ基本法が改正され、パレスチナ立法評議会(PNC)も「首相職新設」を決議した。
五月二日、アラファトの監禁状態は一応解かれた。
五月一九日、PLO事務局長のマフムード・アッバス(一九三五~)がパレスチナ自治政府初代首相に就いた。パレスチナ立法評議会(PNC)は、アッバス内閣を承認した。
アッバスはパレスチナのサファドで生まれ、少年時代イスラエル建国とともに難民となりヨルダンに移住。その後、ファタハの設立にも参加し幹部となり、以後アラファトと行動を共にしてきた。オスロ合意にも責任者として活躍し、PLOの事務局長としてナンバー・ツーになっていた。
アッバスは首相としての権限を発揮しようとするが、実際にはアラファトの支持、協力のもとに政策を進めざるを得ず、実権はまだアラファトにある状況下で苦労する。
(三)アメリカらカルテット、和平への行程表(ロードマップ)を発表
ブッシュ、「和平への行程表」(ロードマップ)を発表
アメリカブッシュ大統領は、イギリスのブレア首相の勧めもあり中東和平へ積極的に取り組む姿勢を示し、二〇〇二年六月に示した和平への提案を発展させた和平への行程を示す案を提示することになる。
四月三〇日、ブッシュは「和平への行程表」(ロードマップ)を発表した。カルテット(アメリカ、ロシア、EU、国連)が協力して、イスラエルとパレスチナの二国家共存に向けオスロ合意の再生とパレスチナ和平の達成を目指して関係者の交渉を再開し、パレスチナ自治政府の行政、治安などの民主化を進めようと関係者が組まなければならないとする義務を記載した和平への行程である。
ロードマップの骨子
ロードマップの骨子はオスロ合意に沿っており、二〇〇五年までに三段階に分け実行しようとするものである。
第一段階(二〇〇三年五月末まで)は、パレスチナはイスラエルの生存権を認めテロと暴力を中止する。イスラエルはパレスチナの主権を認め、ガザ、ヨルダン川西岸から軍を撤収し、入植活動を凍結する。
第二段階(二〇〇三年六月から一二月まで)は、パレスチナの憲法を制定し、暫定的な国境を持った独立国家を樹立する。
第三段階(二〇〇四年から〇五年)は、エルサレムの主権などの問題を解決してパレスチナの独立とパレスチナ紛争を終結する
(四)ロードマップの履行、イスラエル、パレスチナ双方消極的で事実上頓挫
ロードマップの履行について協議
六月四日、ブッシュ、シャロン、アッバス三首脳はヨルダンのアカバで会談を行い、ロードマップの履行について協議を始めた。ブッシュとしては大統領就任後の最初のパレスチナ問題での首脳会議であった。シャロン、アッバス双方ともロードマップを包括的に承認した形で会談は始まったがスムーズに進展しなかった。イスラエル代表はタカ派のシャロンである。和平推進派のバラク首相の時でさえ「オスロ合意」には苦労したのに、ましてや今回は強硬派シャロンである。一方、パレスチナ代表はアラファトでなくアッバスである。アッバスはアラファトの頭越しには大事の決定は出来なかった。アッバスにとってはアラファトの存在は大きかった。九月には和平合意の大きな節目となった「オスロ合意」から一〇周年になる。アッバス首相はこの記念すべき年に安全保障や行政の安定を図りたかった。アッバスは首相として努力するが首相権限だけではなかなか前に進めなかった。「大統領」としてのアラファトの意見を入れながらの交渉にアッバスは苦しんだ。
ロードマップの頓挫
シャロンも、アッバスも一応ロードマップを受け入れた形で協議を終えたが、イスラエルは消極的であり、パレスチナもアラファトが乗り気でなく、結局ロードマップは高く評価されなかった。この間にもテロは頻発、六月一〇日にはイスラエル軍により、ハマスのナンバー・ツーのランティシー暗殺未遂事件が発生する。テロが起きるとそれに報復がある。報復されればまたテロ攻撃を加える。双方衝突の繰り返しで混乱は続いた。ハマスなどによるテロは一向に止まず、懸案の治安回復についても安全保障部門の権限をアッバスに譲ることとしないアラファトとの間に意見の相違も出てきた。結局、第一段階のテロの中止さえも出来ぬままに、ロードマップの履行は事実上頓挫し停滞してしまった。ロードマップは衝突と流血が続くパレスチナの状況の下では野心的過ぎで非現実的な和平案であったといえる。
アッバス首相は「首相」の立場でパレスチナ主導に自信が揺るぎ始めた。
九月六日、アラファトとの溝を感じたアッバスは、首相の座を退くとして辞表を提出した。アラファトはアッバスの辞意表明を受けて自治評議会議長のアフマド・クレイを後継首相に指名した。アッバス内閣はわずか半年で終わってしまった。
九月九日、エルサレムなどで二件の連続自爆テロ事件が発生する。
九月一一日、イスラエル政府はパレスチナ自治政府の変動の最中に、アラファトの「追放」を閣議決定した。
九月一二日、自治政府でクレイが首相に就任した。しかし、アラファトの側近であったクレイは、アラファトが実権を握っている中での首相職はアッバスの場合と変わらなかった。
アメリカブッシュ大統領は九・一一事件以後、真剣にテロ対策にでた。タリバン攻撃を経て、イラクに照準を合わせ始めた。
三月一九日、米英軍によるイラク空爆が開始された。ブッシュは「フセイン政権は生物化学兵器や核兵器などの大量破壊兵器を開発し隠匿保持している。テロのアルカイダと手を組んで、アメリカを攻撃しようとしている。我々は自衛権の行使としてイラクを攻撃する権利がある」といわゆるブッシュドクトリンの先制攻撃論をぶち上げる。国連のイラク状況査察団は国連決議に基づき査察を行っていたがまだその結論は出ておらず、攻撃を承認していなかった。またフランス、ドイツなど多くの国も攻撃には消極的、批判的であった。しかし、ブッシュは待てなかった。アメリカはイギリスを引き入れ、米英軍はイラク攻撃にでた。イラクの大量破壊兵器除去と民主化実現の名のもとに独裁政権排除にでた。イラク戦争が始まった。三月二〇日、クエート領内から地上部隊がイラク領内へ地上侵攻した。四月九日、バグダッドは陥落、四月一一日にアメリカ政府は「フセイン政権は事実上崩壊」と発表した。
五月一日、ブッシュ大統領は「イラクでの大規模戦闘は終結」したと戦争の終結を宣言した。一二月、逃亡していたサダム・フセインは逮捕された。なお、フセインは二〇〇六年に死刑執行された。また、後日、このブッシュのイラク攻撃の判断になったイラクの大量破壊兵器の存在は確認されず、ブッシュのイラク攻撃は国際的にも大きな議論を呼んでいく。
(七)国連、分離壁の建設中止を求める決議を採択、イスラエルは建設続行
一〇月二一日、国連総会で分離壁の建設中止を求める決議が採択された。賛成は一四四カ国、反対はアメリカやイスラエルなど四カ国、棄権は一二カ国であった。国連での決議に拘束力はなく、シャロンは建設を止めることなく、さらに拡大していった。
二〇〇四年
シャロンの対パレスチナ作戦はますます現実性を増してくる。ヨルダン川西岸での分離壁の建設はパレスチナ側や国際社会からの非難にも関わらず、ユダヤ人入植地拡大に合わせて次々と進んでいった。
(一)シャロン首相、ヨルダン川西岸での対策を重視、ガザからは撤退を表明
ガザの入植地
パレスチナ自治区のガザではイスラエルが一九か所の入植地を建設しており、ガザ面積の約三〇%に七五〇〇人程のユダヤ人が入植していた。一方、残り七〇%のところに一三〇万人以上ものパレスチナ人が追いやられるような状況で生活していた。さらに、各入植地とイスラエル本土との間にはユダヤ人専用のアクセス道路も建設されていた。
一月、イスラエルのパレスチナ政策が進む中、シャロンは思い切ったガザでの政策変更に出た。シャロンは突然「ガザ地区から入植地も軍隊も撤退する」とパレスチナ側と交渉なしに一方的に発表した。
ヨルダン川西岸で進めている「分離壁」については、国際的にも非難の的になっており中止を求める声が大きかったが、シャロンは西岸対策として重要だと「分離壁」建設を進めていった。
シャロンは、ガザ地区を返還することで西岸対策の分離壁建設などの非難を和らげると同時に、防衛管理にコストが見合わず苦慮の多いガザ地区に手をかけているよりも、聖地エルサレムを包含するするヨルダン川西岸地区に重点を置くことの方がより現実的だと判断した。西岸地区の強化を進めるためにガザ地区からの撤退が得策だと決断していった。
党員の中にも撤退に反対する者もいたが、一〇月、シャロンはガザ地区からの軍撤退について、労働党の支持を取り付け国会で承認させた。
ネタニヤフらは「ガザ撤退反対」
シャロンの「ガザ撤退計画」については、イスラエル国内でも宗教党など右派や入植者からの強い反対が出た。財務大臣のネタニヤフは「ガザを手放すなどとするこの計画に反対」だとし、両者の対立は再燃した。またシャロンの腹心であったリブナット教育相も離反するなどシャロン批判勢力も強い。しかし、シャロンは苦境に立つが調整を続け計画を実行しようとする。
(二)ハマスの最高指導者ヤシーン師とランティシー師、二人続いて殺害される
シャロンは「ガザ地区返還」の前に「テロリストを壊滅させる」として大規模な掃討作戦にでた。シャロンのテロ掃討作戦は遂にハマスの中心指導者にまで伸びていった。
三月二二日、イスラエル軍はモスクで礼拝を終えて車いすで外へ出たところのヤシーン師をヘリコプターによるミサイル攻撃で暗殺した。ヤシーン師はハマス創設の後、一九八九年から九七年までイスラエル当局により刑務所に入れられており、釈放されてからもガザを中心に闘争を指導していたハマスのシンボルであった。シャロンの攻撃はヤシーン師のみで終わらなかった。ヤシーン師暗殺の僅か一カ月もたたないうちに次の攻撃にでた。
四月一七日、ヤシーン師の後を継いだハマス幹部ランティシーがガザ市内を車で移動中に武装ヘリからの攻撃で殺害された。二人の最高指導者を相次いで殺害されたハマスは激怒し、報復の機会を狙いますますイスラエルに対抗姿勢を鮮明にしていく。
アラファト体調を崩す
イスラエルとパレスチナの激しい情勢変化の中で、パレスチナの中心指導者アラファト議長は体調を悪くしていった。二〇〇〇年の軟禁状態になった頃から健康不調が囁かれていたが、二〇〇四年一〇月頃から急に体調を崩していった。多くの敵対者を抱え、自身への「排除」から「暗殺」の恐れまでの不安から今までのようなカリスマ的指導力は見られなくなっていた。体調を崩したアラファトはフランスに緊急移送された。
アラファトはいわば独断的指導者であり、後継者を育成することがなかった。アラファトが重体に陥ると急きょPLO執行委員会とファタハ執行委員会が開かれ、暫定的にPLO事務局長が議長職を代行した。
アラファト死去
一一月一一日、アラファトはフランスの軍の病院で死去した。七五歳だった。アラファトがPLO議長になってから今まで、イスラエルでは九人の首相が交代し、アメリカでは七人の大統領が登場した。オスロ合意から一〇年、その間ラビン暗殺、クリントン仲介の和平不調、シャロン対応などパレスチナトップとして長期間苦労の連続であったアラファトの生涯は終わった。太い柱を失った主導のパレスチナ情勢は大きな転換点を迎えていく。
一一月一一日、アラファトが死去すると、即日開かれたPLO執行委員会で議長職を代行していたPLO事務局長のアッバス(前首相)が後継の議長に選出された。
二〇〇五年
一月一五日、パレスチナ自治政府の大統領(議長)選挙が行われ、アラファトに次いで第二代の大統領にアッバスPLO議長が就任した。
イスラエルではシャロンのガザ撤退策について反対の動きも続く。
一月、ガザ撤退に反発する宗教党が政権を離脱した。シャロンはガザ撤退に理解を示す労働党のペレス党首を副首相とし労働党との連立内閣を発足させた。
シャロン政権は労働党が加わった新体制になった。またパレスチナ自治政府のアッバス政権も発足している。双方に首脳による会談の機運が出てきた。
二八日、シャルム・エル・シェイクにおいてシャロンとアッバスの新トップによる会談が実現した。双方のトップが直接会談するのは実に四年四カ月ぶりのことであり、エジプトのムバラク大統領、ヨルダンのアブドラ国王らも加わる四者会談の成果が期待された。双方は軍事活動と暴力の停止を宣言し、西岸六都市の治安権限の移譲、パレスチナ人拘禁者六〇〇名の解放等につき合意し和平への交渉の継続を取り決めた。しかし双方は根本的にそれぞれ問題点を抱えており、期待した会談は目立った進展がないままに終わった。
(四)レバノン内閣総辞職(杉の革命)、シリア軍はレバノン撤退
二月、レバノンのハリーリー首相がベイルート市内を自動車で移動中、爆破テロで暗殺され、シリアの関与が国際的に疑われることになった。レバノン国内でもシリアの支配に対する国民の不満が爆発、親シリア内閣が総辞職した。「杉の革命」と呼ばれる。
五月、シリアのアサド大統領はシリア軍をレバノンから全面撤退させた。
(五)イラン、大統領にアフマドネジャロ
六月、イラン大統領に保守強硬派のアフマドネジャロが当選した。
(六)シャロン首相、「ガザ撤退」を実行へ
シャロンはヨルダン川西岸での入植計画を着々と進める一方、財政的負担の軽減にもなるとガザでの入植を止めガザ撤退を実行していった。多くの撤退反対者らから「シャロンは裏切り者だ。なぜユダヤ人がユダヤ人の入植から追放し、軍まで撤退するのだ」とシャロン非難の声が高まった。しかし、シャロンは強い反対もある中、イスラエル軍を撤退させ、ガザ地区の入植地の閉鎖を強行していった。三五年間支配してきたガザからイスラエルが手を引くことの影響は大きい。
(七)ガザ撤退に反対のネタニヤフ、財務大臣を辞任
八月七日、シャロンのガザ撤退に強く反対しているネタニヤフ財務大臣は、大臣を辞任した。後任にシャロンの腹心オルメルトが任命された。
リクード内でシャロンとネタニヤフの権力闘争が激化しネタニヤフが支持されるようになるとシャロンはリクードを離れる決心をする。
一一月二一日、シャロンはネタニヤフの後任として財務大臣になっていたオルメルトらとリクードを集団離党し新党「カディマ」を結党した。
カディマは「領土の譲歩、非武装のパレスチナ国家承認」を基本方針とし労働党のペレスとも交流を持ち、対パレスチナ政策で理解をし合うようになる。
一二月、リクードの党首でもあったシャロンが離党したため、リクードは党首選を行い、ネタニヤフを選出した。ネタニヤフにとって二回目の党首である。
二〇〇六年
(一)シャロン首相脳卒中で倒れる、オルメルトがカディマの党首を代行
一月四日、シャロン首相が突然脳卒中で倒れた。シャロンは数日後に大腸虚血疾患で大腸を切除し、意識不明を続ける。三月に行われる総選挙に出馬できず、本人の意思とは無関係に政界引退を余儀なくされた。
オルメルトがシャロンの代行党首としてカディマを率いることとなる。
三月二八日、イスラエル総選挙が実施された。オルメルトが主導することになった中道右派の新党カディマがネタニヤフのリクードに大差で勝った。
四月一四日、エフード・オルメルト(一九四五~ )は臨時首相に就き、五月四日から正式に第一六代首相に就任、労働党などとの連立内閣を発足させた。オルメルトは一九九三年から二期エルサレム市長を務めた後、二〇〇三年にシャロン内閣で副首相兼産業貿易労働大臣を務め、前年八月からネタニヤフ後任の財務大臣、そしてシャロンの代行党首としてカディマを率いていた。
イスラエルでシャロンが脳卒中で倒れた頃、パレスチナの自治においても大きな変革が生じてきた。
一月二五日、一〇年ぶりに第二回パレスチナ自治評議会選挙が実施された。イスラエル国家を認めず聖戦(ジハード)を公言し、対イスラエル武装闘争継続を標榜するハマスが定数一三二議席のうち過半数の七四議席を獲得し圧勝した。アッバスの率いるファタハは四五議席にとどまった。
与党のハマスはガザのイスラム大学元学長のイスマイル・ハニヤ評議会議員を自治政府の首相に擁立した。
ハニヤは一九六三年にガザ難民キャンプ生まれの五〇歳であった。
三月二九日、ハニヤはアッバス議長に宣誓し首相に就任、ハマス主導の自治政府内閣が発足した。
イスラエルは、ファタハのアッバスおよびその周辺との接触は維持するものの、ハマス主導の新自治政府との接触を停止した。
パレスチナはアッバスのファタハとハニヤのハマスが対立する道へと進んで行くことになる。
(五)パレスチナ、「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」離反対立
パレスチナはハニヤ内閣が三月に発足してからも不安定状況は続く。
六月、七月頃にはアッバス率いるファタハとハニヤの率いるハマスの対立構図がさらに鮮明になった。双方は、次第に離反、対立、分離へと進みパレスチナ自治政府は「ファタハ中心のヨルダン川西岸地区」と「ハマスが事実上支配するガザ地区」に分離した状態となった。ガザ地区の中でファタハとハマスの衝突も起きるようになってきた。。
イスラエル軍はガザ地区から撤退しているが検問所は閉鎖されている状況下にあり、ハマスが実効支配するガザの住民は、原則としてこの地区から自由に外出も出来ないような不自由を強いられるようになる。
ガザからのイスラエル領内へのロケット弾打ち込みは続きテロ攻撃は止むことはない。
イスラエルとパレスチナは、ハマス政権が発足すると関係がさらに悪化、イスラエルはパレスチナテロへの資金流入を恐れ、二〇〇六年二月以降の関税等の還付を凍結してしまった。
歳入の半分近くを占める収入源を断たれたパレスチナ内閣は深刻な財政難に直面し、公務員の給与の未払いや公共サービスの低下が発生し、機能不全の状態に陥ってしまった。
(七)イスラエル、レバノンの「ヒズボラ」を攻撃(レバノン戦争)
六月、ガザでイスラムの武装勢力「ヒズボラ」によるイスラエル兵士(シャリート)の拉致事件が発生した。ヒズボラはレバノンのシーア派イスラム原理主義武装組織である。イスラエル軍は兵士救出のためガザに侵攻、衝突を起こす。
七月一二日、イスラエル軍は報復としてレバノンのヒズボラ攻撃のためレバノン南部に侵攻した。二〇〇年にバラクが軍を撤退させて以来六年ぶりの侵攻であった。イスラエル軍はレバノンに空爆を加え、ヒズボラはロケットなどで応戦し、戦闘に発展した。レバノン戦争と呼ばれる。ヒズボラはイスラエル軍に大きな損害を与えた。
八月一四日、安保理は停戦決議案を全会一致で採択し、イスラエル軍は国連の停戦決議を受諾した。人質奪還は達成できずイスラエルのレバノン侵攻は失敗した。
(八)イスラエル軍、ガザ撤退完了
二〇〇七年
(一)パレスチナ、「挙国一致内閣」樹立合意も内部対立激化へ
パレスチナ内部では主流派のファタハとハマスとの間での内部抗争は激化し、パレスチナ人同士の衝突で多数の死者が発生してきた。この事態を打開するため、ファタハ、ハマス等パレスチナ諸派が参加する挙国一致内閣を樹立するための協議を重ねることにした。
二月、ハマスとファタハの代表は、サウジアラビアの仲介によりメッカで会談し、挙国一致内閣を樹立することで合意した。「メッカ合意」と呼ばれる。
ハマス中心の挙国一致内閣樹立へ
挙国一致内閣の合意を受けハニヤ首相はハマスとファタハの連立を実現するため首相を辞任、三月、改めてハマスを中心にした第二次ハニヤ内閣を発足させた。国際社会は前向きな動きと歓迎した。
パレスチナに挙国一致内閣は成立したが、挙国一致とは裏腹にハマスとファタハの溝は埋まらず、二カ月も経たないうちに双方の対立が激化し、内閣は麻痺してしまった。
五月、ハマスによる「アッバス暗殺計画」も発覚するなどファタハとハマスの対立はさらに激化していった。
六月一一日、ハマスはガザを占拠し、ハマスとファタハの内部抗争は内戦状態にまでに発展した。
六月一四日、ハマスの部隊はガザ地区内の大統領府や保安警察本部を占領、ガザ地区全域の掌握を宣言した。ハマスがガザ地区全域を掌握した。
(三)パレスチナ、ファタハ支配のヨルダン川西岸とハマス支配のガザに分裂
ハマスのガザ地区全域の掌握により、パレスチナはファタハ支配の「ヨルダン川西岸地区」とハマス支配の「ガザ地区」に分裂した。
(四)パレスチナ大統領令、ハニヤ首相解任措置、首相にファイヤードを指名
六月一五日、ハマスがガザ地区全域を支配する事態を受け、パレスチナ国民憲章の大統領令により自治区全体に緊急事態の宣言が出され、ハニヤ首相は解任。ハマス関係者を排除し「第三の道」のサラーム・ファイヤード財務相が後任の新首相に指名され一六日に臨時内閣が発足した。ファイヤードは経済学博士号を持ち、世界銀行や国際通貨基金(IMF)で勤務したこともある財政通であり、財務相の経歴が長かった。
イスラエルは、パレスチナに非ハマス系のファイヤード内閣が発足したことを受け、昨年に凍結していたパレスチナ政府に対する税還付金の支払いを開始することにした。
(五)ガザのハマス、ハニヤ首相解任を拒否し、ガザ地区でハニヤ内閣継続
パレスチナ自治区は臨時内閣の成立により、ファタハが支配する西岸地区と、ハマスが支配するガザ地区に分断され、分かれて支配するようになった。
ハニヤ首相を解任されたハマス側は、「ハニヤ政権は民主的な選挙で選ばれた政権だ」とその正当性を主張し、ハニヤは解任を拒否、ガザ地区でハニヤ内閣は継続しハマスはますます先鋭化していった。
(六)イスラエル、ガザ封鎖措置、ハマスは「テロ組織」だとされ次第に孤立
イスラエルはハマスに対しては対立姿勢を崩さず、ハマスを弱体化させその脅威を封じ込めるため「ガザ封鎖」行動をとっていく。ガザのハマスは国際的にも「テロ組織」だとされ次第に孤立していくことになる。
六月、イスラエル労働党の党首選で元首相でもあったバラクが当選した。オルメルト首相はバラクを国防相に起用した。
(八)イスラエル、大統領にペレス就任
七月、イスラエルのクネセト(立法府)は大統領にペレスを選出、ペレスが第九代の大統領として就任した。イスラエルの大統領は儀礼的な存在として置かれ、実務は首相が担当する。任期は七年である。
八月、イスラエルのリクードの前倒し党首選でネタニヤフが選ばれた。ネタニヤフは二〇〇五年、シャロンやオルメルトがリクードを離れてからリクード党首として党を主導してきており、圧倒的大差で勝利した。
(一〇)アナポリスで「中東和平国際会議」開催、和平交渉再開の合意
一一月、イスラエルとパレスチナの関係が小康状態となったのを機会として、ブッシュ大統領は中東和平に向けて動いた。アメリカのアナポリスで「アナポリス中東和平国際会議」が開催された。
イスラエルのオルメルト首相、パレスチナのアッバス大統領、アメリカのブッシュ大統領、国連のパン事務総長はじめ各国より多数の代表者が出席した。
イスラエル、パレスチナ双方は、「二〇〇八年中(ブッシュ大統領の任期内)に和平合意を目指し、さらに努力すること」で合意した。
二〇〇八年
(一)ブッシュ大統領、中東歴訪へ
一月、ブッシュ大統領の任期は残り一年となった。これまで中東和平仲介に積極的でなかったブッシュは大統領任期を終える前に関係首脳と協議するため中東に向かった。
一月九日にイスラエルのオルメルト首相と、一〇日にはパレスチナのアッバス議長とそれぞれ会談した。しかし、具体的な成果はなくイスラエルに有利な現状を追認する程度で終わり、パレスチナではブッシュに抗議するデモも起きた。
ブッシュ大統領の訪問を機にハマスはイスラエルへのロケット攻撃を行った。イスラエルは報復にガザ地区を完全封鎖した。
一月一五日、イスラエル軍がガザ市街地に侵攻、連日空爆を行った。
一月一七日、パン・ギブン国連事務総長が「パレスチナ人による襲撃の即時停止、イスラエル軍の最大限の自粛」を求める声明を出したが、ハマスもイスラエルもこれを無視した。
一月二〇日、ガザ封鎖により燃料が底をつきガザ地区唯一の発電所が操業を停止した。
一月二三日、エジプトとの国境に近いラファハ検問所近くの壁が爆破され、ガザ住民が食糧や燃料を求めてエジプト側へ流出した。双方の対立、攻防は続き、一月中だけでもパレスチナ側で一〇〇人近い犠牲者が出た。
ガザは東西の幅五~一二キロ、南北四〇キロのこの狭い土地の中に分離壁が続き、一八〇万人もの人々がひしめくように閉鎖の状況下で住んでいる。ここでイスラエルとハマスが衝突を繰り返してきている。ガザの窮状は日増しに高くなっていった。
六月一九日、イスラエルとハマスはエジプトの仲介で「一二月一九日までの六カ月間の停戦」をすることで合意した。
(四)六カ月の停戦期間終了、停戦延長協議も不調、ガザ中心に交戦続く
エジプト、停戦延長の仲介
一一月、停戦期間終了を目前にしても双方の交戦は止むことはなくガザの不安定状況はピークに近づいていった。エジプトは停戦延長に向け調停を続けた。
エジプトの調停不調
一二月一九日、六カ月の停戦期間の終了日である。停戦延長に向けエジプトの調停が続いたが「ガザ封鎖解除の見込みがない」と判断したハマス側が延長を拒否、停戦延長はならず、ガザを中心に双方はまた交戦状態となった。
ハマスがイスラエルへロケッと攻撃をすれば、イスラエル軍はハマス支配のガザに激しい軍事攻撃を加える。双方の交戦状態はますます悪化してきた。イスラエルは来年二月の総選挙を控え、各会派とも対ハマスに弱気は見せられず、強硬姿勢で対抗した。
一二月二七日、イスラエルはガザに大空襲を加えた。ハマスはロケットで反撃、双方の攻撃は終わることなく死傷者も続出した。
一二月二九日、イスラエルのバラク国防相はハマスとの「全面戦争」を宣言し、各国からの戦争停止の要請にもかかわらず、双方は互いに攻撃を止めない。双方の対立、攻撃状態は年を越して続いていった。
(五)イスラエル、オルメルト首相辞意表明、カディマの党首に外相のリブニ
九月、オルメルト首相が汚職疑惑で辞意を表明すると、カディマはオルメルトの後任の党首選を行い、ツィピー・リブニを選出した。リブニは外相を務めており将来メイア首相に次ぐ女性首相と期待されていた。リブニは当初両親の影響もありリクードにいたが、シャロンと共に二〇〇五年にカディマに移っていた。
一一月四日、アメリカ大統領選で民主党のバラク・オバマが、共和党のマケイン候補に勝利した。
二〇〇九年
(一)ガザでの交戦は続く、安保理が「恒久的停戦」を決議
ガザでの交戦は年を越して続く
一月三日、イスラエル軍は空爆に加え地上部隊がガザ地区に侵攻、地上戦に突入した。パン・国連事務総長も事態を懸念し攻撃の即時停止の声明を出すがイスラエルは無視する。地上戦が拡大すればガザの壊滅は決定的である。
一月五日、ブッシュ大統領は「自衛を望むイスラエルの立場を理解する」と述べ、アメリカは停戦の条件として、ハマスのロケット弾発射の停止、エジプトからガザへの武器密輸ルートとなっているトンネルへの対応、ガザとイスラエルとの境界にある検問所の再開などを提示した。しかし、ハマスはイスラエル寄りだとして拒否した。
安保理が「恒久的停戦」を決議
一月八日、安保理は「即時停戦」の上、「恒久的停戦」を決議し、「イスラエル軍のガザ撤退」を合わせて決議した。決議は賛成一四、棄権一であった。棄権一はアメリカであり、アメリカの親イスラエル路線は続いておりイスラエル・ロビーの影響力はここにも及んでいる。
安保理の決議に対し、イスラエル、ハマス共にこれを黙殺、イスラエルの攻撃は続き、ガザの被害はさらに増していった。
(二)ガザでの交戦、多くの死傷者と地区の潰滅的被害を残し停戦
ガザでの交戦、大きな被害を残し停戦
一月一七日、イスラエル軍の大規模攻撃でガザ地区は壊滅的な打撃を受け、受け身のハマス側は「一週間の停戦」を表明した。
一月一八日、イスラエルはハマス側の表明を受け攻撃を中止した。一応攻撃は止まり暫定的な停戦となった。
一月二〇日、イスラエルはガザから軍を引き、双方が一方的に停戦を宣言した。ガザでの紛争は停止したがイスラエルのガザ地区の封鎖は継続したままであった。
「ガザ紛争」
ガザを中心とする双方の戦いを「ガザ紛争」と呼ぶ。アラブ諸国は「ガザの虐殺」と呼んでいる。イスラエルはアメリカのオバマ大統領の就任日と同じ一月二〇日にガザから軍を引くという行動を示し、「イスラエルはワシントンの動きに気を遣っていた」ともいわれる。この戦闘でパレスチナ側の死者は一四〇〇人以上にもなり、うち九〇〇人以上は民間人だという。イスラエル側の死者は市民三人を含む一三人で、あまりに一方的な「戦争」の惨状は国際的にも注目され、どのようにガザが復興できるか各国の支援と協力が期待される。
九月、国連人権理事会はハマスの対イスラエルロケット弾攻撃とともに、イスラエルのガザ攻撃を「戦争犯罪」と非難する報告書を発表した。
一月二〇日、アメリカ第四四代大統領に民主党のバラク・オバマ(一九六一~)が就任した。オバマはハワイ生まれ、アフリカ系初の大統領となった。
(四)イスラエル総選挙、リクード伸び党首ネタニヤフが議会多数派工作成功
二月、イスラエルの総選挙が行われた。カディマは二八議席で第一党を維持したが、リクードは一二から二七議席と大躍進しカディマに一議席と迫って第二党を確保し、全体では右派勢力が過半数となった。リブニ党首のカディマは第一党となったが、リクードの党首ネタニヤフが、リクード、労働党、シャスなど六党からなる議会多数派工作を成功させた。
(五)ガザ復興支援の国際会議開催される
三月二日、ガザ紛争で大きな被害を受けたガザ地区への緊急支援や経済復興などについて協議するため、エジプトとノルウェーの共催による「ガザ復興のためのパレスチナ経済支援に関する国際会議」がエジプトのシャルム・エル・シェイクで開催された。エジプトのムバラク大統領、フランスのサルコジ大統領、イタリアのベルルスコーニ首相、イギリスのブレア前首相、国連のパン事務総長、アメリカのクリントン国務長官、パレスチナ自治政府のアッバス議長ら七五の国家や機関の代表者が集まり総額約四五億ドルの支援が発表された。パレスチナ国家建設に向け、中東和平プロセスの進展の重要性を認識し合い、イスラエル、パレスチナ双方の長期の停戦の確立、早期のガザ復興の為の経済援助などを話し合った。アメリカ、EU始め各国が支援を表明した。
しかし、この会議には当事者のイスラエルもハマスも招かれておらず、イスラエルによるガザ地区封鎖が続く中だけに、いかに復興を推進するかという根本的な課題は残されたままであった。
(六)イスラエル、首相にネタニヤフ就任、第二次ネタニヤフ政権発足
三月三一日、多数派工作を成功させたネタニヤフが第一七代の首相に就任した。第一次政権(一九九六~一九九九)から一〇年ぶりに第二次ネタニヤフ政権を発足させた。
ネタニヤフ政権は労働党党首のバラクを引き続き国防相に置き、外相には右派「我が家イスラエル」の党首リーベルマンを据え、宗教政党など六党が加わり対パレスチナへの基本姿勢を確立していく。
ネタニヤフ首相はカディマを意識しながら「二国家共存」を表明するが「パレスチナ国家」の容認は限定的でリクードの基本姿勢は崩さない。「パレスチナ国家」を認めるには、①パレスチナは非武装で制空権を有しない。イスラエル軍が駐留する。②エルサレムの分割はしない。③入植地拡大は継続する。④パレスチナ人の帰還権は認めないなど諸条件が必要だとする。
(七)オバマ大統領、中東和平交渉再開に意欲
六月、オバマ大統領は就任から半年、カイロを訪問し中東和平交渉の再開に意欲を示した。「イスラエル、パレスチナの紛争解決の唯一の方法はパレスチナ国家樹立による二国家解決策だ」と述べ、イスラエルには入植地拡大の中止を強く要求、パレスチナにはテロなど暴力の放棄を求めた。
九月、アッバス議長は、プレスインタビューに応じ、イスラエルとの和平交渉について次のような見解を示した。
イスラエルのネタニヤフ政府を「問題」であるとし、「ネタニヤフ政府と話し合う共通の土台が存在しない」、「国境問題やその他基本的な問題についてオルメルト前政権との協議で到達した地点から交渉を再開すべきだ」と述べた。
いよいよ「二国家共存」、「和平推進」に向けて関係者の話し合いが必要となってきた。